全てを忘れて
その森には、雪の結晶が咲いていた。
堂々と聳え立つ一本の樹木から、数え切れない程の白く透き通った結晶が、花の如く咲いている。
そっと手を伸ばせば、幹からこぼれ落ちた結晶が掌に重なる。そして静かに冷たさが手に伝わってくる。だがそれがすぐに溶けることはない。
だからきっとそれは、雪でも氷でもないのかもしれない。けれど、地に落ちたその瞬間に結晶が崩れる姿は雪同然であり、その儚さにはどこか懐かしさがあった。
そんな馴染みのない木の下で、天海は目の前に広がる世界を淡々と眺めていた。
彼が何故ここにいるのか、それは本人すら知らない。
気付けばこの木の下で眠りについており、そして結晶が額に触れたことによる冷たさで目覚めた。
目覚めた当初は、見慣れない光景が頭上に広がっているというのに、その木の異様さよりも先に、雨が降っていることに気付いた。
その雨を降らす空は翡翠色であり、太陽がなくとも白昼同様の灯りが保証され、さらに雲がなくとも雨が降る。それが当たり前の世界であり、天海にとっては異質な世界。
——そう、天海はこの世界の住人ではなかった。
しかし、天海にはここに来るまでの記憶がなかった。もっと言えば自身がどこにいたのか、それすら把握しておらず、名前さえもあやふやで未だ苗字を思いだせずにいた。だからこの世界のことを単に忘れているだけかもしれない。
だが少なくとも、天海の知る限りでは空は青く、さんさんと輝く陽の光があり、雨が降れば雲が広がっていたはず。
それだけは微かに憶えている。
そんな不可解なこと、不明なこと、解らないことが多い現状の中、意外なことに天海の心情は実に穏やかであった。
決して不安感がない訳ではない。記憶の手がかりがある訳でもない。
それでも、目の前の世界と向き合う覚悟はできていた。どの道、天海にはどうすることもできないのだから。
とはいえ、それら以外は別段変わりはなく、枯れた木々が転々と立っており、地面は茶色い落ち葉で埋め尽くされている森が広がっている。
そんな世界と向き合う決心を抱えたまま、天海は自身の横に視線を移した。
そこには一人の青年が横たわっており、静かな眠りについていた。
自分と大して歳の離れていないだろう、見知らぬ男。けれど、彼が自身の弟であることは何となく分かる。
記憶もないし、根拠がある訳でもない。だが、内に刻まれた情報がそうだと訴えかけてくる。
とはいえ、今の天海からすれば赤の他人と変わらない。だから特別何か思うこともなかった。
ただその青年が風邪をひかないように、自身が身に着けていたパーカーを羽織らせてあげるくらいの優しさは持ち合わせていた。
パーカーを掛け布団代わりに使っているせいか、青年の呼吸は安定しており、凍えるような素振りは全くない。
一方で、天海は僅かに体を震わせて白い息を吐いた。雪同然の冷たく透き通った白い息。
どのくらいの時間ここにいたのかは分からないが、いつまでもここでじっとしているのはさすがに堪える。
双方ともに秋ごろの季節に対応した服装である為、上着を脱げば寒さに見舞われる。だからパーカーを脱げば寒いのは当然である。だが、寝ている最中に体温が下がることを危惧して、天海が竜に掛けたパーカーを取ることは無かった。
それでも寒いものは寒いので、少し体を動かそうと立ち上がった。
——丁度その時。
「……ん」
横たわっていた青年がおもむろに起き上がった。
眠りから覚めて雪の結晶が咲く景色が青年の視界に広がる。しかし、この世界を理解するよりも先に、天海の方に視線を向けた。
薄着姿で小刻みに震えている男が寝起き早々の目に映る。
その姿を見て青年は「……誰?」と、天海にそう一言声を掛けた。
天海を兄だと認識しないということは、この青年も記憶が無いのか、或いは赤の他人だからか。
いずれにしても、この青年が天海を知らないのは確かである。
だが天海にとって、寝起きだからか気怠そうなやる気のない声と口調、それが妙に懐かしく感じられた。
その懐かしさを心の片隅にしまい、「多分お前の兄。名前は天海……だと思う」と曖昧な、けれど至って真面目に返答をした。
青年はしばらく考えるような素振りを見せた後、「はあ?」と間の抜けた声を出した。
そう言った時の表情はさながら、頭のおかしい輩に絡まれた時同様のものであった。
当然と言えば当然のことかもしれない。何せ自身の記憶に存在しない人物がいきなり目の前で、自称兄宣言をしたのだから。加えて自身の名前も曖昧ときた。故に何らおかしな反応ではない。
「そんな顔で俺を見るな。俺がまるで可哀想な人みたいじゃないか」
思わず天海の口からそんな言葉が飛び出る。
「いや、実際そうだろ。そもそも何で俺とあんたが兄弟何だよ」
「そりゃあ……同じ親から産まれたら兄弟だろ」
「そういう話をしてるんじゃねえよ。あんたが俺の兄である証拠の有無を聞いてんだよ」
「いや、ないけど……」
実りのない問答にため息を吐く青年。
「あほくさ。さっさと刑務所か墓場にでも行っちまえよ」
「せめて病院という選択肢が欲しいところだが……いや、冗談はこの辺にして、マジな話刑務所でも墓場でもいいから、人のいるところに連れてって欲しいんだが」
「もはや救いようがないな……って、ここどこよ」
天海の意味不明な発言にいよいよ呆れ返ってしまったのだが、現在地が身に覚えのない森の中ということに気付き、青年が現状を理解し始めた。
「知らね。こんな珍妙な木のある森なんて、見たことも聞いたこともないし」
「浅学だな。てか、ここ寒すぎだろ!」
「今更かよ! というか、お前だって知識ねえだろ」
「あんたには言われたくないんだが、妄想大好き自称兄さんよぉ」
「その言い方はやめろ」
お互いそりが合わない性格のようだが、息の合った会話のテンポから、二人が近いしい間柄であることは別段おかしいことではないと思わされる。
とはいえ、ここまで青年が無下な扱いをするものだから、天海自身も疑い始めていた。
「……まあ、お前と俺の間柄は置いておくとして、どの道協力は必要不可欠だと思うんだが」
「協力? あんたと俺が?」
「仕方ないだろ。得体の知れない森で遭難しているんだから……取り敢えず、まずは情報の整理と共有かな……なあ、最初に来ておくが、あんた名前は?」
「兄を自称するなら弟の名前くらい把握しておけよ」
「……すまん」
「急に謝るなって。まあいい。名前は……竜、だと思う。多分。苗字は知らん。あんたは?」
「さっき言ったろ。天海だよ。苗字は同じく知らん」
そうして今後のプランを立てるために、お互いが持ち得る情報を提示していった。だが、不思議なことに双方とも覚えていることは極端に少なく、地名、出身地、誕生日などの自身に関する事柄すら、分からないことが多かった。
ただ、この世界が正常でないことは何となくであるが青年——もとい竜も感じているようである。
「さて、記憶については粗方話したが、記憶喪失とほぼ変わらんか。埒が明かねえな」
情報の整理、と言っても形だけのものになってしまったが、それを終えて天海は一層頭を抱えることになってしまった。
「取り敢えず、ここから動くしかないか。陽も出てないのに明るい上に、雲がなくとも雨が降る世界だから、救助を期待しても意味なさそうだし。……後、これ返す」
竜が立ち上がりながらそう言って、羽織っていたパーカーを天海に渡した。
「おう……寒いならまだ羽織っててもいいぞ」
「いらねえよ。あんたの方が寒そうじゃねえか」
「気にするな、と言いたいところだが、さすがにそろそろ堪えるな」
結局、天海は返却されたパーカーを身に着けることになった。
「ところで、竜の所持品って何がある? 悪いが、俺は身に着けている衣服以外何もないんだが」
「ん——」
唐突な名前での呼ばれ方に一竜が瞬動揺を見せたが、すぐに体中を触り始めて「いや、俺も特にねえよ」と返答した。
しかし——。
「……いや、これは」
首に触れたところで、何やらペンダントの様な物をぶら下げていることに気付き、それを掌に載せて確認する。
「どうした?」
「ペンダントだ。写真もあるのか……」
アクセサリーの部分には、銀色で長方形の箱がつけられており、形から写真入れと判断した。
「マジか。中身は?」
「急かすな。今確認する」
そうして竜が写真入れをゆっくりと開けると、そこには四人の集合写真が貼ってあった。
二人は男女のペアであり、前列の椅子に腰を掛けて写っている。そして、その二人の後方で、天海と竜が並んで立っていた。
前列の二人は恐らく両親であるのだろうが、天海と竜の関係性を含め、この写真だけではまだ何とも言えない。
しかし、これで天海と竜がここに来るまでに接点を持っていたことは明らかになった。
「どうやら、あんたの言った通り俺達が兄弟である可能性は高いらしいな」
「みたいだな……お兄ちゃんって呼んでもくれても構わないぜ」
「殺すぞ」
「冗談だよ。本気にするな」
お互いに何かしらの接点があったことが判明してなお、竜の態度は相変わらずであった。それでも天海は別段気にする様子は見せず、「話を戻すが——」と今後のことを話し合い始めた。
「動くといっても何を基準に?」
「そりゃあ、フィーリングしかないだろ。太陽も雲も無いから方角を知る術はないし、そもそも現在地が不明なんだから」
竜が真面目な顔してそう話す。遭難した際、感情任せでの行動が最善ではないことは分かっている。ただ、現状は何もかもがイレギュラーであり確かな指針もない。だから、天海も別段反論することは無かった。
実際、竜の言った通り現在地や方角を知る術は現状皆無であり、加えてどの方角も似たような景色が広がっているだけであるので、客観的な意見など無意味であった。
「まあ、そうだよな。ならもうこれでいいか」
そう言って天海が地面に落ちている木の棒を拾い上げた。竜がそれを不思議そうに見つめて「それがどうした?」と至極真っ当な疑問をぶつける。
「これを倒して、倒れた方向に進む」
「……は? 正気か?」
「この際、どこへ進もうとも変わらんだろ。予測できることなんて何一つ無いだろうし」
「だから神頼みって訳か? ……もっとマシな案は無いのか?」
「無いから神頼みなんだろ。それに死んだときは神のせいにできるという、言い訳付きだ」
「そんな理由じゃ罰が当たりそうだけどな……ならせめて、俺が棒を倒す。神よりも自分の運の方がよっぽど信用できるしな」
「……随分と自信過剰だな。どっちがやっても変わらんと思うが」
そう言いつつも天海は竜に棒を渡し、命運を託す。
そして竜がそれを無造作に立てた直後、棒はゆっくりと倒れた。それがどこへ向かっているのか。北なのか、或いは南なのか、そして生存確率が一番高いルートなのか。
依然として何一つ分からない状況であったが、最初に決めた通り、二人は棒が倒れた先へ進むことを決意した。
「せめてこの先が暖かい場所だといいな」
「俺はどっちでも」
「他人事みたいに言いやがって。死んだら棒を倒したお前のせいだからな? というか、雨冷てえな」
天海がそう愚痴をこぼす。
晴れた空から降り注ぐ雨はぽつぽつと穏やかであったが、冷え切った体に応えるのは間違いない。
「あんたが死んだら俺も死ぬ。お互い様だろ……ま、安心しろ。俺は多分運がいい」
竜がそう言った直後、彼方から聞いたこともない咆哮が響き渡る。
「……もし違ったら、こりゃあ本当に死ぬな」
「そうだな」
「だから何でそんな他人事の様に言えるんだよ」
「知らん……ああ、雨で靴がえぐいことになりそうだ」
「はぁ……我慢しろ」
そうして二人は文句を言いながらも、ゆっくりと歩き始めた。