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青い蝶よ、いつからか。

作者: 奏弥

 特別なにもない、そんないつも通りの朝。

 開けていた窓から朝だというのに生暖かい風が流れ込んでいた。その風に紛れて、虫の鳴き声と水の滴る音が二重奏を奏でている。これが夜であったなら、珈琲を片手に縁側に出て、肴としての一興にでもなっただろうに。朝と夜とでは感じ方が違うのだというのは、意識を取り戻したとき初めに感じたことだ。

 関東もすでに梅雨入りで、室内の湿気は寝起きの体を生暖かく包み込んでいた。背中を包むシーツと、腹を覆う毛布。暑いというわけではないけれど、からりとした肌触りはこの寝具たちにはない。冷たい感触と張り付くような気持ち悪さだけだ。寝る前のままのシャツが寝汗で肌に張り付いてるのを、低血圧も相まってかイラ立ちを覚えながらベッドから身を起こした。

 昨日はいつ寝たのか。毛布を畳み、ふと思う。そのまま何気なく部屋を見渡した。

 机に散らばっている書類、ベッドの上に無造作に置かれている本、部屋の隅に隠されたキャンバス、衣類の山、中身が外に出た鞄。

 帰ってくるなり乱雑に鞄を置いて、仕事の途中休憩にと読書をしたのはいいがそのまま眠りに落ちた、ということになるのだろう。幸いなことに今日は休日だ。日は少し高い位置にあるが、今日の日程に左程支障はないだろう。

 何か引っかかるものを拭えぬまま、畳んだ毛布をクローゼットに仕舞い、キッチンへと向かった。




 「おい、そのカッコウはなんだ」


 珈琲を淹れる最中での、一言である。

 尋ねられた彼は振り返って、声の主を視界に入れた。

 同じ背丈の、茶髪の男。スラリとした体を覆う白いシャツに黒いパンツ、生地の上からでも裾から出てる部位からでも見て取れる、無駄のない筋肉。こういう男がモテるのだろうなと、この男を見ているとつくづく思う。


 「なに?」


 珈琲を淹れ終えて、彼はダイニングへと移動した。

 左程広くもないダイニングキッチンだが、男二人で使うには多少の空間が出来てしまう。反射する床と、綺麗に配置されたインテリア。それだけでも、住んでる住人のセンスがうかがえた。

 マグカップを備え付けの透明なテーブルに置いたところで、茶髪の男はキッチンへと移動した。


 「だからさ、ズボン。なんで履いてねえの?」


 指摘されて、彼は自らの下半身に視線をやった。ああ、なるほど。彼は納得する。ワイシャツの下から覗くのは、布地ではなく、自分の両足。生まれつき毛が薄い彼の足はとても白い。筋肉の付き方で辛うじて男と判断できるほどだ。そんな生足が、布地で隠されずに外に露出していた。いや、露出させている、といった表現の方が彼には適切だった。


 「今日暑くて煩わしかった、昨日帰ってから脱いだまま寝た」


 そう淡々と言ってのけ、彼はソファへと深く腰を下ろした。

 仕事から帰った彼は、雨が降りそうなじめっとした室内に衣類が鬱陶しくなり、服以外は全て脱いでしまったのである。纏わりつくような湿気に耐えられない。纏うものが服だけになって、その爽快感と解放感から睡魔が早くに訪れた。疲れも溜まっていることもあり、彼はそのまま眠りに落ちた。目覚めは悪かったが、カフェインがあればこの気持ち悪さも霧散するのではないだろうか。


 「だからって、そのカッコウでうろつくなよ。せめて短パンでも履いてくれ」

 「どうして? 別に、この家にいるのは僕らだけだろう? 誰に気遣って履かなければいけないんだ」

 「俺だよ。同居人が下半身裸って、複雑な心境だわ」


 男はため息をつきながら後頭部を掻きむしった。

 男同士であるのに、少し神経質ではないだろうか。彼はそう思いながらも、提案を華麗に横に流した。それよりも、珈琲である。




 朝の、なんでもない日常の一コマ。

 珈琲と、雨と、男と、自分と――。

 この少し広いダイニングで、テレビも点けずに珈琲を(すす)る。男が朝食を作る音をBGMにし、彼は眼を瞑った。そして、広がる暗い闇に草原を思い描いた。

 緑で視界を埋め尽くす。一点の雲すらない青空と、花が散りばめられている草原。果ての無い地平線は、青い空と緑の草原で交わっていた。遮蔽物は何もない、言いようもない解放感。

 そんな景色の中、青い蝶が優雅に舞っていた。綺麗なモルフォ蝶だ。黒と青のコントラスは、まるでシルクのような質感を思わせる。

 青い蝶は一羽、二羽、三羽――仲間を連れて花の上を舞う――。


 ゆっくりと目を開けて、彼は余韻に浸った。

 モルフォ蝶のような、綺麗な青を表現するには、原色だけでは難しい。事実、あれは光線を屈折させて青く見えているだけだ。ただの青で描くと、小学生の風景画にしかならない。それに、人が自然の中で最も身近に接する晴れた空の青色でさえ、光の波長より小さな空気分子が短い波長をより多く散乱するレイリー散乱によるものなのだ。本当の青とは何か、彼には一生の課題であった。だからこそ、青を見ると感動する。地球の青ももう見慣れてしまったが、注目されていたあの頃が懐かしい。

 そんなことを考えながら、彼は一口、珈琲を啜った。


 「なぁ、もう絵は描かないのか」


 そう問われ、彼ははっとなった。

 心の中を見透かされたようなタイミング。一瞬、返事に窮する。


 「……描かない。それにブランクがあるし、描く気もない」


 嘯いて珈琲を飲む。本当は一日たりとも思い描かなかった日は無い。風景を。日常を。切り取ったような、あの感動を。それら全てをキャンバスに描きたい衝動を。

 それでももう、描くことはないのだ。


 「そう、か」


 包丁の刻む音が途切れ、次いで硬質な音が擦れる耳障りな音が耳に入った。どうやら炒め物らしい。朝から油を使うのかと、彼はため息を吐いた。

 湿気の中、開けた窓ガラスから風が流れこんでいる。気まずさも全て流して、またいつも通りの空気が訪れる。単純なものだと、彼は思った。自分のこの感情は、とても複雑であるのに。


 ある童話に「幸福の象徴である青い鳥の話を聞かされ探しに行くも、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にいた」という物語があったなと思い出す。


 青い鳥が、幸せの象徴とされる理由。幸せは、気付かないうちに目の前にあるのだというオチ。

 もし、青い蝶が舞い込んできたらどうだろうか。アゲハでもいい。幸せは訪れるだろうか。


 ダイニングの壁に掛けられている絵画――【その青よ、】は、彼が描いたものだ。繊細な筆遣いと色彩。蝶が幾重にも折り重なってできるバラの絵。青を惜しみなく、そして綺麗に表現している。

 彼があの日最後に描いた、絵だ。


 それを見つめながら、彼は待っていた。

 朝食ができるのを、珈琲を飲みながら待っていた。

 こんな朝を、きっとこれからも過ごすのだろう。

 それも悪くないなと、思えるくらいには乗り越えられたのだ。もう、大丈夫だ。


 青い蝶が住むこの家に、幸せが訪れてほしい。


 そう、思った。


特別なことはなかった。

ただ、なんでもない、そんな日常の一コマを書いてみたかった。


それだけ。


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