ホームワード・バウンド
さあ、困ったことになった。
部屋には丸窓が計八つある。が、すべて顔面サイズだ。開閉も不可能で、明かり取りの用途しかない。「ぶち割って外に出る」という芸当はできないだろう。万が一そうするというなら「壁ごと」だが、あいにく俺は怪力サムソンじゃない。体力測定では平均値男と呼ばれていたくらい、腕力も握力も人並みだ。
ちなみに「怪力サムソン」とは、旧約聖書に出てくる超人だ。生まれてから一度も切ったことがない髪に怪力の源があった。しかし敵の女に騙され髪を切られてしまい、ただの人間に。その後、敵に捕まり目をえぐられ、両腕を鉄鎖につながれたあげく見せ物となった。が、生きてさえいれば髪はまた伸びる。
怪力を取り戻したサムソンは、敵の神殿を破壊して復讐を果たした。だが、みずからもその下敷きになって死んでしまうという……うらやましくない男だ。
それはさておき。この部屋、ほかにも難点がある。ベッドとクローゼットと小さな丸テーブルだけで埋まってしまっていて、かなり窮屈だ。六畳……あるのか怪しい。漆喰の壁と剥き出しの梁、全体的にアンティークな感じでまとまっているが、息が詰まる。開かずの窓がそこに追い打ちをかけている。
当直の先生でも、もうちょっとマシな部屋に泊まるだろう。こう、センスはないが利便性のある——ここはカップラーメンの湯を沸かすガス台もなければ、トイレもない。ただ寝るだけの部屋だ。くどいようだが、極めつけに窓が開かない。そのうえ小さい。
空気の入れ替えはどうするんだ。ひょっとしなくても酸欠にならないか?
俺は致し方なくベッドに腰かけた。クッションがきいている。枕も羽毛がふんだんに使われているらしく、フワフワだ。おかげで、どっと疲れが出てきた。もともと疲れは感じていたが、プラス睡魔が襲った。
俺の明日はないかもしれない。だが眠気に打ち勝つことはできなかった。
***
爆睡し、スカッと目覚めた。おかげさまで、まだ生きている。
上体を起こしてみると、いつのまにか食事を乗せたワゴンがベッド脇に置いてあった。せまい部屋が一段とせまくなったわけだが、食事なら文句は言うまい。食わせてやろうという気持ちがあるということは、当面は生かしておいてくれるのだろう。よりよく解釈するなら「殺すつもりはない」という意思表示だ。
それにしてもシャレたワゴンだ。ステンレスみたいな無機質な感じではなく、乳白色で磁器っぽいツヤがある。二段式で、野バラが描かれているところなんか、高級感ただよっている。
上段にある銀色のドームカバーを取ってみると、おかずは鳥らしき肉料理だった。となりのバスケットにはロールパン。下段には茶器がそろえてあり、ティーポットはまだ温かい。運ばれたばかりだと思われる。窓の外もやや暗い。今がちょうど夕飯時なのだろう。
なんの肉かわからないところが恐ろしいが、この世界の者が食しているものだろうし、遠慮なくいただくことにした。
「う、うまっ」
肉はガキのころ一度だけ食べた七面鳥に近い味。パンは焼きたてで、紅茶は香り高い。こんなまともな食事は近年稀だ。俺は夢中になって食べた。
「ごっそさん」
あっというまに完食。腹が満たされたので、あらためて部屋の中を見まわした。クローゼット脇の壁につけられた小さな棚に一冊の本をみつけた。言葉が通じるのだから文字も読めるのではと期待し、立ち上がって手に取ってみた。
革製の表紙。B5サイズで三センチほどの厚み。少し古めかしいので、やぶかないよう、そっと開いた。
「……うーむ」
眉間にシワが寄った。見たことのない文字だった。漢字どころかアルファベットやキリル文字、ハングル文字ですらない。解読不能。しかたないので、ところどころにある挿絵を眺めた。
羽根の生えた小さな妖精。
カゴに捕らえられている妖精。
そのカゴを持ち、剣を振りかざす人間。
森林火災。
木こり。
身を横たえる妖精たち。
王冠を乗せている男。
両腕を広げている、長い髪とヒゲの老人。
銃を構える数人の男。
なにかのシンボルマーク。
人と体格差のない妖精。
妖精と人間と、そのあいだに立つ男。
わかったぞ。これはファンタジー小説だ。字が読めれば退屈しのぎになっただろうに、惜しいことだ——未来の俺がここにいたら「ちげーよ!」と突っ込みを入れるところだが、あいにく今の俺は本気でそう思っていた。そもそも『歴史書』なんていう堅苦しいものは、俺の許容範疇を越えている。
やむなく本は棚に戻した。しかし、ほかに娯楽らしきものがない。
たーいくつ。て、待て待て。監禁中だったよ。少しは身の上を心配しよう。どうやって罪を軽くするのか考えろ。弁護士プリーズ! つか、どの程度の罪なのか判明してないな。どうなってんだろ。あのハリウッド、まだ長老と話してんのか?
ドアに目をやった。するとガチャッと開いた。
ん? あれ? 鍵開けた雰囲気なかったな。ひょっとして無罪放免になったのか? そーだよな。冷静に考えたらケツ汚さなかっただけだぜ。褒められたって怒られることじゃない。
だが部屋に入ってきたクレイは、硬い表情をしていた。
「カワナミ、おまえ、本当の名は?」
ギクリ。
え? そこに戻る? 自己紹介からリスタート? ……なんか、また誤解されてるっぽいな。頭痛い。クレイの視線も痛い。どうしよう。
互いに汗をにじませながら、しばらく無言で向かい合った。苦手な沈黙だ。
うーむ。ここは正直に答えたうえで誤解を解くのが最善かもな。
俺は決心して口を割った。が、そのわりにちょっと挙動不審な態度で答えてしまった。本番に弱い日本人の典型、それが俺である。
「カ、カワナミ、トイチだ、けど」
かみかみだ! まずい! 怪しい!
「トイチ、か」
クレイは大きく息を吸って反復した。
トイチという名前に反応するなんて、やっぱりそこがネックなんだな。この世界の住人は。
「あ、あの、たまたま、そういう名前なだけで、エンブレムと俺は無関係です」
いまのうちに弁明しておこうと、俺は早口に説明した。が、「エンブレム」という発言にクレイは尖った耳をピクピクさせた。
「誰がエンブレムと関係あるのかって聞いたよ?」
ぎゃー! 墓穴!
「で、ででで、でもっ、本当に偶然、そういう名前なわけで」
俺は必死に否定した。しかし、クレイはさえぎるように強く舌打ちした。
「バカにしてんのか、おい。学校は出てないが知識はある。イチとは四大元素のイチだ。火のイチ、水のイチ、風のイチ、土のイチ。最も小さい値のイチだ。この世ではエレメンタルブレイカーのみが、この最小のイチを精製できる」
「つ、つまり?」
「名前にイチの文字を使用していいのは、エレメンタルブレイカーだけだ」
知るか!
俺は険しい顔で腕組みし、心底うなった。なにかラチがあかない。ここはイチかバチか異世界人であることを告白しよう。そのほうが解決早いに違いない。
「申し訳ありませんが、それ本当に俺じゃないです。俺は地球って星の日本という国に住んでいました。つい昨日か、おとついまで。そこでは名前にイチがつくヤツなんて五万といるんです」
「それは知っている」
ガクッ。えー? じゃあなんで納得してくれないんだよー。
「試練の場に選んだところだろ? 知ってるぜ。いましがた長老から説明受けたところだ。それより勇者どもはどうした。一緒じゃねえのか」
勇者どもって……あの最強トリオと桜井のこと、だろうな。まったく、どこが勇者だよ。ロクな思い出ねーよ、くそっ。
「人違いだとわかって、またあっちに戻っていきました。それで俺、置いてかれて最悪なんですけど、どうにかなりませんか」
「人違い?」
「そう人違い。だから、どうにかしてください」
「どうにかって?」
「元の世界に返してもらいたいんです」
「妖精の粉がつかなかった人間を?」
クレイは不敵に笑った。映画でよく観るシーンみたいだったが、これは現実だ。俺はゾッとした。
「なめてもらっちゃ困るぜ、トイチ様? 勇者の目にとまって、こっち流されて、名前がトイチで妖精の粉をつけないなんて条件そろえて、人違いだと?」
「よ、妖精の粉?」
「階段に使ってる石の粉だよ」
ああ、あのベビーパウダーか。さすが異世界だな。由来とか成分とか原理がまったく未知だ。
しかし妖精の粉というと、ピンクやゴールドにキラキラ輝いていて、身体にパパッとふりかけ楽しいことを想像すると空を飛べちゃうアイテムだろ。階段なんかにあっていいのか。
「……とにかく本当に身に覚えのないことで、目えつけられてもどうしようもないんです。もし戻せるんなら、戻してください!」
顔の前で手を合わせて、真剣におがんだ。
もうマジで信じてもらわなければ困る。街人に無視されようが、レジ待たされようが、生まれ育った世界ほどいいものはない。異世界は心細い。これでもし言葉が通じなかったら即アウトだ。
法律はむろん、一般常識も知らない。文字もわからない。地理的知識も皆無。十八すぎた平凡な頭で一から学習しなおすのは厳しすぎる。
そもそも学校に通わせてもらえるのか疑問だ。家庭教師がつくとも思えない。納税制度があるかどうかも不明だが、あるとしたら、先祖代々この地に税金払ってこなかった者の末裔を誰が養うというんだ。そんな甘い世の中、存在するわけない。
再び向かい合って沈黙すること数分。クレイは、それはそれは深いため息をついたあと応えた。
「わかった、戻してやる」
「い、いいんですか? ホントに?」
「ああ」
やっ……たー! クレイ、あんたは俺の救世主だ! 迷惑だろうがそういうことにしておいてくれ! 一生恩に着る!
そんな心地でクレイを見つめていたものだから、きっと目がウルウルしていたのだろう。クレイは引き気味に苦笑いした。
「断っておくが疑惑が晴れたわけじゃねえぞ? さっさと英雄選んで帰ってこいと言いたいところだ」
え、英雄か。英雄ってそもそもなんだ? 人助けする人のことじゃねえの? 俺、助けられるどころか放り出されたんだけど。
「じゃあよ、さっそく準備するから、こっちこい」
「は? あ、はい!」
おお! さっそく返してくれるのか! いいヤツだな、クレイって。
で、実際に俺を返してくれるのは長老と呼ばれている男だった。長老というからには、長い白髪に白ヒゲの老人かと思いきや、意外に若いナイスミドルである。
紺色の髪と青い瞳。ハンサムでスタイルも良く、威厳がある。
この世界はあれか。美男美女しかいないのか。いやいや、少なくとも外にいた住人は普通だった。もし異世界人じゃないとしても、俺の居場所は確実に「この建物の外」だな。
俺は萎縮しつつ長老の前に立った。すると、
「そんなに異世界へ行きたいというからには、なにか深いお考えがおありなのでしょうが、思いなおされてはいかがです?」
と開口一番に言われた。これは、なんちゃらブレイカー前提の台詞だよな。やれやれ。
俺は背筋をのばし、もっともらしく答えることにした。
「俺の決意は変わりません」
「おいおい、長老がああ言ってんだから、もう少し考えろ」
クレイが口出しした。「返してやる」と言いながら、内心は返したくなかったようだ。だが俺は帰りたい。自分の気持ちはハッキリ伝えよう。
気合い入れてクレイの意見を拒否しようとしたところ、さきに長老が発言した。
「こら、トイチ様に対して、なんという口の利き方だ」
クレイは笑いながら肩をすくめた。
「そりゃどーも。なにしろ教養がないもので。しかしトイチ様のことは尊敬しておりますよ〜?」
長老は沈痛な面持ちで、ため息ついた。
「これは粗雑だが心の正しい男です。許してやってください」
俺はあせって首を横にふった。
「いや、俺のほうが年下だし、別に気にしません」
「そうですか。さすが、お心が広い」
「い、いや」
「で、お気持ちは変わりませんか」
「はい」
「わかりました」
長老はうなずき、手にしていた杖をかざした。持ち手の部分に王冠の形をした宝飾品がついている、金色の立派な杖だ。杖は黒い光を集め、放つ。
俺は目を閉じた。
***
見覚えのある通りに立っていた。通っていた高校の近くだ。書店があって、ファミレスがある。夕焼け空の下。人通りはまばら。
誰にも見られてなかっただろうな、おい。返すなら家にしてほしかったが、つながっている場所が違うのだろうか。それとも使い手の意思の相違か。はたまた杖の性能か。
とにかく「帰って来た〜!」と歓喜の叫び声を上げたいところだが、まっさきにマントをはずした。こんな浮いた格好で歩いて帰るなんて、冗談じゃない。
マントをたたんで小脇にかかえ、俺は猛ダッシュで家に帰った。
住み慣れた家。使い慣れた部屋。間違いなく元の世界だと確認して安堵のため息をつき、さっそく着替えた。クレイに買ってもらった服は、申し訳ないが衣装ケースの奥で永遠に眠ってもらう。ブーツは置き場がないので、とりあえずベッドの下につっこんだ。
あとはケータイで日付を確認。大丈夫。二日しか経っていない。あさってからは、いよいよ大学生活がはじまる。別になにもないだろうが、それでいいのだ。なにごともないのが幸福の基本だ。
***
こうして俺の日常は戻ってきた。いま平凡に大学へ通っている。ただ少し変化があった。街人のシカトにあわなくなったのだ。コンビニでも待たされず、同じ大学に通う者たちからも普通に挨拶される。いい変化だ。
というか、これが真の平凡だろう。平凡平凡いいながら、非常識な日々が続きすぎてマヒしていたぜ。アブネーな。
まあ、それは置いといて。
変化はまだある。母が週末にはメシを作って待っているようになったのだ。それにともない、父も上司や同僚の誘いを断って家に帰るようになった。両親と食卓を囲む機会が増えたのだ。
母は言う。
「あなたを大学にやろうと思って、母さん、ずっと仕事がんばってきたけど、お休み増やしてもらうことにしたの。こうやって家のこともできる余裕を持たなくちゃダメだと思って」
泣きそうになった。やっぱり親は親だ。無関心なように見えて、実は俺のことを第一に考えていたのだ。異世界で情緒不安定になっていたとはいえ、少しでも親の愛を疑ったことが恥ずかしい。
あとは学食で一緒にメシ食う仲間もできたし、ゲーム機も買った。ちっぽけだが俺の器にあった喜びだ。ずっと望んできた真の平和だった。
それから、五月、六月、七月と、月日はあたりまえに過ぎた。中二の秋からこっち、自分の身に起きていたことが嘘のようだ。
夏休みには自動車学校に通う。免許を取ったら数人の友達とレンタカーでキャンプに行く予定だ。無論その合間にも、海行ったりカラオケしたり合コンしたりと、イベントめじろおしだ。
こんな楽しい人生が待っていようとは思っていなかっただけに、俺はかなり浮き足立っていた。ちょっと調子に乗っていたかも知れない。バイトして小銭を貯め、少しリッチな気分になったのも良くなかった。
なんにしても、異世界のことを記憶から葬り去ろうとしていたことでバチが当たったのかも知れない。まもなく夏休み突入という、その日。
悪夢は再び、やって来た。