幕間 過ぎ行く時の中で〜ティターニヤ視点 その弐
クレイが帰って来た。そしてカゴを置くなり私に言ったわ。
「これからは、いつもシャーリーと行動するんだ。万が一ひとりでいるとき発症しても、すぐに入り込めるようカゴの扉を開けておく。いいな?」
私は息をのんでうなずいた。とうとう運命の日が来てしまったと思った。もういつ発症してもおかしくないのね。
私が気落ちしてうつむくと、クレイはまた言った。
「心配するな。みんなついてる。オマエに寂しい想いはさせねえ。それに……」
「……それに?」
「トイチ様が言ってたぜ。力になれることならなってくれるってよ。オマエの意思を尊重して俺は何も言わなかったが、きっとそのうち来てくれる。ヤツは俺たちを見放したりしねえよ」
私は驚いてクレイの顔を見た。
「トイチ様は、お父様のこと怒ってないの?」
「ああ」
うなずくクレイを見て一瞬、身体が震えた。絶対に許してくれないと思っていたんですもの。それなのに……力になるとまで言ってくれた。なんて心の広い方なのかしら。ああでも、だからこそ余計に頼めないわ。彼の優しさに甘えてばかりのフェアリーが正しいとは思わないから。
何千年、彼を束縛したの? 私たちは自分たちで何かひとつでも成し遂げた? 手記にもあったわ。「自立しろ」と。きっとこれ以上はダメなのよ。私は長の娘として、それをみんなに悟らせないといけないわ。
私は苦しくなる胸を押さえて、クレイに背を向けた。
「私は大丈夫。今度トイチ様に逢ったら伝えておいて。ありがとうって。それから、私の病のことは絶対に言わないで」
「いいのか?」
「ええ」
「……わかったよ」
クレイは静かに部屋を出て、戸を閉めた。
窓から差す光に満たされた部屋。テーブルの上に残されたカゴがなければ素晴らしい部屋だわ。アンティーク調のソファが私のお気に入り。棚に置かれたオルゴールは亡くなったお母様の形見。ブックシェルフに並ぶのはお父様からいただいた絵本や詩集。なにもかもが柔らかく優しい思い出に溢れてる。
小さくなってしまったら、そんな思い出たちとも触れ合えなくなるのね。
涙が出てくるわ。悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそう。
***
そうして三時間くらい泣き続けた私は、顔を洗おうと洗面台の前へ立った。きっとひどい顔をしているに違いない。
のぞいた鏡には案の定、泣き腫らした顔が映っていた。でも私はたぶん、これ以上にひどい顔をトイチ様に見せたんだわ。過去に戻って取り消せるなら取り消したい。こんな醜い私を見て欲しくなかった。
私は彼の顔を思い出して、鏡にそっと触れてみた。私は笑うこともできるんだと伝えたい気持ちでいっぱいになった。どうして急にそんなことを思ったのか分からない。
いいえ。本当はちょっと前から思ってた。もう一度だけでいいから逢って誤解を解きたいと。そのときは笑みを交わせたらいいと……
私の態度に無礼だと怒鳴りつけることもせず、のんびりと過ごしている穏やかな彼。いままでそんな人に出会ったことがなかった。
フェアリーは当然、私を長の娘として扱うから常に気を配っている。ヒューマンは図々しいから横柄な態度で女中のように扱おうとする。両極端だけど、そういう世界だわ。
それなのに彼が私を見るときは、ちょっと寂しそうに笑うの。私の態度を寂しいと思ってくれているからだわ。でもどうしてそんなふうに思ってくれるのか分からなかった。
彼は私に笑ってほしかったのかしら。だとしたら嬉しいわ。こんな私なのに、そんなふうに思ってくれたのだとしたら。
〝力になれることならなってくれるってよ〟
ふと脳裏にクレイの台詞が響いた。彼はどんなつもりでその言葉をクレイに伝えたのかしら。
少し胸が熱くなった。でも鏡の中の自分の顔を見て、苦笑してしまった。
どんなつもりもないわね。彼はただ優しいだけ。すべてを包み込む大きな心があるだけ。彼にとって私は、哀れなフェアリーの一人。それだけなのよ。