「兄さん、そこに直りなさい」
「兄さん、そこに直りなさい」
とある春休みの日のことだ。
近所の図書館にでも行こうかと身支度を整えているところに、不意に妹が部屋に入ってきてそう言った。
腰に手を当てて、いかにも怒っていますという体で眉をひそめている。お手本のようなお怒りポーズ。いずれ漫画みたいにプンプンとか言うかもしれない。
「早くそこに座ってください。私はプンスコですよ」
言った。
この妹、自分でプンスコ言った。やべえ。
普段は真面目な優等生で通っている身内の奇行に俺は嵐を予感した。
ここまで怒ることを最近したかと、気の早い走馬燈が流れる中で思い当たってみるが、結局心当たりはなかった。
「なに胡座をかいて座ろうとしてるんですか」
「……正座でもしろと?」
まだ罪状も言い渡されていないうちに辛いことはごめんだ。
「いいえ、体育座りです」
「…………」
「早くしてください。ハリー」
目の前にいるこいつ、偽物じゃね?
そんな疑念を抱きつつも言われた通りに膝を折り曲げて、尻と踵を接地する。そして膝を抱えるように手を回す。今朝は肌寒くて少し着込んだのが災いして、全身が服で縛られて苦しい。
「さて、兄さん。兄さんが今どうして私に体育座りさせられているかお分かりですか?」
「いや……まったくないな」
視線が下がると妹の黒色のプリーツスカートが正面にやってくる。淡い青色のシャツとの組み合わせが清純そうで、兄の贔屓目からしても一層妹の美少女っぷりに拍車をかけている。
肩まで伸ばした黒髪を横に一つに束ねて、普段はおっとりとした目元がキッと細められられている。
色白だが赤みのある頬や唇は健康さを現わしていて、この機嫌の悪さが体調によるものではないことはすぐわかった。そうなるとやはり俺が何かやったということになるが、心当たりはない。困った。
それにしても間近で見上げてみて再確認したが、どうしてウチの妹はこんなに可愛いのだろうか。天は二物を与えずというが、俺の知り合いたちからも羨まれる眉目秀麗っぷりに加えて、本人の真面目な気質で勉強もできる。運動神経は人並みだが、決して悪いわけではないどころか、要領がいいのか手先が器用なのか、時間をかければ大体モノにしてみせる。先日も学校の体育の授業でやったバスケで、バスケ部相手に奮闘したらしい。
やばいウチの妹は天使じゃないか? むしろ天使じゃないか。いや天使だったわ。
「そう。あくまでしらばっくれるのね兄さん」
「待て。本当に分からないんだ。俺が何をしたっていうんだ」
細められた目が閉じられて、諦めたかのような嘆息を一つ。
妹の美少女っぷりに反して平々凡々な兄の俺だが、真面目な妹が悲しまないよう凡人ながら慎ましく生きてきた。そんな俺にとって、妹に見放されるというのは死刑を宣告されることも同義だった。
「“何をした”。ですって? これでもまだそんなこと言いますか!」
そしてポケットから取り出して俺に突き付けてきたのは、俺の秘蔵の妹成長記録だった。それがどうしたというんだ。
表紙には「桃谷飛鳥 成長記録」という、俺が精魂込めて記した筆字。
「何をボケっとしてるんですか! これは何なんですか!」
「はあ、飛鳥の成長記録だけど」
「なんでそんな呆気にとられた顔してるんですか!」
意味が分からないとでも言わんばかりに妹が嘆いた。ごめんな、バカな兄ちゃんで。
「そもそもこんなものが作られてたこともあれだけど! これとかっ、これとか! どう見ても盗撮じゃない!」
示された写真には当然だが数か月前の妹が映っている。何てことない普通の写真だ。
学校の制服に身を包み、通学鞄を持って通学路を歩いている写真。ただ妹の視線がカメラから外れているだけ。
盗撮と言えば盗撮かもしれないが、一般的なそれと一緒にされるのは俺も甚だ遺憾である。
「違う。愛だ」
「どうして毎回毎回兄さんは、私が絡んだ途端に日本語が通じなくなるのよ!」
もっと食べたほうがいいんじゃないかと心配になる線の細さだが、そこから繰り出される一撃は、嫌に腰が入っていて、俺の肺から空気を吐き出させた。
「ぐふ」
そういう妹も割と俺には肉体言語で話しかけてくることがあるのはいいんだろうか。我が家は多言語対応。
「とにかく。いいですか。これは処分させていただきます。そして今後一切こういった私を監視するような真似はやめてもらいます。わかりましたか兄さん」
「げほ、……すまんな飛鳥。妹のお願いでも、それは聞けん」
「兄さんの分からず屋ですね。もう一発いっておきますか?」
怪しく揺らいだ妹の瞳に気圧されるが、俺は己の信念を貫くために視線を逸らさずに口を開いた。
「その記録を捨てるのは別に構わん。マスターデータはパソコンの中だ。当時の思いの丈をぶつけた手書きが無くなるのは惜しいが思い出は残る」
「……ぺらぺらと私の知らなかった新事実が浮き彫りになってるんですが」
「だが飛鳥、お前を監視しているだなんて人聞きの悪いことは一切したことはないと誓う。俺はただ、妹の健やかな成長を日々記録し、安寧な日々を願っていただけだ。これからもお前の成長記録はつけさせてもらう!」
「言いたいことはそれだけですか? それじゃあパソコン破壊させてもらいますね」
なぜか俺の目の前から、パソコンの前へと移動する妹。待って待って。
「飛鳥、優しいお前のことだ。俺から生き甲斐を奪うような非道なことはしないと信じている。だが、それでもお前がやると決意をしているならば俺にも考えがある」
「へえ、私にはいつも甘い兄さんでもそういうことを言うんですね。いいですよ。何をするつもりですか」
俺の真剣な眼差しに挑戦的な視線を返す。絶対的強者。そんな漫画みたいな単語が思い浮かぶ。だが、それでも男には、いや兄には決して引くことのできない戦いがここにあった。
体育座りの姿勢から学習机の引き出しに手を伸ばす。ちょっと届かなかったので代わりに飛鳥が引き出しを開けてくれた。
「ありがとう」
「うん」
やっぱり俺の妹は優しい。
だが次の瞬間には妹の顔は驚愕に染まる。
「!? 兄さん、これ!?」
「ああ、そうだ。飛鳥作、俺の成長記録だ」
俺のつけていた青色の記録ノートと色違いの桃色で、表紙には「お兄ちゃん記録」と、性格を現すかのような簡素な一言が書かれている。
中身はまだ見ていない。昨夜妹の部屋に忍び込んだ時、たまたま見つけて思わず持って帰ってきてしまった逸品だ。
ちなみにその時俺も机の上に開いていたはずの記録書が無くなっていて、寝ぼけて仕舞ってしまったかと思っていたが、まさか妹に持ってかれていたとは。その点では驚きではあった。
「これは今回収させてもらいますね」
「待って待って」
最終兵器は没収された。
この戦い、俺の負けだ。
「いいですか、兄さんはそろそろ私離れすべきだと思うんです。このパソコンを壊すのは流石に可哀そうなので止めますが、これから一週間は私がお借りして他に有害図書もといデータがないか検閲させていただきます」
「そんな……!」
生き甲斐どころか今ある生きる糧すら奪うという所業。お兄ちゃんは絶望した。妹は天使ではなく小悪魔だった。こうなってはなりふり構っていられない。
「お慈悲を、なにとぞお慈悲を!」
「つーん」
「超可愛い」
「反省が足りないようですね」
ああつい本音が。
「ですが私も鬼ではありません。兄さんが正直にこれまでのことを悔い改め、今後はそのシスコンを直してくれるのならば、今回のことは見逃しましょう」
さあどうです? と挑発的な言葉。
「いや無理だよね」
我が妹なら分かってるだろうがそれは無理な相談だ。
死ねとでも?
真顔で即答すると、またため息を吐かれた。
「兄さん。――そこに直りなさい」