プロローグ② どこかの場所
「……あれ、なんだっけ」
夢を見ていた、気がする。
そう、記憶が確かならば、俺は家にいて、昼寝。昼寝をしていたはずなのだ。
だが、目を覚ました今、石で囲われた細い通路に寝転んでいる。
さっぱり、まるで状況がつかめないのだが、仕方ない。よくわからないのだが、ここにいてもしょうがない事はなんとなくわかる。
「とりあえず歩くか」
わからないことを考えていても仕方がない。
後ろは見ても行き止まりだったが、前方には薄暗いがどうやら道は続いているようなので、とりあえず前に進んでみることにする。
というか、松明も電気も何もないのにどうしてこう薄ぼんやりと明るいのだろうか、ここは。
まあ、分からない以上、考えても無駄なのだろうけど。
さて、道なりにどれぐらい歩いたのだろうか。
景色が変わらないせいで時間も距離も、感覚があやふやだ。
そんな風に考えながら歩いていたら、曲がり角が見えて来た。ようやく訪れた変化に喜びつつ、気持ち駆け足でその角を曲がる。
すると、そこに一枚の看板が立てかけてあった。
『あなたの名前は?』
それを読んだ瞬間、背筋が凍るような不安が身体を突き抜けた。
名前。名前とはなんだっただろうか。確か、コウ。俺はコウと呼ばれていた気がするが、あったはずの本名が思い出せない。
確か俺は日本人で、大学生で、両親もいた……ような気がするのだが。はて、俺は何歳だっただろうか。
誕生日も、星座やら血液型も、何一つ思い出せない。
わからない、わからないから、進むしかない。
『疲れましたか?』
しばらく歩くと、また看板が立っていた。
疲れているか、か。答えるとするならば、疲れてはいない。
ここまでそこそこに歩いたような気もするのだが、そもどれだけ歩いたのかもわからない。
だけど、かなりの距離を歩いた様に感じる。なのに疲れていない。どうしてだろうか。
わからないから、進むしかない。
『お腹はすきましたか?』
空いていない。今更ながら、どうして俺は腕時計を巻いていないのだろうか。
あれさえあれば時間がどれだけ経ったのかがわかるのに。
たしか、持っていたはずだ。だけれどあれは、果たしてどんなデザインだっただろうか。大事な人に貰ったような気さえする。だけど、覚えていない。
わからないから、進むしかない。
『喉は乾きましたか?』
乾いていない。腹も空かないし、疲れない。俺は、一体どうなってしまったんだ?
そもそも俺は、生きているのか? もしかして俺はとっくに死んでいて、ここは死後の世界とか、そういう場所なんじゃないか?
わからないから、進むしか。
『殺してください』
どれだけ歩いたのか。通路は遂に終わった。
目の前には石だらけの風景に合わない、洋風の木製の扉。そして、見慣れた看板だけがある。
殺してください。
言葉通りに受け取るのなら、この扉の向こうには何かしらの生物がいるのだろう。
そして、それを殺せと命じられているのだ。
俺は何も考えずに扉を潜った。倫理や道徳を考えていては、俺は進めなくなってしまうだろう。
「……ギ」
扉の向こうは、通路が少し広くなった程度の、石で出来た小部屋だった。
その中央には五歳児ぐらいの子供が蹲っている。
ただしその子供は全裸であり、皮膚は緑色であり、毛という毛は一切なく、血管が浮き出た頭からは小さな角が生えているのだが。
「鬼……ゴブリン、だったか?」
「ギィ」
こちらの呟きが聞こえたのか、そのゴブリンは顔を上げ、こちらを見ている。
しばし目が合うが、興味を失ったのか、ゴブリンはまた蹲ってしまった。
周りを見回せば、ゴブリンを挟んで反対側に、入ってきた扉と同じものが見えたので、そちらに進んでみる。
扉のそばには、また看板があった。
『殺さなければ、開きません』
ドアノブを握るが、確かに鍵がかかっている。
呼吸を整え、思いっきり蹴っ飛ばしてみても、ゴブリンがびくりとこちらを伺っただけで、ドアは微動だにしなかった。
木製の様に見えるのに、軋むことすらしない扉との格闘を早々に俺は諦め、ゴブリンの元に向かう。
「ギ?」
近づいた俺を伺うゴブリンの両脇に手を入れて、ゴブリンを持ち上げる。
裸であり、それが雄だということはわかったが、やはり何も身に着けていない。
鍵をぶらさげている訳でも、隠している訳でもなかった。
こちらを伺うその顔は眼球と鼻が奇妙に大きく、まるで漫画の世界のキャラクターを現実に現したかのようにシュールだ。
その大きな目が、こちらをただ見つめている。
無言で、考える。
俺はどうしたいのかを。しかし、考えてみれば、考えるまでもなかったことでもある。
俺はくるりとゴブリンの上下を入れ替え、そのまま勢いよく地面へ彼の頭を叩き付けた。
くしゃ、という音と共に、とぷとぷと赤い血が頭から流れ出したのを、じっと見つめる。
びくびくと跳ねることで否応なく目につくそれを消したくなったので、俺はゴブリンの身体から手を離し、頭を思いっきり一度踏みつけた後、部屋の隅へと蹴とばした。
ここであいつを殺さなかったら。
この場所で、ただずっとあれと共にいることになっただろう。それは、嫌だった。
何もかもがわからなくても、先に進まなくては、何もわからないままなのだから。
扉へ向かうと、鍵はすでに開いていた。
無言で扉をくぐると、そこは先ほどとは比べものにならない大きな空間が広がっていた。相変わらず石で出来ているのに変わりはないが、中央に椅子があり、そこには女性が座っている。
「やー、これは驚いた。素質、なさそうだったのになぁ」
美人、なのだろう。髪から靴まで全身を黒で固めたその女性は目鼻立ちから何まで全てが彫刻の様に整っている。
「でも、殺せたなら。合格だ。それじゃ。もう会うことはないだろうけど、またいつか」
すとん、と。
俺が彼女に何かを聞こうとする前に、俺はいつの間にかぽっかりと開いていた足元の穴へと落とされていた。