命綾、結びの時
……また、あの夢を見ていた。
見知らぬ街並み。言葉も風景も異国のもの。けれど、なぜか胸の奥がざわつく。懐かしいような、不安をかき立てられるような、奇妙な既視感。
ーーまただ。何度、意識を失い……この景色を見たのだろう。
ぼんやりとした意識の中で、どこかから声が聞こえる。
『……天海、起きて』
女の声だ。知らないはずなのに、聞き覚えがある。不思議と安心を感じる声だった。
ーー誰だ、お前は。
『天海……』
呼びかけが強くなる。まるで、現実へ引き戻そうとするかのように。
不安と、何かを果たさなければならないという焦燥が押し寄せる。夢の中の風景が歪み、音が遠のいていく。
『天海!』
ーーそうだ……俺は、今……!
「……起きろ!!」
鋭く響いたのは、竜の怒声だった。
――直後。
「……っ!」
意識が覚醒し、天海は飛び起きた。視界が定まると同時に、竜とダレンが交戦している姿が目に飛び込んできた。
服の下から引き抜かれた短剣が、ダレンの手に握られている。一方、竜は素手。状況はあまりにも不利だった。
「……いい反応だ」
「……ちっ、なんだよその身体能力……」
竜が後退しつつ睨む。対してダレンは薄く笑いながら、刃を構えたまま一歩、歩を進める。
「だが、視野は狭いな」
そう言った瞬間、別の影が視界に差し込んだ。
――クレン。
竜の背後から飛び蹴りを放ち、彼の体を弾き飛ばした。竜はすぐに体勢を立て直したが、呼吸が荒い。
「今回は訓練じゃねえんだ。命、賭けろ」
「なんだよ……!」
竜が言葉を吐き出すが、それを聞いたクレンが冷ややかに告げる。
「……生かすなら、竜だな。筋がいい」
「じゃあ、殺すのはこっちってわけだ」
ダレンが目だけを動かして天海を見据える。
「悪いな。用済みだ」
そして、次の瞬間には、ダレンの姿が掻き消えた。
「……っ!」
天海の前に、風を裂いてダレンが出現する。その矛先は天海の喉元。
反射的に身を捩り、間一髪でその刃をかわす天海。しかし、直後に蹴りによる追撃。勢いのまま壁へと跳ね、衝撃が背中を貫いた。
痛みが神経を走る。それでも、天海は叫ばなかった。
ーー無理だ。まともに戦っても、勝てるわけがない。
ダレンの技量、クレンの加勢。そもそも二人は幾度となく死線をくぐり抜けてきた強者。戦況は圧倒的に不利だった。
ーー勝つには、あれしかない……!
天海の視界の隅に霊宝が映る。それを使わずして、この局面を打開する術はない。
そう判断し、駆ける天海。だがその背後から声が飛ぶ。
「……ガラ空きだぞ」
クレンだ。手にはナイフ。それが天海に突きつけられる。
ーーさっきまで竜のところにいたはずなのに……!
内心では焦りつつも、何とか反応して振り返る天海。だがナイフが天海の腹部に突き刺さる。
思わず息が詰まり、呻き声が漏れる。
「ぐ……っ!」
苦痛で身体が硬直する。だが、その刹那――
「……逃がさねぇ」
天海は呻きながらも崩れなかった。逆に、クレンの服を掴み、そのまま引き寄せた。
その背後を、疾風のごとく影が走る。
竜だった。
「ナイス……だ」
竜が呟くように言い、霊宝に向かって駆け抜ける。
合図も、打ち合わせもなかった。それでも、天海の動きを見た瞬間に、竜の体は勝手に動いていた。
二人の呼吸は、訓練以上に噛み合っていた。
「チッ……」
クレンが舌打ちし、天海を突き放すように蹴り飛ばす。
天海は転がりながらも、すぐに体勢を立て直し、竜の行方を見守った。
霊宝まで、あと一歩。
その手が届きかけた――
「――甘いな」
パァン、と甲高い音。
銃声だった。撃ったのはダレン。
霊宝に向けられた銃弾は、まるで狙いすましたかのように霊宝のすぐ脇を撃ち抜き、衝撃で軌道を逸らす。
「っ……!」
ーーこいつ、霊宝を狙い撃ちしやがった。というか銃も持ってたのかよ……!
驚愕し、思わず目を見開く竜。
その一瞬の隙を、クレンが見逃すはずもなかった。
竜の足元に滑り込むように接近し、鋭い蹴りを放つ。
「が……っ!」
竜はバランスを崩し、咄嗟に防御しようとした瞬間、ナイフが太ももに突き立った。
痛みに膝をついたところを、回し蹴りが頭部を襲う。
地面に叩きつけられ、竜が崩れ落ちた。
「――竜!」
天海が叫ぶ。無意識に足が動き出しかけた。
その前に、再びダレンの影が差す。
「油断したな……」
その手には、銃ではなく短剣。
鋭く振り下ろされた刃を、天海はしゃがみ込むように回避。だが、風が背を撫でた。
天海の反応速度は成長している。それでも、圧倒的な差は埋まらない。
「くそっ……!」
呻きながらも、崩れ落ちる体勢をなんとか支えつつ、ダレンと距離を取る。
「反応は悪くないが、それに頼り過ぎてる……やはり用済みだ」
再びダレンが銃を手にして、静かに天海の眉間を捉える。
片腕しかないとは思えないほど、持ち替えの動きに一切の無駄がない。
銃と短剣を切り替える動作は、まるで二刀流のような手際だった。
一方で、クレンは地面に倒れた竜に歩み寄っていた。
「……少し血をもらうぞ」
竜の腕を掴み、迷いなくナイフを走らせる。
流れ出る血を、舌先ですくうクレン。その動きには、どこか儀式的な不気味さがあった。
「お前……何を……?」
声を絞り出す竜に、クレンが目を細める。
「言ったろう。結晶の力は、時に能力を持つって」
「能力……?」
「俺も能力保持者だ」
その言葉と同時に、竜の体がびくりと震えた。
筋肉が異様に硬直し、目が虚ろになる。
「ぐ……っ、あ……!」
歯を食いしばり、呻き声を漏らす竜。けれど、それは長くは続かなかった。
次の瞬間、竜の表情が一変する。
無機質な目。理性の抜け落ちた、獣のような眼差し。
「……何を、した……?」
その様子を、遠目で見ていた天海が、ダレンに問いかける。
「隷従だよ。内のリーダーは、対象の血液を摂取することで、その支配権を獲得することができる。……さて」
冷たい言葉と共に、引き金に指をかけるダレン。
「幕引きだな」
「……竜」
天海がぽつりと呟く。
その目はダレンではなく、その奥――竜を見つめていた。
「それじゃあ、お疲れさん」
ダレンがそう言い放った直後。
ーーダンッ!
鈍い音が響いた。だがそれは、銃声では無かった。
乾いた風切り音。次の瞬間、天海の視界が大きく傾いた。
竜の蹴りが、突如として天海の側頭部に叩き込まれていたのだ。
「……!」
壁際まで吹き飛ばされた天海が、呻きながら床を転がる。
苦痛の中で天海が体を起こすと、目の前には信じがたい光景があった。
空っぽの瞳。
圧倒的な殺気。
そして――今までの竜とは別物のような動き。
その光景に、ダレンですら一瞬動きを止めた。
「……この身体能力……オーバーリミットか……」
ダレンが呟く。
隷従直後に発現する限界を無視した暴走ーーオーバーリミット。
問題は、今の一撃が指示によるものか、それとも自発的なものか――
一連の流れを頭の中で整理しながら。
「リーダー、これはどういうことだ!?」
目の前の出来事の疑問を解決すべく、クレンに問いかける。
「翼人の加護が邪魔してやがる……まぁ、すぐに御してやるさ」
クレンの言葉とは裏腹に、竜はゆっくりと、しかし明確に殺意を向けていた。
対象は――誰であろうと関係なかった。
「……竜」
呻きながら天海が呼びかける。だが返答はない。
次の瞬間、竜の身体が急加速。まるで時間が飛んだような一撃が、天海の腹部に突き刺さる。
「……ッ!」
地を這うように吹き飛ばされた天海が、なんとか体勢を立て直すも、顔から血が滴る。
「この速度……オーバーリミットだけが原因じゃねえな……!」
ダレンが警戒の色を強める。クレンもまた、鋭い視線を竜に送っていた。
「案ずるな。隷従が不安定でも、その契りは強固なものだ。俺たちに矛先が向くことはない」
クレンの言葉どおり、竜はひたすらに天海だけを狙い続けていた。
悪化する状況。
そして、孤立する天海。
……それでも、その目は光を失っていなかった。
全身に走る痛みよりも、竜が敵に回った現実よりも――なお、勝機を探す意志が、確かにそこにあった。
「はぁー……」
意識せず、天海が息を整える。
その様子を、竜はじっと見つめていた。
空気が軋む。わずかに張りつめたその気配とともに――。
「……っ!」
竜の姿が消えたように見えた。
次の瞬間、滑るように間合いを詰め、拳が天海の顔面を狙う。無機質なその眼が、間近に映る。
「ちっ……!」
哀れみは抱かない。感情のない攻撃に、天海も感情を殺した。
身を捻って拳を躱し、逆に足払い気味の蹴りを返す。だが竜は空気を滑るように身をかわし、即座に拳を振り抜く。
鋭い。だが見切れる。天海は紙一重で受け流す。
──身体能力は跳ね上がってる。だけど、竜ならいける。癖もタイミングも、叩き込んできた。
だが、それだけでは勝てない。守るだけでは、追いつめられる。
冷静に距離を取った瞬間。
「俺らも忘れんな」
横合いから響くダレンの声。
反応が間に合わない。天海の背に衝撃が走り、床を転がる。受け身で衝撃を殺すも、視界の先にはクレン。
天海に向けて銃口が上がる。
ーー銃声。
「……くっ!」
跳弾が脚を掠め、鋭い痛みが走る。
ーーこいつ……わざと跳ね返らせて狙いやがった……!
怯む間もない。すぐさまダレンが飛びかかってくる。
二人の連携は無駄がなく、死角もない。息の合った攻めに、天海は押される。
「ダレン、そろそろ終わらせるぞ」
「……ああ」
ダレンの声色が変わる。今までで最も冷ややかなものだった。
その瞬間、姿が掻き消える。
音だけが残る。風切り音、ガラスに反響する足音。天海の感覚をかき乱す。
反応できるはずもない速度。なのに——。
ーー行くしかねぇだろ!
天海が走り出す。狙いは霊宝。迷いはなかった。
ダレンが割り込む。短剣が喉元をかすめるが、天海は体勢を崩して刃を滑らせる。
すかさずダレンは距離を取り、銃を抜いた。
発砲――狙いは霊宝。
跳弾が霊宝を弾き飛ばす。ダレンは、あくまで霊宝に触れさせないことを優先している。
そして次の瞬間、銃を腰へ戻し、短剣を再び左手に握り直す。
ーーまた持ち替え、手慣れすぎだろ……!
それでも、天海は歯を食いしばり、突進。
防御を捨て、命を賭けた一撃――
「……血を流してでも行く気か」
ダレンが構え直し、再び霊宝に銃口を向け――発砲。
だが、その瞬間、天海は進路を変えていた。
狙いはクレン。
銃撃が三発。肩、腕、脇腹。血が吹き出す――それでも止まらない。
「……っ!」
踏み込んだ拳が、クレンの頬を捉える。
受け止めきれず、クレンは数メートル吹き飛び、肩から床に激突。
天海は油断なく背後を確認。来る。
竜の気配。反射ガラスに映るその影を見て、天海は身体を反転させ、足を振り抜く。
「悪いな、竜……!」
その回し蹴りが、竜の側頭部を捕らえ、ガラスの壁へと叩きつけた。
ダンっ! と衝撃音が走り、竜が崩れ落ちる。
「身内に容赦ねぇな」
「っ……!」
すかさずダレンが突進。短剣が天海の腹に突き立ち、血が噴き出す。
だが天海は呻きもせず、ダレンの腕を掴んだ。
「……約束、したから」
「あ?」
不意に母語が漏れ出た。意味は通じていない。だが構わない。
直後、天海から放たれた頭突き。
ダレンがぐらりとよろめく。その隙に、腕を叩いて短剣を弾き落とす。
ダレンが後退。天海は深追いせず、静かに短剣を引き抜く。
手に返ったその刃を握り締め、血の雫が滴る。
「……勇ましいたら、ありゃしねぇな」
ゼェ……と一息、天海の視線が鋭くなる。
──疲れているはずなのに、まだやれる。
普通であれば致命傷になり得る出血量と負傷。だと言うのに、天海の意識はハッキリとしていた。
それは、リーペによる恩恵だっな。
彼女の加護ーー『触謝同泉』は、本来「守護装置」として機能するものだ。肉体の強化や反応速度の向上は、あくまでも副次的な効果に過ぎない。
その真価は、命の危機に瀕したときこそ発揮される。死に至る可能性が高まるほど、加護はそれに比例するかのように持ち主を強化するのだ。
あの森で天海と竜が加速したのも、その法則に従った結果だった。
もちろん、天海はその本質を理解していない。ただ、ひとつだけ確信している。
――調子が、いい。
極限まで追い詰められた今もなお、体はまだ動けると訴えていた。
「リーダー。怪我の具合は?」
銃を手に取りながら、ダレンが声を投げる。視線の先、クレンは肩を揺らして呼吸を整えていた。
「……はぁ、はぁ……」
返ってくるのは荒い息だけ。言葉はない。
――戦闘向きのタイプじゃない。加えて隷従直後。表面の傷は浅くても、内部の疲労は深いか……。
ダレンはそう判断し、ゆっくりと天海の進路上に歩を進めた。
そして、踏み込み。
間合いを一気に詰める。リーペと対峙したときと同じ、殺気を孕んだ気迫。
躊躇はない。天海を仕留めにきている。
銃口が天海を捉えた瞬間、乾いた発砲音が二度響いた。
閃光のような銃弾が、天海の身体を撃ち抜く。
だが、どれも急所は外れていた。脇腹、肩、狙いは正確だったが、天海がわずかに体を捻ったことで、致命には届かない。
「……躱しやがったな!」
ダレンが苛立ちを露わにする。だが、その顔には確かな興味も滲んでいた。
「……まだだ」
立っていることすら奇跡に思える状態で、天海は足を踏み出す。
ダレンは構えたまま、冷静にその様子を観察していた。
「……本気で勝てるとでも?」
引き金に添えた指が微かに動く。だが撃たない。その目に焦りは一切ない。
ーー……撃たない。俺の動きを見てから反応できる、ってことか。
そう――間に合うのではなく、見切っている。それが、天海が感じたダレンの異常な強者感だった。
ならば、真正面からぶつかっても意味がない。
ーーなら。
踏み出す足に力を込めた瞬間、天海の動きが変わった。
身体が悲鳴を上げる一歩手前の領域にまで踏み込む。筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼けるような痛みを訴える。だが、止まらない。
――死線に立つ者だけが踏み込める一歩。
「……!」
微かに、ダレンの眉が動いた。
ーー読めない……今までの型を捨てたか。
一瞬の隙。それは、無意識に積み上げた修練と、極限の集中が生んだ奇跡だった。
天海が懐に飛び込む。
ダレンが即座に右手を下ろし、銃を構える――だが、その動きに先んじて、天海の肘がダレンの胸元を突き上げた。
「ぐっ……!」
拳ではない。力でもない。読めない角度とタイミングを意識した、異質な打撃。
そこに、続けざまの踏み込み。
天海の足が軸を捻り、回し蹴りがダレンの顔をかすめた。ダレンは咄嗟に首を捻って避けるが、体勢が崩れる。
その刹那――
「……っ!」
天海の指先が、ダレンの銃を弾いた。
宙に舞う銃。だが天海は拾わない。
そのまま、腹を押さえながらダレンを蹴り飛ばして距離を取る。
ダレンは素早く体勢を立て直しながら、喉を軽く押さえた。
天海から重い連撃が繰り出された事実とは裏腹に、表面上のダメージはほとんど無し。
それでも。
「……お前、ちゃんと訓練してたんだな」
思いがけない言葉がダレンの言葉から出る。
その口調に、怒りも焦りもない。ただ、事実を述べた声。
――まだ余裕がある。
天海は、心の中で冷や汗をかいていた。今の反撃ですら、ダレンを削り切れなかった。
だが、十分だった。
――次の一歩を、天海はすでに踏み出していた。
天海が、地を蹴る。
一気に詰めた――ダレンとの距離。
だがその動きすら、ダレンは涼しげに目で追い、半歩。わずかにずれただけで天海の拳を躱す。
「悪くないが、遅い」
すかさずカウンターの構えを取るダレン――しかし、
天海は自ら体勢を崩すように前方へ転がった。
まるで、わざと失敗したかのように。
だが、その逃れは、明確な意図を伴っていた。
ーーやはり、動きを変えてきたか。
ダレンが腰から取り出した二丁目の銃。それが反射的に天海の背へと向けられる。
だが、発砲する寸前――
鏡のような壁に映った像が、ダレンの思考を止めた。
――違う。狙いは、俺じゃない……!
反射の奥に、一筋の影が走っていた。
「クレン……!」
気づいた時には、もう遅い。
クレンの死角の、そのギリギリのライン。
ガラス壁の角度が、反射を不完全にする一瞬だけを突いて、天海が踏み込んでいた。
「っ……!」
クレンが銃を構えるが、追いつかない。
天海の短剣が、鮮やかな軌道を描いて銃を弾き飛ばす。
「……っしゃああ!!」
叫びと共に振るわれる第二撃――!
だがその拳は、すでに背後に回っていたダレンが打ち払い、金属の打撃音が室内に響く。
「ちっ……!」
二人の銃口が、天海を正面から挟み込む。
だが――天海の瞳は、二人ではなく、その奥を見ていた。
握った短剣を、一瞬のタメもなく――投げる。
宙を切り裂いたそれが向かった先は――霊宝。
「なっ……!」
ダレンの視線が反射を通じてその軌道を捉える。
が、間に合わない。
短剣が霊宝に命中。鋭い金属音と共に、霊宝が弾かれ、空中で軌道を変えた。
跳ね上がった霊宝が――向かう先。
そこに、竜が駆けていた。
頭から血を流しながらも、その視線の先に、霊宝を捉えている。
そして、反射光を背負いながら、その手が、霊宝に伸びる。
ーー目覚めてやがったか……!
そう察した瞬間ーークレンとダレンの銃が、天海から竜に切り替わる。
そして……パァァン……! と重い銃声が二発。
的確に竜に撃ち放たれた。
だが一足早く霊宝を手にした竜が、一振り、斜めに入れる。
瞬間、空間が裂け、銃弾すら弾いた強化ガラスが、たった一撃で粉々に割れる。まるでそれが「紙の壁」に過ぎなかったかのように。
隊員たちの姿が露わになり、次の瞬間――彼らの顔に、明確な恐怖の色が浮かぶ。
破砕音の余韻が、空間に鈍く響き渡る。
視界の先で、割れたガラスの残骸が、乾いた音を立てながら床を滑った。
竜は、霊宝を肩に担ぎ、無言で歩き出す。
その威圧感は、人のそれではなかった。
「……マジかよ」
クレンが思わず呟いた。
ダレンも無言のまま、竜を凝視する。
瞳が細まり、わずかに顎を引いた。
竜の足が、静かに前に出る。
だが、誰を見ているでもない。
その行動には、意思も、感情も、戦術もなかった。
ただ――確実に隷従は解けている。
いや、意識を失った時点で、クレンが隷従を停止したのだろう。
使えない駒を従えるメリットなど、どこにも無いのだから。
……だが、今回ばかりは、それが仇となった。
「……っ!」
クレンが、銃を再び構えた。が、それを静止させるように。
「やめろ、クレン」
ダレンがそう静かに言い放った。
「……なぜ止める?」
「このまま続けりゃ、俺らだけじゃ済まねぇ。あの壁を一撃で壊した。……次は、隊の誰かが潰される」
クレンが歯噛みする。
けれど、霊宝を手にしたままこちらに向かう竜の姿は、戦況を変えていた。
「しかも……」
ダレンはわずかに天海を振り返った。
「……こいつら、最初から敵意を持ってねぇ」
言葉の意味に、クレンは目を細める。
「命の危機に瀕している状況で、霊宝を手にし、それでもなお殺意の無い奴を、俺は敵とは見做さない……」
「……」
ダレンの言葉に、クレンは言葉を返さなかった。だが、静かにその手を下ろし、銃口を竜から遠ざけた。
それに反応するように、竜の足が止まる。
この瞬間、戦いは決した。
ダレンは溜息を吐いた。
「尋問は終了だ……安心しろリーダー。上には、俺が報告する」
それは、試す側が白旗を上げた瞬間だった。