砕かれる夢
本を床に叩きつけたい気分だった。
古書には、秘宝石が初めてこの世にもたらされた時のことが記されていた。
精霊界をフェアリーが支配していた時代の話だ。
大自然に覆われた光溢れる世界で平和に暮らしていた彼ら。しかしある時、十メートルを超える巨大な魔物が現れ、国を襲った。全身が黒い四つ足の生き物で、両眼は紅玉で作られている。凶暴なうなり声を上げながら破壊のかぎりを尽くす魔物。フェアリーは矢をつがえ、槍を持って退治しようと奮闘した。
闘いは五十年続いた。来る日も来る日も戦闘に明け暮れる日々。フェアリーたちの精神や肉体は悲鳴をあげた。もうダメだと思うことも度々あった。しかし精霊界の未来を想い、子孫の幸福を願う彼らは決して諦めなかった。
そしてついに勝利した。多くの森と同胞を犠牲にしたが、ようやく闘いの日々から解放されたのだ。
ところが魔物は消え去ったものの、その両眼に宿っていた紅玉は消えずに残った。のちに秘宝石と呼ばれるそれは、すさまじく邪悪な瘴気を放った。
フェアリーの王であるオベロンは悩みに悩んだ。聖水を用いて浄化しようにも近寄れないのだ。手の施しようがない。
「困ったことだ」
そこで登場したのが女王である。彼女は唯一、紅玉に近寄ることができた。その気高く清らかな魂の前にさしもの紅玉も臆したのだ。
「オマエのひとつは私が命に代えても滅ぼしてみせます。残るひとつは私の名を継ぐ者が消滅させるでしょう。覚悟なさい」
問題なのは彼女の名前だ。
冗談じゃない。信じられない。こんなことは嘘だ。
憤りに震える俺へ向かい、アルが慎重に言葉をつないだ。
「フェアリーの名は魂に刻まれています。ごまかしも偶然もありません」
「くそっ! わかってるよ!」
俺は怒りに任せて机を叩いた。拳に痛みが走る。だが胸はもっと痛かった。
「すみません。こんなものを見つけなければ」
ああ、ホントにそうだな。
と思ったが、口にはできなかった。アルが悪いんじゃない。
俺はガックリとうなだれた。
秘宝石が消滅すれば、精霊界の夜明けは近い。強欲なヒューマンもそれなりの人格を備えることだろう。だが犠牲者がいる。たった一人、されど一人だ。俺にはその犠牲が大きすぎる。万人にも値するほど大きい。自分が代われたらどんなにいいだろうかと思う。
しかし俺の命ではダメだろう。何千年もの命だ。擦れに擦れている。気高く清らかとは無縁だ。
俺は目を閉じ、大きく息を吸った。
心が砕かれそうだ。ヒューマンの悪を根絶するという悲願を果たせば、世のフェアリーは救われる。光の中で生きて行ける。だが俺は闇に落ちる。奈落の底よりも深い場所へ落ちてしまう。どうすればいい。
どのように歩いて来たかも分からないほどボンヤリとして、俺はティターニヤが待っている部屋の前まで来た。ただの扉が重い。押し開ける勇気もでないほどだ。彼女の顔を見るのがつらい。
だが残された時間がわずかであるほど、一秒も見逃してはならない気もする。彼女の一挙手一投足を記憶したい。記憶なんてすればするほど苦しくなるのは分かっている。それでも。
俺は扉を押し開けた。
ティターニヤがパッと明るい表情を見せて、ソファから立ち上がった。
「いま紅茶をいれようと思っていたところなの」
嬉しそうに声を弾ませている。とても言えない。秘宝石を消滅させるために命を捧げてくれだなんて、どうして言える。彼女にそんな義務はない。しかしこの時を逃せば、俺は一生言えないんじゃないか。この世も永遠に救われないんじゃないか。そう思えた。
俺は自分の幸福を選ぶのか、それともこの世の平和を願うのか。
幸運をつかんだと思うのは一瞬。失うのも一瞬。一瞬の連続の中で苦痛だけが残されていく。喜びはどこにもない。そんな人生をまた繰り返すのか。
いま泣いてはいけないと思いながら、涙が勝手に流れた。
立ち尽くして動かない俺を不審そうに見ていた彼女は驚いて、駆け寄って来た。
「どうしたの?」
俺たちは始まったばかりなのに、もう終わりなんだ。
そんなことを言わなきゃいけないのは地獄だ。これまで見てきた地獄より地獄だ。だからといって、ずっとあのまま境内に閉じ込められていていいということもなく、俺は行き場のない放浪者のようによろめいた。精霊界に安息を与えるなら、俺の安息は捨てなければならない。本当につらいのは死にゆく彼女なのだ。
「ティターニヤ」
俺は彼女の名前を呼び、闇に向かって手を伸ばした。