幕間 過ぎ行く時の中で〜ティターニヤ視点 その壱
「カゴを仕入れてくる」
クレイに言われた時、私は絶望の淵に立った。いいえ。フェアリーの小さな羽根が背中に生えた時から、地獄は続いていた。あれは十五歳の誕生日。まもなく二年経つ。
兆候が見られてから発症するまでは約三年。一年を切ったらカゴを用意できる者は用意しなければならない。できない者はお金を用意してリンドーへ向かう。どちらも不可能な者は黙って死を待つしかない。
私は恵まれているほうだわ。カゴを用意できる。クレイは必死に「トイチ様に頼もう」と言ってくれたけど、それはダメだと断った。
どんな顔をして頼むの? 私は冷たい態度を取ったわ。お父様がしたことも、もう耳に届いているはず。彼が許してくれるとは思えない。
***
私は、滞在中いつも彼がいた場所へ立った。中庭。芝生が広がる場所。そこで数年前のことを思い出していた。
お父様の書斎には、過去の手記が残ってる。貴重なものだから勝手に見てはいけないと言われてたけど、私、お姉様とコッソリ見たことがあるわ。そこにはエレメンタルブレイカーが前世に残した言葉が綴られていた。
『俺はこの世界の人間ではないから、いずれ去らねばならない時が来るだろう。その時になって慌てないように、ヒューマンとフェアリーがそれぞれ自立することを求める。
もう何千年も関与してきた。潮時だ。イチの値の四大元素に頼ることから一歩踏み出し、おまえたちは新たな時代を築かなければならない。
次の時代に訪れたとしても、俺などに縋ることのない社会を目指していると願う』
お姉様と私はショックを受けたわ。エレメンタルブレイカーはヒューマンだと思っていたんですもの。本当に異世界人だとしたら、これまでフェアリーがガマンしてきたことはなんだったの? ヒューマンを根絶やしにしてしまうとエレメンタルブレイカーが復活しないと恐れ、豊かな地を追われることも涙をのんで耐えたわ。それなのに……!
お姉様と私は父に抗議したわ。でも逆に怒られてしまった。
「イチの値の四大元素に頼るために、ヒューマンの英雄が御する秘宝石の力を借りてきた。ヒューマンがいなくなればエレメンタルブレイカーに頼ることもできなくなる。年間救えるフェアリーも半減してしまうのだぞ」
今はその言葉が痛いほど身にしみる。フェアリーケージシンドロームにかかってしまったから。カゴに収められたフェアリーはみんな願っている。彼の手によって救われる瞬間を。
「私はダメね」
思わず呟いてしまった。
彼は私の過去を知らないわ。お父様のもとに次々とやってきたエレメンタルブレイカーのニセモノたち。彼らがどんな酷いことをしたのか見ていないわ。だから私が取った態度を許す気にはなれないと思うの。
彼らは卑怯だった。ただ一瞬の贅沢と快楽を夢見てエレメンタルブレイカーだと偽った。お父様を侮辱し、街の人たちに乱暴を働き、私をいやらしい目で見たわ。思い出すだけでも汚らわしい。
だから私も知らず知らずのうちに心を閉ざしてしまった。とても後悔しているわ。
私が突き放すと、ニセモノたちは激怒して手をあげた。「生意気な女だ」と唾を吐きかけたわ。
でもトイチ様は違った。ちょっとだけ驚いて、寂しそうに笑った。そして部屋には一切近寄らなかった。強引なところは少しもなくて、むしろ自分から距離を取ってくれた。
昼間は静かにこの場所に寝ていて、夕食会でもほとんど黙っていた。空気のように透明で、不思議な人だった。
去るときも同じ。彼はいつのまにか姿を消していた。自分の荷物も置いたまま、どこかへ行ってしまった。
次の日にのぞいた中庭は、なんだか物足りない風景だった。
それから十四日ほどして届けられた知らせに、驚くことはなかったわ。もう覚悟していたから。トイチ様がアール・ラ・ジェイドにエンブレムを授けた……彼こそが本物だった。クレイの言う通り。間違っていたのは私。
なんとなくこの場を離れ難くて空を見上げていると、敗れた勇者の一人がやって来た。歴代の勇者の中で唯一の女性、リーナ。お別れでも言いに来たのかしら。
「王都に戻られるの?」
こちらから声をかけると、彼女は目元を引きつらせながら笑った。
「そうね。トイチ様がいるのなら行かなくちゃね」
私は眉をひそめた。
「あら、その必要はもうないんじゃなくて?」
「ふふ。あなたバカね」
「え?」
「別に英雄なんかに選ばれなくてもいいのよ。私は女よ? それもとびきりの美人だわ」
……ごめんなさい。どう反応していいのか分からないわ。
私が戸惑っているのも無視して、彼女は話を続けた。
「結婚すれば結局は私のもの。秘宝石は惜しいことしたけど、永遠の美さえ手に入れば満足よ」
ああ、あなたが選ばれなかった理由はそこだわ。
私は残念すぎて脱力してしまったけど、リーナは胸を張った。羨ましいくらい大きな胸。でもそんなもので彼がなびくかしら。
彼に言い寄る彼女の姿を想像してみて、なんだかムカついた。嫌な女。実力が追いつかなかったら、今度は色仕掛けなんて。はしたないわ。
「過去にエレメンタルブレイカーが結婚したという事実はないわ。家庭を持った相手がヒューマンならヒューマン、フェアリーならフェアリーを、ひいきしてしまうからだと思うの」
リーナは口元を歪めた。
「だから?」
「だから結婚はムリよ」
「この私が申し込むのよ? 過去がなによ。彼だって気持ちが揺らぐはずだわ」
言ってもいいかしら。なんて高慢ちきな女なの。確かに美人だけど、彼は顔だけで人を選ばないわ。ましてすでに落選した女よ? 潔く立ち去りなさいよ。
私はいつのまにか拳を固く握って、腕を震わせていた。
腹の立つ女。腹の立つヒューマン。
トイチ様がヒューマンでなくて良かったわ。彼のような高潔な人の中に、この女と同種の血が流れてると思ったらゾッとするもの。
「そんなに自信がおありなら、やってみるといいわ。その代わり失敗した時は王都から出て行く覚悟でやることね。おやめになるのなら今よ。絶対に失敗するんですもの」
リーナはカーッと顔を赤くして、目を吊り上げた。
「言ったわね! じゃあ結婚できたら、あなた私の前に跪きなさい!」
「上等ね」
私は冷めた視線を投げて言い返した。彼女はますます憤慨し、踵を返しながら捨て台詞をはいた。
「覚えてらっしゃい!」
「……いやよ」
彼女が去った後、私はその場にへたりこんでしまった。なんだかとってもエネルギーを消耗したわ。なんなのかしら。
その時ふと手の平で触れた芝生が柔らかかった。そこに寝ていた彼を感じる。とても不思議な気持ち。
小さくなってしまう前に、もう一度逢えないかしら。
そんなことを考えたけど、逢ってどうするっていうの? 謝る? きっと困った顔をして笑うだけよ。だけどこのまま時が過ぎて行くのはイヤ。きちんと誤解を解きたいわ。
私は深いため息をついて、芝生の上に身を横たえた。