新世界
注連縄が完成した翌日は、まず三上が秘宝石の浄化に当たった。
結界は庭園に張ってある。四方に杭を打ち込み注連縄を通した十平方メートルの結界だ。一度アルが結界内に入り秘宝石を中央に置くと、続けて三上が入り、あらゆる浄化の方法を試みた。
「おーい、どんな具合だ?」
俺は外側から様子を聞いた。三上は顔を上げ、首を横に振った。
「やはり普通の浄化方法では効果がみられません。ここまでとは思いませんでした」
残念な結果に肩が落ちる。俺は渋々、縄をくぐって結界内に入った。ここから先は三上が縄を解くまで外には出られない。
「で、俺はどうすりゃいいんだ?」
「そうですねえ、とりあえず浄化を強く念じてみてください」
「それだけでいいのか?」
「手始めにしてみるだけですから。変化がなければ他の方法を」
三上は言い、結界の外へ出た。俺は地面に置かれた秘宝石の前にあぐらをかき、じっと見つめて念じた。それほど意識していなかったとはいえ、過去にここから青を取りのぞき、記憶を取り戻したこともある。少しの効果は期待していた。
見つめること数分。結界内の異変にいち早く気づいたのは三上だ。注連縄が震え、結界内の地の面が光を放ち始めた。
「い、いち様!」
三上の声が聞こえた。だが俺は秘宝石から目を外すことなく、その場にとどまった。浄化が上手くいっていると思ったからだ。実際、上手くいっていた。
秘宝石の表面に亀裂が入った。フチから灰色に変色しつつあることを俺は見逃さなかった。
まだだ。ここで完全に機能を失わせておかないと、失敗する。
そんな勘に突き動かされて、忍耐強く居座った。そのあいだにも地面は輝きを増し、結界にそって正方形を描き出した。白く輝く光に目を細めつつ、秘宝石が崩壊していくのを見守る。灰色に染まった部分が二分の一以上を占め、さらに亀裂が入る。亀裂は細かく無数に伸びた。灰色の部分もつれて拡大していく。そしてついに——
弾けた! 灰色の粉が舞い、光に解けて消滅していく。
やったのか!?
顔を上げると視界は真っ白だった。結界の注連縄どころか、すぐ下の地面さえ見えない。こんなに輝きを増していたのかと一瞬あせった。もう一度足元を見て、残されていた金貨を拾い上げた。そこに埋もれていた秘宝石の影は微塵もない。
成功だ! やった!
俺は歓喜しながら結界の外を目指した。注連縄の近くに寄れば三上が気づいて縄を解くだろうと思ったのだ。
しかし行けども行けども壁に当たらない。相変わらず辺りは真っ白で、なにも見えない。どうなっているのかと首をかしげていた俺は、やがて不安に駆られた。
「おい! 三上! アル!」
叫んでみるが、返事はない。
「ティターニヤ!」
返事どころか、こだまさえ返らない。こめかみをひと筋の汗が伝った。
「な、なんだよ。いったい何が起きたんだ?」
まさか精霊界が消滅したんじゃないだろうな。などと冗談半分で思った。いくらなんでも世界一個を消し去るなんてあり得ない。だがさっきから歩き続けているものの、なんにも突き当たるものがないことに絶望した。
「せっかく……せっかく秘宝石を破壊できたのに」
がっくりと地面に両膝をつき、うなだれた。
そのまま、いつ眠りについたのか思い出せない。目を開けると前に石の壁があった。背にも同様の壁があり、それにもたれる形で寝ていたのだ。建物と建物のあいだにいるらしいと気がついて、慌てて這い出る。はたして、そこには街があった。すべて石と漆喰の建造物で統一され、道行くまばらな人々は日本人に見えた。
違和感、大ありだ。明らかに日本国内ではない街並に日本人が歩いている。それも中世のヨーロッパ人みたいな服装で。
に、似合わねー。カッターシャツに普通のボトムスとかで歩いているやつは違和感ないが、正装しているやつはアウトだ。見慣れればそうでもないんだろうが、いまのところは無理だ。
そんな個人的な感想はさておき、ここはいったいどこだ。さいわい精霊界の衣装はそんなに奇異には映らない。あとは言葉か通じるか文字が読めるかというところだが……
「あ、ちょっとスミマセン」
前を通りかかったご婦人を呼び止めた。
「ここはどこですか?」
内心ドキドキしながら尋ねると、婦人は変な顔をして答えた。
「水の居住区ですけど、それが何か?」
日本語! いや、耳にそう聞こえるだけで違うかも知れないが、とりあえず言葉は通じる。
「水の居住区?」
小首をかしげると、婦人はさらに怪訝そうに俺を見た。
「どちらの居住区からいらっしゃったのか存じませんけど、道に迷ったのでしたらあちらに案内所があります」
婦人が指差す方へ目をやった。店らしきたたずまいに看板がある。読めない。またこのパターンかよ。
「ありがとうございます」
俺は親切な婦人に頭を下げ、店に向かった。小さな店舗だ。案内しかやってないんだろう。
扉を開けるとチリンチリンと鐘が鳴った。
「へい、らっしゃい」
ボサボサ頭の男が迎えた。二十七くらいの平均的な日本人顔だ。カウンターの向こうは本や書類が山積みで荒れている。こちら側は大人三人がギリギリ入る程度の広さだ。
「案内所だって聞いたんですけど」
「タダじゃありませんよ」
「失礼しました」
俺はさっさと店を出た。手の平には拾い上げた金貨を握りしめているが、これは使えない。七人の英雄に渡って来た大切な勲章だ。
ただ握りしめているだけでは心もとないので、また体内に封印した。
さて。これで無くす心配はなくなったが無一文だな。どうしよう。
突っ立っていると、後ろでチリンチリンと鐘の音が鳴った。案内所の受付が出て来たのだ。
「おう、兄さん。まだいたのかい? 金がないなら就職口でも紹介しようか?」
「あ、お願いします」
つか、精霊界に戻る方法が知りたい。しかしそれにはこの世界を熟知する必要がある。やっぱり仕事に就くのがベストか。
「で、属性はなんだ」
「ぞ、属性?」
「属性は属性だろ。それによって紹介する仕事が変わる。地水火風のどれだ」
……えーと。そういやここ水の居住区とか言ってたな。すると地の居住区、火の居住区、風の居住区があると単純に発想して間違いないのか?
「あんまり学がないので、簡単な仕事ならどこでもいいです」
「ん?」
受付は眉をひそめた。
「あーわかったから、とりあえず属性言えよ」
「とりあえず全部使えますから、どこでもいいです」
「……はっ」
受付は一瞬絶句したあと、額に青筋を浮き上がらせた。
「大人をからかうもんじゃないぞ。人一人が持てる属性は一個だ。四つも使えんのは皇帝しかいない。まあ皇帝なんて伝説上の生き物で実在しないがな」
で、ででで、伝説! 皇帝! ヤバイ! それはもうお腹いっぱいだ!
「気にかけてくださってありがとうございますサヨウナラ」
早口に言い、俺は猛ダッシュして逃げた。
こうなったら頼りになるのは己の足と忍耐力のみだ。
俺はあちこち巡ってみた。食べ物が買えない不足は川の水や木の実でしのぎ、時にイチの値の四大元素で命をつないだ。さいわいこの世界は四大元素に事欠かない。信じられないほど豊富にあるうえ濃密だ。精霊界では一グラム精製するのに一ミリリットル必要とした血も、一滴で五百グラム精製できる驚異的環境である。
知れば知るほど身体に馴染む世界だ。地水火風を操る民。日本人顔。それだけでも血の近さを感じる。ここに妖精の粉があれば、俺は確実に実験していた。彼らにつくか否か。
結果はだいたい想像できる。妖精の粉は異世界の者に反応しないのだ。
深いため息がもれ、せつなさで胸が痛んだ。
「地球人でもなかったのか、俺」
なにかの弾みで飛ばされ、地球と精霊界を行ったり来たりしていた俺の故郷はどちらにもなく、ひと欠片の思い出もないこの世界だったのだ。そして……もうどこにも行かない。
世界の隅々をくまなく歩いてみて分かったことがある。ここには異世界へ繋がるひずみが存在しないということだ。念で呼ぶこともできない。地球へ飛び、精霊界でさまよい、再びここへ戻って来たのは誰の意志でも策略でもなく、本物の奇跡だったわけだ。
芝生の生い茂る土手に腰かけ、薄い雲が過ぎて行く青空を眺めた。そこで二度と逢えない人たちのことを考えた。
父や母、大学の友人。クレイやアル、たくさんのフェアリーと、ティターニヤ。
ティターニヤ……
結局、悲しい思いをさせてしまった。だが後悔はない。彼女の命は救えた。悲しみもいつかは薄れ、俺のことも忘れてしまうだろう。俺はまだ無性に逢いたいけれど、それだっていつかは。
三上は……返し損ねたが問題ないだろう。順応しているようだったし言葉は通じるし、精霊界は何かの拍子に戻れる可能性が高い。同じ方法でなければならないという問題さえ解決すれば杖によって帰れる。本気で帰りたいと思っているなら、きっと叶う。
リンドーのフェアリーはどうなったかな? 百人ほどしか治療できなかったのは心残りだが、それぞれの家族のもとに戻れるのなら良しとするか。
俺は大きく息を吐いて、その場に寝転がった。
完全に秘宝石の影響が消え去るには、まだ時間がかかるだろう。そのあいだには小競り合いや紛争が勃発するだろうが、アルとクレイがいるから安心だ。あの二人はそれぞれヒューマンとフェアリーを率いる力と運がある。英雄の星の下にでも生まれてるんだろう。
俺は、どうするかな。
この世界はいたって平和だ。みなが互いに依存し助け合って生きている。特に統治する者も必要ない。すべてが自由だ。皇帝という話は眉唾ではなさそうだが放置する。
「仕事でも……探すか。イチの値の四大元素ばっかり食ってらんねえしな」
イチの値の四大元素はあめ玉くらいのをひとつ食ってれば一日腹持ちがするし、必要な栄養をまかなえる優れものだ。ただ味気ない。霞食ってる印象が拭えない。もっと人間らしい生活をするべきだ。
こうして俺はそれとなく世界に溶け込み、人並みの生活基盤を整え、読み書きの勉強をしながら時を過ごした。まったりとして平穏な日々。新恋人が現れることもなく、地味に無難に暮らした。ある意味、俺の望んだ生き方だった。
しかしその生活は二十年目で終止符が打たれる。
不老なのが原因だ。
年を取らない野郎がいるっていうんで街がにわかに騒ぎ始め、やがて国中に広がり、世界を駆け巡った。街や国も小さいが、世界の規模自体も極小の世界で、人種も思想もひとつ。そりゃあ瞬く間に広がった。
まったくもって不覚。しかも最初の頃に言葉を交わした受付がいらないことを思い出し、宮殿とかで務めるお偉方にちくりやがったので、俺は捕縛された。
あれよあれよというまに正装させられ、今はレッドカーペットを踏みしめながら玉座らしい場所へと向かって歩いている。
足が重い。メシ食う前に捕まえられたので腹も減った。おそらく俺の目は死んでいる。玉座の近くに待ち構える背の高い男が渋い顔をしたのは、そのせいだろう。
火属性の中で最強らしいヤツは、俺が玉座の前で足を止めると、うやうやしく片膝ついた。
「このような奇跡とめぐり逢えた幸運に感謝します」
いますぐ失望させてやろうかという悪い心が目覚めた。しかしそれは必死に押し殺し、ゆっくりと玉座に腰かけた。
なんのためのイスなのか、いまいち分からない。ポーズかな? とりあえずそれっぽい演出なのかな? まあ、とにかく空腹を解消しよう。
俺はその場で構わずイチの値の四大元素を精製し、ひとつ口に放り込んだ。俺の前に整列したお偉方も片膝ついた奴も目を丸めた。こんな場面でつまみ食いかよと突っ込み入れたいんだろうが、受け付けないぞ。
……いや、あれ? 違うな。なんか皆さんの目が爛々として見える。
少し焦っていると、片膝つきっぱなしの男が興奮した声で言った。
「四大元素の化合物ですね! 初めて目にいたしました! なんと素晴らしい形状と輝き!」
化合物。味も素っ気もない言い方だな。実際、味も素っ気もねえけど。
「四大元素の化合物はまさに皇帝であらせられる貴方様にしか精製できない代物。ああ、感動です!」
そうかよ。
俺は肘掛けに肘をついて頬杖つき、しらけた様子で目をそらせた。