声無き・・・
これは高千穂ゆずる先生主催の「お題リレー」(http://www15.ocn.ne.jp/~yuzuru/odairirei.html)参加作品です。
独り占めしたいと思うこの気持ちは、いったい何だろうかと恵介は時々考える。
人を好きになる感覚に似ている。
しかし…そんなことはあるまいと、恵介は心の迷いを振り切ろうといつも努力してみる。
…でも…。
彼のことを理解しているのが自分だけだったらいいのに、と思う。
「お前バカか?これだけの資料で何が分かるっての?」
今日も朝から根津が電話で誰かを叱り飛ばしている。
「もういいよ、とりあえず同じの過去5年分持ってきて。午前中に。ちゃんと整理して持って来いよ。こないだみたいに俺にホッチキス留めまでさせるなよ。こっちは忙しいんだから」
それを聞いて、恵介にも電話の相手が分かった。
秘書室の前野だ。根津は『俺にホッチキス留めさせるな』と言ったが、実際にその作業をしたのは恵介だった。根津は最初の10分間一緒に作業をしていたが、その後消えた。
「そ〜そ〜、ああ?ムリ?バカか?じゃあそっちでやれば?…午前中だからな、午前中。俺は昼から会議あんのよ、会議」
根津はそう言うと投げるように受話器を置いた。
「あ〜、もうあいつら何考えてるんだろう、イヤになってきた!」
根津がボサボサの頭をかきむしるのを、恵介は黙って見ていた。すると突然根津は恵介の方を見て言った。
「なあ、中橋、今日からお前が係長やれよ」
「は?」
「もう俺あいつらの世話飽きたわ」
「何言ってるんですか、係長」
「もうヤメヤメ、一服してくる。あ、前野から電話あったら、俺ぁいないって言え」
根津は係員たちにそう言い残して部屋を出て行った。
恵介が追いかけていった時、根津は外の喫煙コーナーで1人、タバコを吸っていた。
いつもどおり。
冷たい風にさらされて、背中を丸めていた。
「係長、カゼ引きますよ」
恵介が声をかけると、根津は『ん?』としかめっつらで振り返った。
「ぁんだよ、お前、俺に禁煙しろってのかよ」
「外に出る時は上着を着て下さい」
「バカか、タバコ1本にいちいち上着なんか着てられるか」
「まあ…そうですけど」
根津が、お前も吸えと言って恵介に1本、タバコを差し出した。
恵介はありがたく受け取った。
根津がポケットからライターを出して火を点ける。恵介は慌ててタバコを口に咥えて火を貰おうとした。
風が吹いてきて、火はすぐに消えた。
「くそッ」
根津はもう一度火を点けた。そして手で火を守りながら、恵介の方へかざした。
大きく息を吸い込んで…火がついた。恵介は最初の一息、と更に大きく吸い込んだ。この瞬間が一番美味しいと思う。
そして、ふ〜っと吐き出す。
根津の苛立ちは恵介には充分分かっていて、今さら話すことなど無い。
ただ黙って2人、寒さに震えながら煙を燻らせた。
それだけで、分かり合っていることが確認できる。
そしてこの時間こそが、恵介にとって充たされる瞬間なのだった。
前野が資料を持ってきたのは、結局その日の午後5時だった。
「バカッ!お前俺に今からどうしろってんだよ、残って全部見ろってのか、バカッ!」
夕方の疲れた根津は、午前中よりももっと口が悪い。
前野はおろおろして、恵介や他の係員に目で助けを求めている。
悪いがこんな時に根津にかける言葉は無いので、皆黙っていた。
「あああ、もう、帰れ帰れ」
根津が前野を手で追い払うと、前野はホッとした表情を隠しもせず小走りでその場を去った。
「は〜」
根津は大きくため息をつくと、そのまま机に突っ伏した。
こんな時も、誰も声をかけない。
それぞれが自分の仕事を淡々とこなしているうち、定時になった。
「お先です」
数名が席を離れた。
根津が顔を上げて『おう、お疲れさん』と手を振る。
恵介も席を立った。
例の場所で恵介がタバコを吸っていると、根津が上着を持ってきた。
「お前、上着着ろ」
無造作に投げつける。
「これ、係長のでしょ」
「いいから」
根津は、押し付けるように上着を恵介の肩にかけて、自分もタバコを吸い始めた。
「困りますよ、今係長が倒れたら誰もフォローできませんから」
「いいの。俺、倒れたいのよ」
「駄目です、困ります」
「たまには困りやがれ」
そんな押し問答の末、恵介が折れて上着の袖に腕を通した。
「ぬくいですね、コレ」
「おう、ダウン入ってるもんよ」
「…で、あの資料、今からチェックですか」
「まあな」
口の悪い根津の、優しさや責任感を、誰よりも分かっているのはこの自分だと思いたい…恵介はそんなことを考えながら、根津の横顔を見つめた。
「手伝いますよ」
「いや、いいよ。お前は帰れよ」
「数字が合ってるかどうかくらいは僕にも分かります」
恵介がそう言うと、根津は俯いた。
「…そうだな」
「手伝わせてください」
「…助かるよ」
根津の、こめかみあたりの毛に白いものが混じっているのに恵介は気がついた。
…苦労性。
そんな言葉が恵介の頭に浮かんだ。
根津は3年前に離婚している。理由は分からない。
でも、他人の噂の通り、口の悪さが原因だとは思えない。どんなに口が悪くたって、ずっと一緒にいれば根津の優しさは、相手に伝わっていただろうと思うから。
結局は、仕事に心を傾けすぎたせいじゃないかと恵介は思う。
この人は、こんなに何もかも背負い込んで、本当に倒れてしまわないのだろうか。
誰か、彼を優しく抱きしめる相手は、彼を癒す相手は…いるのだろうか。
どうしてそれは自分ではできないのだろう。
そう思うと、恵介の心は焦れた。
ゆっくりしてください、と言いたい。
あなたは優しい人だ、と伝えたい。
でも、部下の自分には…そして男の自分の口からは、それらは決して言えなかった。
秘書室の資料のチェックは意外と時間がかかった。
2人とも無言で作業を進めた。
「係長、こちらはだいたい終わりましたが」
「ああ、こっちももう終わるよ、ありがとう」
2人でなんとなく時計を見る。11時を過ぎていた。
「あ〜、今から帰ったら日が変わるなぁ」
根津が時計を見ながらつぶやいた。
「朝早いでしょう、ウチに泊まりますか?」
恵介がそう言ったのに、他意は無かった。
「……」
根津が、身体の動きをピタリと止めて、恵介を見た。
その表情を見て、恵介はしまった、と思った。
係長は…自分の気持ちに気がついている。
そのことに気がついた。
実際に、2人の会話が途切れたのは数秒だろう。
しかし2人にとって長い長い数秒だった。
「あ〜、ありがとう、でも…帰るよ」
根津が口を開いた。そして、冷や汗を流す恵介が、耳を疑うような言葉を続けた。
「ハムスターに餌やらないといけないから」
「は?」
「は、じゃなくて、ハムスター」
「ハムスター、ですか…」
根津と、小動物の姿が恵介の中で全く噛み合わない。
「そうそう、妹一家が旅行でさ〜、姪っ子から預かってんだよ」
「は、はむすたーですか…」
理由を聞いて、恵介の肩からどっと力が抜けた。
「そんなわけだから、帰るわ。おまえんちは、次の機会に世話になることにする」
「ああ、はい、じゃあまた…」
秘書室の悪口を言いながら帰り支度をする頃には、あの一瞬流れた気まずい空気など無かったかのように、元の2人に戻っていた。
そして、いつものように分かれた。
根津は駅へ、恵介は歩いて10分のアパートへ。
恵介は振り返って、ほんの少しの間、根津の後姿を見送った。
「次の機会、か」
そんなものは、もう無いのだろう。
1時間電車に乗って家に帰ると、暗闇でカサコソと『預かり物』が根津を待っている。
電気を点けて、檻の中を覗き込んだ。
泊まりますかと言われたとき、固まってしまった。
中橋はヘンに思っただろう。仕方が無いが。
恵介が自分に寄せる気持ちに、気付かないことなどできなかった。
孤独な自分が誰かに想われることは、とても幸せなことのように感じた。
しかし、その想いに応えることもまた、できないだろう。
いや…。
あの瞬間、根津は少し迷った。
迷ったからこそ、固まってしまったのだ。そうでなければ『帰る』と即答していたはずだ。
そう…。
優しい気持ちに、寄りかかりたくなってしまったのだ。
大事に想われている気持ちに、ほんの少し。
それを制止してくれたのは、理性でもなんでもなかった。
根津は、檻の隙間に指を入れた。
声無き阻止者が、根津の指先を噛んだ。