ワンダーランドと心の現実 その参
飢えと渇きから解放された俺は、脳に糖分が補給されたせいか思考回路が正常に戻った。ゆえに「自己紹介なんて名字でいいじゃん」という単純な答えを導き出すことができ、あらためて二人に向かった。
「あ、申し遅れました。俺、カワナミっていいます」
「ホントに、おせえ」
クレイは呆れ顔と怒り顔、半々で応えた。
ごもっとも。命の恩人にいまさら名乗るなんて、失礼きわまりないよな。
「で? なにがありゃ、あんなところで行き倒れんだ?」
「このへんのこと詳しくないんです」
「迷子かよ」
「はあ」
「ちっ。とにかくよー、ここで俺の世話んなったからには、長に目通りしてもらうぜ? 覚悟はいいかよ?」
「おさ?」
「長老」
泊めてくれとは言わないが、ひと眠りさせてもらいたかった。しかし休憩する暇もなく、俺はまたあの形容しがたい生き物に乗せられ、荒野を横断させられた。
今、街にいる。
おもにレンガ造りの街並。森の中にある街で環境重視らしく、緑がまぶしいくらいにいっぱいだ。家は木々を切り倒すことなく隙間を縫って建てられている様子。ゆえに人工物でありながら森に溶け込んでいる。
行き交う人々は穏やかそうで、ほどよく繁栄している商店街も素朴さがある。なかなかいい街だ。
「おまえ靴くらい履けよ。ないのか?」
馬代わりの動物の背からおりる時クレイに言われた。俺はうつむいて自分の足元を見た。
「ないです」
「とんだ貧乏人だな。その服も……妙ちきりんだ」
だろうな。長袖のプリントTシャツにジーパンなんて、妖精さんには妙だろう。だが俺の世界では超無難なファッションなんだよ。目立ちもせずダサくもない。いたって平凡で一般的なんだよ。
ま、そんなこと力説する気はないが。
「しょーがねえな。あとで金返せよ」
クレイは俺を連れて店に入った。どうやら衣装と靴をそろえてくれるらしい。口では「金返せ」と言いながら、返してもらえる見込みがないのは明らかだろうに、さすがハリウッド。太っ腹。
黒いハイネックのノースリーブ。ベージュ色のマント。カーキ色のカーゴパンツ風のボトムスに茶色のミドルブーツ。
「このマント、なにか意味あるんですか?」
俺が尋ねると、クレイは脱力した。
「そんなことも知らねえのか。スゲエ田舎者だな。ベージュのマントは、この自治区のカラーだろうが。連れ歩くのに、つけといてもらわねえと困んだよ」
「あー、そうですか」
コスプレみたいで恥ずかしいと思ったが、せっかくそろえてくれたものを嫌がるわけにもいかない。ありがたく着させてもらった。
「お、似合うじゃねえか」
「え、ホントですか?」
試着室から着替えて出てきた俺を見て、クレイが褒めてくれた。めったに褒められたことのない俺は、ちょっと嬉しくて照れ笑いした。
「長老に会うんだからな、粗相するなよ?」
「あ、はい」
気のゆるんだ俺をたしなめるようにクレイが言い、俺は背筋をのばした。
そりゃそうだ。偉い人に会うのに妙な衣装では失礼だからと一式そろえてくれたのだ。俺のためじゃない。
俺のためじゃない。
その言葉が変に冷たく胸に突き刺さった。どうしてだろうか。まるで遠いむかし負った傷のように、うずく。
桜井のせいだな。と、むりやり結論づけた。金なし特技なし頭脳フツーの、なんのメリットもない俺を友達だといい、メシをおごったりカラオケ誘ったりしたのは、とどのつまりエンブレムのため。俺のためじゃなかった。
俺は何を勘違いしていたのだろう。なんの価値もないのに、人並みに大切に思い思われる友達がいるとでも? そんなわけないじゃないか。見知らぬ森に置き去りにしたって平気なんだ。きっと誰もが桜井と同じ。俺の行方など気にしないで過ぎるだろう。きっと誰でも——親ですら、もしかしたら。
今になって考えてみれば、いかに巧妙に隠していたとはいえ街規模のシカトに気づかないなんて、よっぽど俺に関心ないとしか思えない。メシだって、たいてい一人で食っていた。共働きだから仕方ないのだが、そんな記憶しかないのは寂しすぎる。
見知らぬ土地にいるせいか、なにもかもが信じられない気分になった。ブルーだ。五月病のような憂うつさだ。遅ればせながら、異世界に飛ばされたショックが襲ってきたみたいだった。
***
クレイに連れられて辿り着いたのは、寺院のような建物。西洋の田舎にひっそりと建てられた礼拝堂のような、慎ましやかな建物だ。白い石材が使われていて、正面上部に飾られた青いステンドグラスが陽光をキラキラと反射している。三段ほどの幅の広い階段をのぼったところがエントランスだ。
「ここで待ってろ。ちょっと事情を説明してくる」
俺は言われるまま立ち止まりクレイを見送った。そして建物を背にするように振り向くと、階段下に集まった数人が訝しげにして俺を観察した。おそらく「ヒューマン」だからだろう。
ここの妖精とヒューマンの関係は不明だが、クレイの態度から、あまり良い関係とは思えない。だが石を投げ合うほど悪くもないようだ。
俺は疲労もあって、階段に座り込んだ。階段にも使われている白い石材は光沢がなく、表面が粉をふいている。ちょっと触って確認したが、粉はサラサラとしていて手につかない。俺は暇を持て余して、しばらく表面をなでていた。粉はベビーパウダーに似ている。手触りがいい。
そうしていると七つくらいの少女がハンカチを持って寄ってきた。手を拭けという意味だろうか。しかし粉が手につかないことくらいは少女も知っているだろう。ということは、もしかして儀式? そうだよな。ここ寺院っぽいもんな。神聖な場所へと導く階段を、いきなり素手で触ってはいけなかったのかも知れない。
まずいな。うまくやり過ごさないと。
俺はとりあえず、手は洗っていて汚くないと証明するつもりで、手の平を見せた。少女はハッとし、ぎこちなくお辞儀して下がった。
よしよし、意図は伝わったみたいだ。
俺は安堵して、少女やその周りにいる人々に愛想笑いした。そこへクレイが戻ってきた。
「お、バカ、そんなところに座ったら、ケツ真っ白になるぞ?」
「えっ!?」
俺は慌てて立ち上がり、マントを払って自分の肩越しにケツを見た。だが問題ない。ホッとした。買ってもらったばっかりの衣装を汚しちゃ悪いもんな。
俺はささいな失態をごまかすように笑って、クレイを見上げた。
「大丈夫。汚れてません」
が、クレイは固まった。目を見開き、俺を凝視している。
「……え?」
俺のどこに落ち度があったのか分からない。
クレイは勢いよく俺の腕をつかみ、力強く建物の中へと引き入れ、客室らしい部屋に放ると外から鍵をした。
「そこで、おとなしくしていろ。おまえの処遇は長老とよく話し合ったうえで決める」
まさかの監禁。
しょ、処遇ってなんだよ。えー? 階段に座ってケツ汚さなかったって、もしかして軽犯罪? それとも重罪? どんな犯罪?
ああ、しくじった。「俺はよそ者だから、こちらの法律とか知りません。やっちゃいけないことは前もって教えてください」と言っておくべきだった。今度こそ、俺の人生終わりかも……