陸
賀集が大正明治と出合ったのは、1920年、大正9年の春のことであった。
当時、宇都宮の家で暮らしていた賀集は、尋常小学校を卒業し、祖父母の勧めで中学校に進学した。その中学校は、周辺の尋常小から進学してきた生徒も多く、賀集の知る顔も半数まではいかないものの、決して少ない数ではなかった。
しかし、入学後に彼が話しかけたのは、違う尋常小卒の大正明治であった。
その時分より、大正の思考や言動は子どもらしからぬ捻くれたものであった。それ故、同じ尋常小卒の学友達からは距離を置かれていた。彼はいつも教室の隅の机で窓の外を眺めていた。
ある日の授業でこんなことがあった。
「ではみなさんは、そういうふうに不死の山と云われたり、日本一の山と云われたりしていたこの富士山よりも高い、日本一高い山がほんとうは何かご承知ですか?」
先生は、黒い黒板に吊るした大きな日本の地図の、丁度真ん中近くに記された富士山のところを指しながら、みんなに問いかけた。
賀集が手をあげると、それから四五人の手が上がった。
しかし、大正は相変わらず退屈そうに窓の外を眺めていて、手を上げなかった。その様子を見附けた先生は、彼に聞いた。
「大正さん。あなたはわかっているのでしょう?」
大正は面倒臭そうに立ち上がると、一切緊張する様子もなく淡々と答えた。
「新高山です。現在の観測結果では、標高が3950メートルとなっており、富士山の3776メートルよりも高くなります。したがって、日清戦争で日本統治下になって以後、日本一の山となっています」
他の生徒が皆、茫然自失になっているのを他所に、大正は先生の確認も取らずに着席をし、また窓の外を眺め始めた。
この出来事以降、大正は先生からも距離を置かれる様になった。
しかし、賀集にとっては寧ろ逆であった。この一件で、彼が他人との距離を置く理由が、他人が自らと違うとはっきりと認識してしまっている為であるとわかったからだ。
それは、人の何気ない言動に隠された真偽すらも見抜いてしまう賀集自身が抱えていた悩みにも通じるものがあった。
「何の用だい? 俺は君と話をする気などないのだが?」
数日経ったある下校途中、賀集は大正の後をついて行った。彼はしばらく歩いたところで、唐突に声を上げた。
「しかし、自分は君と話をしてみたいと思っているんだ。君は他の人とは違う」
「だったら? 君は見世物小屋を見るのが好きな変人かね?」
「いいや。同じ小屋にいる見世物だよ」
賀集の言葉が効いたのか、大正は振り向いて彼を見た。
「否。悪いが、俺には君も他の者と変わらない陳腐な一個の人間としか見えないな」
「ならば、何か聞いてみたらどうだい? 確かに、難しい問いの回答を述べることはできないが、自分には君のする問いが正誤かを当てることができる」
賀集が挑戦的な表情で言うと、大正はそれを受けたという様子でニヤリと笑った。
「いいだろう。では、昨年の皆既日食で、太陽の傍らを通る星の光の曲がり方が、ニュートン力学から予想されるものの二倍であったと観測された。これから正しいと示されたアルベルト・アインシュタインの発表した理論は、特殊相対性理論であり、これを重力レンズ効果という。……さぁ、これに間違っているものがあるかい? それとも、全て真か?」
「特殊相対性理論という部分が間違っている」
「!」
賀集が大正の発言の中で偽りを言った部分を指摘すると、彼の瞳孔が一瞬にして大きくなった。
「そ、その正答は?」
彼の口調が明らかに変わった。動揺している。
「それはわからない。言っただろう? 自分は正誤を当てることはできると」
「……一般相対性理論だ。それが正答だ。……君は一体?」
「自分は、人の言葉に真偽があるかを見抜いてしまう力があるんだ。だから、本心から人を信じることはできない。でも、君は例え偽りを持っても、それを言わずに意見を言える才能がある」
「……肯定だ。しかし、良いのかい? 俺は君を、己の言葉に嘘を含めずに裏切ることができるんだ。間違いなく、君は俺にいつか裏切られる。それでも、俺と友人になりたいのか?」
「その言葉に嘘はない。なら、自分も君に正面から向き合う。もし君が僕を裏切る時が来たら、自分も君に真っ向からその裏切りにある真実を見抜く」
賀集は、まっすぐに大正の目を見て言った。
彼は、口元だけを上げて微かな笑みを浮かべると、右手を差し出した。賀集も、それに応じ、硬い握手を交わした。
以後、6年間。賀集と大正の交流は続いている。そして、6年後の夏、賀集の元に彼から唐突に、上野駅に来いという電話がかかって来た。
光昭に先導され、二人は龍凰の中に入った。近くで見ると、龍の口の部分には巨大な砲台らしきものが内臓されている。更に、胴体のうろこ状になっている表面にも魚雷発射口と考えられる穴が複数開いている。
「……光昭さん、この飛行潜水艦は一体?」
「見てわからないかい? 海空両用の戦艦さ。警察がこいつを盗んだ事件捜査が一向に進まないのもそれが理由さ。表向きは財閥の個人所有艦として開発された代物だけど、その実体は財閥が世界中の軍部相手に手を広めている裏の商売の新商品ということだよ。だから、巧妙に龍凰の資料も偽装されている。警察はいつまでも存在しない船を捜しているという訳さ。つまり、僕らがこの艦を狙ったのも、それが理由という訳だ。別にこれを使って直接人々を攻撃するつもりはないよ。精々保険程度さ」
「つまり、必要に駆られればこれの戦力も使うんですね?」
成平が揚げ足を取ると、光昭は細く笑った。
「君たちが邪魔さえ、しなければね。………さぁ、着いた。君たちは実に運がいい」
廊下を歩いていた彼は、扉に突き当たり、立ち止まる。部下がすぐさま扉を開ける。
扉の先は、艦橋になっていた。しかし、そこには周囲が一望できるわけでも、窓があるわけでもない。巨大な画面が中央の壁に掲げられ、その前方に操舵席や砲撃席、走査席、通信席などが配置され、それらを一望できる中央奥の一段高い場所に艦長席が構えられていた。
「君たちの知る潜水艦や戦艦、飛行機の構造とは少し違うだろう? 僕らも始めは戸惑ったが、実際に使ってみると機械が目や耳の代わりをしてくれてね。ここでの制御と各部での整備監督者がいれば十分にこの艦の大きさでも操縦ができるようになっているらしい。実際、僕の仲間達は君たちの見た通り20人に満たない。その人数で操縦が出来るんだから大した技術だよ」
「俺達にそんな考証してどうする? さっさと兄貴の目的を話せよ」
和昭が光昭を睨んで言った。彼はやれやれと肩を落とす。
「和昭にももう少しこの手の話に興味を持ってもらいたいものだけど……。まぁ、いいだろう。僕の目的は、あの書置きの通りさ。この世界を蝕む病を治す。それが目的さ」
「だから、その病っていうのは何だ?」
和昭が怒りを露わにして食いかかる。しかし、部下達の銃を突きつけられて直ぐにそれを牽制される。
「いいさ。時間はもう少しかかるのだろう?」
部下に銃を下ろさせると、光昭は幹部の一人と思しき男性に視線を向ける。彼は黙って頷く。
「というわけだ。少しの間おしゃべりをしよう。病というのは正しくその通りの意味さ。この世界、つまり地球は今、病に犯されている。君たちもその症状を肌で感じているはずだよ」
「何を言って……」
「気温の上昇や異常気候のことですか?」
「流石だね、成平君。そうさ、地球の気温上昇はこの病の代表的な症状のひとつだ。この症状で、近い将来、世界の国々がその国土を失うことになる。南極の氷が溶けてそれで海面の水位が上昇するからだ。でも、その時になってしまっては遅い。それだけの環境の変化が起こってしまえば、この世界のあらゆるものが死んでしまったり失われてしまったりするだろうからね。だから、僕はその病の原因を除去することにした。ここに集った同志たちも同じさ」
「原因? 除去?」
「不治の病も、その原因の根源を絶てば治せる可能性がある。それと同じさ。そして、この場合の患者はこの世界。そして、病の原因は、人さ」
光昭は静かに言った。
「兄貴! まさか、人を絶滅させる気か?」
「そんな訳がないだろう? 僕も人だ。流石に命は惜しいよ。僕の言う人は、動物の一種であるヒトではない。鉄を打ち、機械を造り、莫大な燃料を消費する高い産業を持つこの文明の人のことさ」
「どう言うことだ?」
「君らも知っているだろう? 今の世界を蝕んでいるのは、産業革命以降のこの文明であることを。だから、僕らはそれを一度無くそうと考えているんだ。言わば文明再生計画。それが僕らの目的だ」
光昭は微笑みを浮かべて言い切った。
「すっごい! 西郷さんがいるわよ!」
賀集がゆきに家族への説得を頼んでから五日後、外出が許された菜々は大喜びで、上野恩賜公園の西郷隆盛像の前で歓喜を上げる。
「二十一世紀にはないのかい?」
「ううん。あるから嬉しいんじゃないの。殆ど100年近くも違う時間なのに、私も知っているものがこうして目の前にあるのよ! これを感動せずにいられる? 無理よ無理! あぁ~写メれないのが残念」
菜々は岩倉邸の敷地を出てからずっとこの調子である。根津神社や近くの高等学校や帝大の名前を目にすれば、見たことがあるだの聞いたことがあるだのと、絶え間なく話しかけてきた。まさに水を得た魚である。
「本当に、あなたの言うことを信じて良かったわ。あの子のあんな笑顔が見れたんですもの」
賀集一人の付き添いでは何かと心配という家族の意見から、同行することになったゆきが賀集の隣に立つと言った。その声は心底からの感謝が篭っていた。
「いいえ。こうして実現できたのは、ゆきさんの協力の賜物です。ありがとうございます」
賀集が軽く頭を下げて礼を言っていると、白いワンピースを着た菜々が駆け寄ってきた。
「ちょっと、二人でなに堅苦しくしているのよ。今日は、思いっ切り楽しまなきゃ! 私の我が儘に付き合ってるとか考えちゃダメだからね。ゆき姉も、賀集さんも、行きたい所があったら遠慮なく行こうね!」
「ゆき姉?」
完全に素の女子高生中沢菜々に戻った彼女の呼称に、ゆきは驚く。
「ダメかしら? ゆきお姉さんとかお姉さまとか、堅苦しいのは家の中で十分よ。だから、今日だけでもゆき姉と呼びたいな?」
「……えぇ、いいわよ。じゃあ、私も今日だけは菜々と呼ぼうかしら?」
「無理しなくてもいいよ? でも、そう呼んでくれたら嬉しい!」
恥ずかしさ半分で言うゆきに対して、菜々はとてもソフトな接し方をする。若干甲高くなっている彼女の声に少し周囲を歩く人は怪訝な顔をするが、特に気に留める様子もなく、そのまま自分達の目的の方向へと歩いていった。
「では、菜々。これからどうする?」
「そうね。じゃあ、賀集さんが前に話していた活動写真を見てみたいわ」
ゆきが聞くと、菜々は即座に希望を言った。
「なら浅草の活動写真館に行こう」
「首領、装置の準備ができました」
まもなくして先の幹部が光昭に報告をした。彼は頷いた。
「さて、君たちに何故運がいいと言ったか、その意味をこれからお見せしよう。活目し給え!」
光昭は片手を振り上げ、前方の巨大画面を示した。画面に映像が映し出される。パソコンの画面と同じものが浮ぶ。これは巨大なパソコンの画面となっていたのだ。そして、その画面には次の瞬間、どこかの倉庫の映像が映し出された。
「これはこの艦内の格納庫だ。規模は小さいが、小型の偵察船が一つは入る広さを持っている。そして、今ここに格納されているのは、偵察船ではなく、仮想世界への行き来をさせる大型の送受口だ。通話口と受話口、その双方の機能を持つ最新鋭の装置だ」
映像に映る格納庫の真ん中に鎮座する巨大な機械を示して、光昭は言った。それは電話機の通話口や受話口に似た鼓笛状の形状をしていた。
その脇には、無数の小さな箱状の機械装置が山積みにされている。山の大きさは大型送受口に匹敵するほどであるが、その一つはケイタイ程度の大きさだ。
「そして、この無数の小型装置こそ、文明再生計画の要。金属腐敗装置だ。この装置は、始動すると周囲にある金属を腐敗させ、最終的には己自身も腐敗され、地に帰る。これの用意に時間がかかった。しかし、今日、これらが必要な量まで完成した。つまり、計画実行のその日に、君たちは来たんだ。全く、運がいいよ。しかし、少し時間が早いとも言えた。折角僕が買ってきた祝賀の酒を皆で酌み交わす直前に君たちが現れたんだからね」
光昭は苦笑しつつ言った。どうやら彼のコンビニで購入したのは、酒であったらしい。
「まあ良い。酒の入っているのはガラス製のビンだし、この艦は計画が達せられたのを確認し終わるまで装置の影響を受けない深海に潜むつもりだ。計画成功の祝いまで取っておくことにするさ。………嗚呼、勘違いをしないでくれ給え。この艦も計画成功を確認したら装置によって地に帰す。これが最後の文明とするつもりだ」
「一体、どうやってそんなことをするつもりだ?」
「和昭、これだけ丁寧に説明しているのに、まだわからないのかい? やれやれ、では説明しよう。現在、世界中には無数の電話機やケイタイがある。そして、僕らは装置をあの大型送受口を利用して、装置をその世界中の受話口に一斉に送る。次の瞬間には、世界中で送られた装置が作動し、数分と経たぬ内にこの文明は失われる。残るのは石やガラスなどの一部の文明の遺産だけになり、人は再び動物の一種であるヒトに戻る。病というのは厄介だ。わずかでも残してしまえば、直ぐにそれが新たな病になる。だから、この大型送受口を使って、一挙に文明を消さなければならない。その為の装置であり、大型送受口であり、それを計画達成の瞬間まで残す為の飛行潜水艦なんだ」
「そんなこと……そんなことを、させるか! 馬鹿兄貴!」
和昭は激情にかれられて叫ぶ。
しかし、光昭は涼しげな表情で、告げた。
「残念。計画は既に始まっている」
彼の言葉を裏付ける様に、艦がゆっくりと動き出した。
「花のパリかロンドンか。月が啼いたかホトトギス。夜な夜なあらわす怪盗は、題してジゴマの物語。名探偵ポオリック死すとき、ニックカアタアの手をしっかと握り、『おん身、我に代わりて怪盗ジゴマをとらうべし』。これよりニックカアタアの活躍となりますが、追って詳しきことは、画面と共に詳細に説明仕ります」
活動写真館の前方にある画面の脇で、弁士がフランス映画のジゴマの前口上を、独特の抑揚をつけて語っていた。画面の前にあるボックスには、楽士達が楽器を構え、指揮者の動きに注目している。弁士が語り終えると、薄暗くともされていた館内の灯りが更に絞られ、オープニングの音楽が奏でられた。
「ジゴマはそのあまりの人気と影響から、長く上映が禁止されていたんだけど、一昨年から解禁されて、時々こうして上映されているんだ」
隣で賀集が菜々に説明した。つまり、社会現象になるほどの人気映画のリバイバル上映なのかと菜々は、数年前に人気となっていた名前を書くと人が死ぬ漫画を思い出しつつ、理解した。
不忍池の周りを歩く人々はその光景に目を見張った。
突如、池の水面が激しく泡立ったと思えば、続いて水柱が上がり、その中から盗まれたと報じられていた飛行潜水艦が現れたのだ。
突然の事に呆気にとらえる人々が艦橋の巨大画面に映る。
「離陸成功。その他、問題ありません」
各処に着いた部下が報告をする。艦長席に立つ光昭が声を発する。
「よし、東京湾に向かえ! その後、太平洋の深海へ向かう」
彼の声に、部下達が了解と返事をする。
「この艦にはジェットエンジンが積まれている。直ぐに東京湾だ」
彼の言葉と共に、艦内に轟音が響く。ジェットエンジンの駆動音だ。
画面に映る景色は見る見る内に、東京上空を過ぎ、東京湾へ向かって進む。
「兄貴……」
「和昭、今なら操縦に集中している。監視するのは後ろにいる一人だけ。銃を構えているけど」
成平は小声で和昭に囁いた。確かに、今なら逃走の機会である。
「いや、一人なら銃が相手でも大丈夫だ。だけど、もう離陸しているんだ。今更どうするんだ?」
「格納庫へ行って、装置を送るのを阻止する」
「可能か?」
「それは行ってみないとわからない。でも、やるしかない」
「わかった。……俺が動いたら、直ぐに格納庫へ向かえ。俺も直ぐに後を追う」
成平は返事の代わりに頷いた。
和昭は息を潜め、気配で監視者の様子を窺う。
そして、僅か一瞬だが、相手の警戒心が緩んだ。その瞬間を逃さず、和昭は動いた。
「がっ!」
和昭は地面を蹴り上げると同時に体を捻らせ、相手が銃の引き金を引く前にその顎を蹴り飛ばした。
「和昭!」
音に振り向いた光昭が名を叫ぶ。しかし、和昭は素早くその身を翻し、廊下へ出て、扉を閉める。慌てて部下が武器を持って扉に駆け寄る。
しかし、彼らが扉にたどり着く前に、鈍い音を立てて、扉は変形した。和昭が突進して重厚な金属の扉を変形させたのだ。これでしばらく時間が稼げる。
和昭は前方を走る成平の後を追った。
「あぁー面白かったぁ! コレだったら、現代でも普通に通用するのになぁ……」
活動写真館を出た菜々が大きく伸びをしながら呟いた。
「発声映画が主流になれば、活弁の時代も終わるという意見はある。大衆の娯楽はいつだって新しいものに向くものなんだ。それは、君の時代も同じだろ?」
「それはそうだけど……。なんか勿体無いなぁ~」
賀集が言うと、菜々は口惜しそうに呟いた。
そんな菜々の様子を見て、賀集は話題を変える。
「さて、これからどうする?」
「あ、少し喉が渇いたわ。何か冷たくて酸っぱいものとかが飲みたいわね」
「中々注文が細かいね。まぁ、この辺ならレモン水やラムネなんかも売っているだろうから、それでも飲んで休憩をしよう」
「うん」
「そうね」
ゆきと菜々が近くの公園の木陰の椅子を陣取っている内に、賀集はラムネとレモン水を買ってきた。
「はぁー生き返る。どうも最近気だるさが抜けなくて。こういう飲み物を飲みたいのに、紅茶とかばっかりなんだもん」
菜々がレモン水をカパッと一気飲みすると、賀集とゆきに愚痴る。
「そういえば、いつも西洋紅茶とかが多いな」
「仮にも貿易商の家なんだから、それくらい仕方ないでしょう? うっ……失礼しました」
ゆきが苦笑混じりに言う。ちなみに、彼女はラムネを飲んでいるので、げっぷが出ている。
「しかし、九胤さんはラムネを用意していたな」
「あぁ、お兄様は別よ。我が家は、商才に優れた家系で、お兄様もお姉様も父の事業の手伝いをしているけど、九胤お兄様だけは勉学に優れていたから。あの離れも知っているでしょう?」
「はい。そちらでラムネをご馳走になりました」
「あの離れも、父と距離を置くためにお兄様が強行的に用意した場所なのよ。お互い優れた才能を持っていたけど、それ故に意見の食い違いも多かったから。父としては、帝大進学をあっさりと決定させたお兄様に期待をしていたみたいだけど、お兄様は理学や工学と云った商業とは関係のない分野へ没頭していったわ。多分、家族の中でお兄様と仲良く接していたのはなな子くらいだったわ」
「そうだったんだ……。でも、その割には九胤さん、私のところにあまり来てないわ。勿論、最初の頃は誰よりも様子を見に来ていたけど……。私がなな子さんじゃないからかな?」
「………」
菜々の意見に、賀集は妙な引っかかりを覚えた。その考えは菜々がなな子でないと確信を持っている菜々だから持てる考えだ。その証拠にゆきは毎晩菜々の様子を見に行っている。
「いいじゃない。お兄様にはお兄様の考えがあるはずよ。菜々、今度はどうする? まだもう一箇所くらいは行ける時間があるわ」
ゆきはラムネの残りを飲み終えると、菜々に言った。即座に菜々の表情が真剣なものになる。
「なら……瑞江村に行ってみたい」
「え?」
「……いいのかい? 他のところへ行くのとは訳が違う」
理由を知らないゆきがキョトンとする傍ら、賀集は真顔で確認する。
菜々は黙って頷いた。菜々にも賀集が案じている意味が理解できている。他の知っている場所を訪れるのではない。自分自身の居場所に行くのだ。しかし、そこに彼女の知っているものがある可能性は、既に発展を遂げつつある東京府内とは比にならない。辛い気持ちになることは十二分に予想できた。
しかし、それでも菜々は行くべきだと思った。
「行くわ。……例え、私の知らない景色でも、行って辛い気持ちになっても、私は行った事を後悔しない」
「……わかった。行こう。……ゆきさん、少し距離があるけど、付き合ってもらえますか?」
「いいわ。ただし、その途中で事情を説明してもらうからね」
ゆきが言うと、賀集は頷いた。
艦内は比較的単純な構造をしていた。お陰で、成平は迷わずに格納庫にたどり着けた。
扉を開け、中に成平は入った。
「おっと、動くな。勝手なことはしないでくれ。こいつを食らいたくはないだろう?」
銃口を成平に向けた男が言った。彼が装置を送る役割を担っている人物なのだろう。
成平は黙って肩の鞄を下ろし、手を上げた。
「よし、いい子だ」
「ごめん。こいつは違うみたいだ」
「え? ……がはっ!」
成平が言った言葉を理解する前に、彼は扉諸共蹴り破ってきた和昭に吹き飛ばされた。床に倒れた彼は、既に気絶していた。
「ここの扉、立て付けが悪いな。簡単に壊れる」
「それはないと思うけど……」
「そんなことより、急いで装置を!」
和昭に促され、成平は頷き、周囲を見渡す。装置の数はあまりにも多い。これらを制御するのは、一つの操作で一括してできるに違いない。彼はそれを探していたのだ。
彼の目に一台のパソコンが目に付いた。彼の持つものよりもかなり大きい。
「これだ!」
成平はパソコンを操作して、装置の作動を阻止しようとする。しかし、制御画面を操作することはできたが、その使い方がわからない。下手をしてしまえば、装置を作動させてしまう。彼は手をこまねいた。
「そんなことをしているんだったら……、そこをどけ!」
「いっ!」
振り向いた成平は慌ててその場を離れた。和昭は拳を握り締めてパソコンに飛び掛った。
彼の拳は、パソコンを貫き、それは煙を上げて只の金属の塊になった。
「これでいいだろう? そして、兄貴の教えを実践させてもらうぜ!」
彼は拳をパソコンから引き抜くと、ニヤリと笑い、床に転がっていた扉を掴む。体を翻し、その勢いで金属製の扉を装置の山に投げ飛ばした。破片となって吹き飛ぶ無数の装置。
「まだだ!」
和昭は叫ぶと同時に飛び上がり、装置を次々に踏みつける。それはまるで子供がはしゃいでいる様に見える。
「………和昭には文明なんて最初からないな」
「へっへっへぇ! おい、これ結構楽しいぞ!」
無邪気に笑顔を向けて言う和昭に成平は溜め息をついた。
しかし、これで光昭達の文明再生計画は阻止された。
『和昭、成平君。よくも僕の計画を邪魔してくれたね』
格納庫に光昭の声が響く。
「何、言っているんだ。こんな計画、成功なんざしないのさ! 兄貴、馬鹿な考えはやめて俺と家に帰ろうぜ?」
和昭は装置を握り潰しながら言った。
『すまない。僕もここまでしてしまった。今更後には引けない。成功の保証はないが、実力行使に切り替えさせてもらう。多少の犠牲も仕方がない。……和昭、こんな愚かな兄貴を許してくれ』
それだけ言い残すと、光昭の声は消えた。和昭は装置を床に投げつけて怒りを露わにする。
「許せるわけがねぇだろ! 馬鹿兄貴!」
「和昭の言うとおりだ。実力行使と言うことは、この艦を使って、直接東京を攻撃するつもりだよ。そんなことをさせるわけにはいかない!」
「だけど、どうするんだ? 幾ら俺でもこの艦を破壊するのは至難の業だぞ?」
「……だよな」
成平は落胆した。脱出と制圧はその手段が根本的に違う。和昭の力でも一人では限界がある。成平は周囲を見回した。
しかし、そこにあるのは瓦礫の山と化した装置と大型送受口、そして煙を上げるパソコンしかない。
「……いや、策はある!」
成平は大型送受口を見つめて言った。そして、床に置かれた鞄に駆け寄ると、勝ち誇った笑みを浮かべて和昭に言った。
「こんなこともあろうかと、持ってきている!」
瑞江村の後に都営新宿線一之江駅ができる周辺は、小松菜畑と住宅があるこれといって特徴のない景色であった。土ではあるが舗装された通りを歩く菜々達の横を、近くの川で魚釣りをした子ども達が古い桶に紐を通した簡易のバケツにフナを二匹ほど入れて走っていった。
「本当に長閑な田舎町って感じね」
菜々は素直な感想を述べた。近くにバスも走っており、交通自体は特別不自由な場所ではなかったが、特別栄えている様子もない。
「ま、それは21世紀でも同じか」
思わず考えていることを口にする菜々を、賀集は安堵しつつ眺める。
「随分安心した顔をしているわね?」
「ゆきさんもわかってるだろう? 菜々君がここに来ることがどれほど不安なことなのか」
「それは……。でも、私も同じよ。私も菜々と同じ様な気持ちだから」
「というと?」
「ここへ来るまで私も恐かった。私の知る限り、あの子はここへ今まで来たことはなかった。もし、これであの子が確信を持ってここの今と未来で共通するものを示したら、私の中にあるなな子と菜々が同じ一人の人間だという希望が消えてしまう。これでよかったのよ。あの子はあの子で納得して、私はこれまで通りにいられる」
ゆきは穏やかな表情で語った。
一方、菜々は通りかかる住人に地名や番地を尋ねながら、少しずつ場所の特定を進めていく。
「……ありがとうございます! 賀集さん、ゆき姉! 場所がわかったわ、こっちよ!」
菜々は小松菜畑の手入れをしていた農夫に礼を言うと、二人を呼ぶ。二人は小走りで進む菜々の後を追った。商店が幾つか並ぶ道を通り過ぎ、少し広い通りを渡り、拓けた畑の前で立ち止まった。畑には、小松菜以外にも瓜や大根など様々野菜が植えられている。
「ここよ」
二人が追いつくと、菜々は一言だけ呟いた。
そして、そのまま一歩ずつ畑の中に入っていき、畑の真ん中で立ち止まった。
「ここに、将来私が住むアパートが立つのね」
畑を見渡して、菜々は静かに言った。通り慣れた路地もない。ただ広い畑がそこにあるだけの景色であったが、彼女には確かにそこに、遠い未来に自分が暮らす景色が見えていた。
「菜々……」
「今は、そっとしておいてあげよう。今の菜々君の気持ちを共有することは自分達にはできない」
「そうね。こうして見守ることしか……!」
ゆきが賀集の意見に同意していたとき、それはなんの前触れもなく訪れた。
彼らの目の前で、立て付けの悪い看板が風に倒れる様に、菜々はパタリと畑に倒れた。
慌てて二人は菜々のもとへ走る。
「菜々君! ……え?」
倒れた菜々の体を抱き起こした賀集は、彼女の白いワンピースのスカートが赤く血に染まっていることに気がついた。
「! どいて! 私が診るわ!」
直ぐに事態を察したゆきが菜々の体を賀集から預かり、彼女の下腹部を確認する。
「賀集さん! 直ぐに人を呼んで! 病院へ!」
ゆきは赤黒く染まった指を賀集に向けて、切迫した様子で声を張り上げた。