Ep.1
ペダルを思い切り踏んで、海が見える坂道を一気におりる。
潮風が気持ちいい、と彰は潮の香りがする空気を腹一杯に吸い込んだ。
大学の講義を終えた星椰彰は急いで家に帰ろうと、もう一度ペダルを踏んだ。
「あ、彰!!」
「……こーちゃん」
赤信号が青信号にかわるのを待っていると、同じ大学に通う康介が彰に気付いて声をかける。
逢坂康介、彰とは小学校からの幼馴染みだった。
油蝉が鳴いて、更に暑さを感じさせる。信号を待つこの時間さえ長く感じる。
信号機が、さっさと渡れと言うかのように音を鳴らしながら青にかわった。
彰は力強く一蹴りして自転車に跨がり横断歩道を渡った。康介は、じゃあな、と大声で叫んで横断歩道を渡らず自分の帰路に戻った。
(家に帰ったらやらなきゃいけないことがたくさんあるんだ。正直こーちゃんについてこられなくて良かった)
横断歩道を渡ったすぐに彰の家はあった。
二階建ての一軒家で、特に綺麗な訳でもなく汚いわけでもない。庭もあり、真夏には油蝉が忙しく鳴いている。
「ただいま、舞子」
玄関を開けて第一声に、彰は人形に話しかけた。彼は返事のしないそれを抱き上げると、手ぐしで髪の毛をとかしてやる。なんとなく人形が笑ってくれたと思い、彰は人形を自室のベッドの上に座らせた。
「僕は今から昼飯持ってくるからここで大人しく待っててな」
舞子が頷いた。否、そう見えただけなのだが。
彰は舞子の頭を撫でてやり、キッチンへ向かう。
キッチンにはカップラーメンが山のように積んであり、今にも崩れそうだ。
山から二つラーメンを取り、用意しておいた湯を注ぎ入れた。湯気はもくもくと白く舞い踊り空気中に放出される。
彰が舞子と出会ったのは高校二年生の冬。今から四年ほど前のこと。
染谷の誕生日だと聞いて康介と誕生日プレゼントを買いにいった彰はレジの横に座る人形を見つけた。
フランス人形ではないが、日本人形でもない。フィギアとフランス人形のいいとこ取りのような人形が、彰の方を見て笑っている、ように見えたのだ。
「あ、あの」
レジカウンターに座る老父が穏やかな目で彰を見つめた。自分でも声をかけたことに驚きを隠せず、彰はえっと、と言葉を詰まらせた。
康介は店の奥に行ってしまい、この場には彰と老父しかいなかった。
言うなら今がチャンスだ、と彰が口を開きかけた。
「この子かな、君が気になっておるのは」
「あ、ええと。はい」
「この子は私のつくった人形だよ、ここが解れているね。なぁに、じじぃの趣味で作ったもんだ」
それにしては手の込んだ人形である。
老父は人形の頭を撫でた。
三つ編みにされた赤みがかった黒髪は艶やかで、まるで本物のようだ。右耳の上にある大きな黒いリボンが三つ編みをまとめ、程好い巻き毛が幼さを醸し出している。
ふに、と老父が人形の頬をつついた。
「可愛い……ですね」
「……そうだな」
孫娘を見守るような彼の優しい目に、彰は何も言えなかった。
康介がプレゼントのほかに色々な商品を持ってきてレジにおいた。小柄な彼は手も小さく、体格の良い女性と比べれば力も劣っているかもしれない。彰は目についた青い香水をレジにおいた。
「ほらお兄ちゃん、いっぱい買うねぇ」
「いやぁ良いもんいっぱい置いてあるからねぇこの店!」
「ははは、はいよ」
康介は購入物の入った紙袋を受け取ると、店の外へ出ていった。
老父が香水を紙袋に入れる。
「あ、あの……それ」
「わかってますよ、はい」
老父は人形を紙袋にそっと入れた。
はい、と手渡された紙袋の中から人形がこちらを見つめている。それに彰は頬を緩めて、ありがとうございますと礼をし、店を出た。
「あ、やばい。のびちゃってる」
蓋を捲ればくたくたにくたびれた麺が顔をだした。箸をもち自室に向かえば、ベッドの上で大人しく待っていた舞子が彰を迎えた。
「ただいま」
『おかえり、あきら』
そう、確かに彰には聞こえた。
ベッドを背もたれにして胡座をかいて座ると、舞子を机に座らせる。
舞子は人形だ。
だけど。
幻聴でも舞子の声が聞こえたことが嬉しかった。
彰は舞子を引き寄せて唇を重ね合わせた。