参
「つまり、彼女が未来人だということになる訳だ」
五日後、この日も賀集は上野へ向う山手線に乗っていた。この五日間、賀集も菜々も小説のアイディアは浮かぶものの、作品としての像が纏まらず没になることを繰り返していた。
電車内の長椅子に腰掛けながら、新たなアイディアを考えていたはずの賀集であったが、気がつくと最初に岩倉家を訪ねた後に菜々が嘘をついていないと大正に伝えた後の彼の発言を思い出していた。
大正が先の言葉を発したのは、帝大に向って本郷通りを歩いている途中であった。近くの学校でファールボールが打ち上げられる音と近所の住人の罵声が聞こえ、賀集が我輩は猫であるの一幕を思い出している時であった。
「しかし、それを仮定すると大変な問題が生まれる」
「彼女は何故時間移動が出来たか?」
「そうだ。当然ながら、時間移動は絵空事だ」
大正は真っ直ぐ前を見つめて断言した。
「珍しいな。大正が仮定すら否定するなんて」
「否とは言っていない。しかし、時間は不可逆的な存在、つまり逆行する事のない存在だ。相対性理論を展開したアインシュタインは、光には粒子の性質もあると考え、二年前にフランスのブロイ公爵が、物質波という、電子のような粒子にも波としての性質があるとの概念を提唱した。更に、昨年ドイツのハイゼンベルクが行列力学を、今年にはオウストリアのシュレデンガアが波動力学を展開した」
「それが何を意味するんだ?」
「物理学の基本は、運動を計算する事にある。運動に関する方程式に登場する時間の値、tは、当然ながら本来は正の値だ。しかし、負の値を当ててもその方程式には変化がない。これを時間対称と言って、何十年も前から世界中で議論がされている。議論の本質が何になっているかはわかるだろう?」
「先ほど君が言った、時間が不可逆的な存在ということだろ?」
「肯定だ。この逆戻りすることのできない時間の方向性を放たれた矢に見立て、時間の矢と呼んでいる。この謎を解くことが物理学の課題の一つだ。同時に、この先に存在するのが、過去と未来の関係だ。乱暴な言い方をすれば、方向性が対称になっているだけで過去も未来も同じ値だ。しかし、未来には、歴史という過去の積み重ねが存在する。この手の話は俺よりも賀集の方が詳しいだろう?」
「時間を遡ると事実が変わってしまう。この問題だな? 多くの空想作家がこの難問に苦しんでいるよ」
「それを都合よく解釈できるのが、先の粒子と波の性質を伴う存在だ。一つは、人という物質も同じ様に波としての性質を持つ、または与えられるかも知れないという事だ。しかし、それ以上に都合のいい話は、粒子であることと波であることの確率だ。粒子を物質的な意味で存在すると仮定すると、波では存在しないと言い換えられる。先の行列力学と波動力学はその確率についての話をしているんだ。ある瞬間に存在するか、否か」
大正は懐から二銭銅貨を一枚、取り出した。
「もっとわかりやすい言い方をしよう。この銅貨が件の粒子としよう。この段階では、賀集の目に見える。だから、今俺の右手に存在しているという確率は十割だ。しかし………」
大正は二銭銅貨を持つ右手と左手を重なり合わせ、それを離すと、握った状態で賀集の前に突き出した。この状態では賀集にはどちらの手に二銭銅貨が入っているかわからない。
「さて、この時に銅貨は左右どちらの手中に入っているか、君にはわからない。この状態を、言い換えると、右手と左手それぞれに銅貨が存在する可能性は同じだけある。つまり、右手に存在する状態と左手に存在する状態が共存するとも言える。これは手を開くまでわからない。つまり、手を開いて、確定するまでは右手に存在し、同時に存在しない、曖昧な状態の存在で存在していると言える」
「右手だろう?」
賀集がジトッとした目で大正の目を見て聞いた。
「……」
「答えろ、右手だろ?」
「否」
「嘘だ。右手に存在する」
賀集が指摘した。大正は溜息をついて右手を開いた。その掌には二銭銅貨があった。
「お前は神にも挑めるな。………これは俺という存在があったから、君に確定する事ができたが、自然界ではそういかない。この曖昧な状態を成立させる考え方が、平行世界の肯定だ。左手に存在していた世界も存在していたという考え方だ。これで、因果律を否定できずに全否定されていた時間の逆行を肯定できる要素になる」
「つまり………どういうことだ?」
「今のこの時間というのは、無数にある存在するか否かの選択肢を進んだ一つの結論にすぎないという事だ。過去へ遡った未来とは別の未来が遡った過去から経過する時間の先には存在するとすれば、時間の持つ因果律は意味を成さない」
「つまり、方法は兎も角、時間移動そのもので生じる矛盾は、無視できるのか?」
「乱暴な空想だ。しかし、方法を問う議論よりも先に出てくる、時間の不可逆性に関する問題を肯定できるものにしなければ、方法論もなにもない」
「そうだな。………しかし、もっと単純な考え方もあるな」
「え?」
賀集が立ち止まり、ボソリと言った。数歩先に出た大正が振り返った。
「時間の不可逆性については置いておいて、その因果律に関してはもっと簡単な結論がある。起点である未来で、過去は確定しているという事だ」
「つまり、過去に時間移動するという出来事が既に成立した未来ということか?」
頷く賀集。
「そうだ。それなら、全く問題ない。中沢菜々という未来人が存在するこの時間の先に、時間移動する中沢奈々が存在するという事だ。つまり、彼女はまさに運命が確定している存在ということか。……いや、この俺も君も、世界そのものが既に運命が確定しているという事か。……その考え、その意味がわかっているんだろうな?」
「当然だ。彼女の語る未来は、全てが確定している未来だ」
「それでも、お前は彼女の元へ行こうと考えているんだろう?」
大正に聞かれ、賀集は頷いた。
「これは運命だ。自分は空想小説を、いや、彼女から聞いた未来の世界を元にした小説を書く」
「わかっているだろう? 君は人の嘘を見抜ける。君が接触する事で、彼女が語る事が嘘であるという可能性すらも否定してしまう。人が信じる時間の曖昧さの一切を否定し、確定した未来を知ることになる。………俺は行かない。俺にはやろうとしている事がある。先ほど話した内容には、まだ議論中のものも多い。未来の事実を聞かなければ、俺にはまだ未来の事象が不確定であるとも解釈できる。だから、俺は行かない。お前も、俺が聞くまで、彼女から聞いた未来の事は一切を語るな! わかったな!」
大正は強い口調で言った。それには、自分の死を宣告しない様に担当医へ頼み込む末期患者の如く、鬼気迫るものがあった。
彼はそのまま弥生にある一高の寮へと消えて行った。
「あ、着いた」
山手線が上野駅に到着したことに気がついた賀集は、一気に現実に引き戻された。
「考えたわよ!」
例の如く執事に促されて菜々の部屋に賀集が入ると、彼女は開口一番に言った。
「なんだ、藪から棒に」
「だ、か、ら! 小説のアイディアを考えたのよ! 今度こそ、いけるわ!」
「本当か?」
「えぇ!」
賀集が聞くと、菜々は胸を張って頷いた。
「二つ考えたわ。ささ、メモして!」
「あぁ」
目を輝かせる菜々に促されて、賀集は机に紙と万年筆を置いた。菜々は自信満々に語りだした。
「一つは居なくなったお母さんを探す兄弟の話。親子愛って泣けると思わない? この情報収集とか、探しているシーンとかで未来っぷりをアピールするのよ!」
「未来っぷり?」
「未来の世界らしさよ。どう?」
菜々は身を乗り出して、賀集の反応を見た。
「うーん。悪くはないね。ありきたりだけど、その分空想未来という特異性が目立つ。……もう一つは?」
「もう一つは……、ちょっと子どもっぽい内容なんだけどね。主人公は親友同士の二人。そして、一人には兄がいるの。しかし、彼はなんらかの犯罪に加担しようとしていて、行方を晦ませている。それを気付いた弟は阻止しようとする。そして、彼の親友は、自分の大切な友人の大切な存在を守る為に、共に立ち上がるっていう、冒険小説なのかな? さっきの話の後に派生で思いついた話なの。………ちょっと、王道だし、子ども向けすぎる内容よね?」
「いや、いいよ。実にいい! 母を探す内容は、どうしても暗い印象を与えてしまう。しかし、兄という存在なら、子供にとって守ってくれる存在である以上に、憧れの対象だ。その憧れが崩壊する事態に、彼ら自身が立ち向かう。自分はその展開が気に入った! それで行こう!」
「本当に?」
「あぁ。君は作家の才能があるのかもしれない! いや、今からワクワクしてしまうよ!」
「へぇ……賀集さん、そういうのがツボだったんだ。……あ、納得できるわね」
普段の言動から意外性を感じた菜々であったが、直ぐに昨日の少年雑誌のことを思い出し、納得した。これが彼の本質なのだろう。
「よし、では早速登場人物を決めよう。主人公二人と兄の三人でいいだろう。この手の作品は主軸を決めて、その他の登場人物は脇役に留めた方が短い作品にしても、内容を深く突き詰める事が出来る」
「名前は?」
「決めても決めなくてもいい。ただ、登場人物を存在している人間のように描くには、やはり人物設定を詳細に決めた方がいいだろうな」
「なら、ぴったりの名前があるわ」
「なんだ?」
賀集が聞くと、菜々は紙を受け取り、二つの名前を書いた。
「和昭と成平。……妙に平凡な名前だな」
「これがいいのよ。きっと、数十年後にこの小説が未来を描いた小説だと気付かせるひとつのヒントになるわ」
「まぁ、この程度なら構わないな。それで、兄の名前は?」
「うーん、考えてなかった」
「平和や明るいものを想像する名前でいいな。和昭の兄として、名前を一文字使うのがいい。和……昭……。よし、光昭はどうだ?」
「うん。いいじゃないの?」
菜々は特に思案する事なく返事をした。ちなみに、光昭は平成の他に上がった年号の候補の一つと噂されているものの一つであるが、当人達は知るはずも無い。
「よし、これで名前はいい。次は彼らの設定だ。年齢、容姿、環境は最低限決めておきたいところだ」
「成程ね」
「読者層である少年が読みやすく、自分としても書きやすい年齢として、15歳くらいがいい。思考もある程度、確りしているし、責任感も出てくる。自立も出来る年齢だ。この年齢なら、成長による変化も顕著に描ける」
「という事は、中三ね。高校受験とかの不安も抱えつつ、友達との思いでも一杯作りたい………懐かしいなぁ」
菜々は遠い目をして、言った。
「学齢や教育が変わっていても、その年齢毎の思い出は同じなんだな」
賀集が微笑んで言った。
「そうだね。………それで、お兄さんは?」
「18がいいな。これは、心情などが難しいと予想される人物を、自分の年齢と同じにすることで、想像をしやすくなる。次は彼らの環境だ」
「さっきも言ったけど、普通は中学三年生で、高校受験を控えているわ」
「それもあるが、この場合の環境は、どういう場所に住んでいるか、どういう家庭にいるかなどに該当する」
「あぁ、成程ね。やっぱり都内の方が書きやすいんじゃない?」
「瑞江村か?」
「いやぁー、まだショックなんだから、言わないでよぉ」
菜々は手で耳を押さえる仕草をして、拒絶を表す。賀集には、その仕草が妙に滑稽に見えた。
「村人」
「ふぇー」
「村民」
「んぎゃぁ」
「東京市民外、東京府民」
「……あ、それは実感がないから大した事ないわ。……って、楽しんでいるでしょ?」
「あぁ」
賀集は、ジトッとした眼差しで睨む菜々に、平然と頷いた。
「いつか仕返ししてやるから、覚えておきなさいよ。……で、本当のところ、場所はどうするの?」
「この近辺が一番妥当だと思う。必要に応じて現地取材にも行けるから」
「なるほどね。……でも、私は取材に行けないかも」
「何故?」
賀集が聞くと、菜々は黙って腕を上げて、腕に結ばれていた白い布を見せる。
「気になっていたけれど、それはなんだい?」
賀集の質問に、菜々は授業中に教科書の問題を読み上げる教師の様な口調で言った。
「目が覚めました。そこは見知らぬ部屋で、知らない人達が自分を違う名前で呼び、全てが過去の世界でした。これを信じられますか?」
首を振る賀集。菜々は続ける。
「私は混乱しました。とりあえず、周りの人は私の言動に不審を抱き、この部屋から出してくれません。さて、状況を把握したい私はどうしたでしょうか?」
「………脱出を図ったのか。なるほど、この部屋なら窓を使うな。それが投身自殺を図っていたと勘違いされた訳か」
「正解! お陰で、この布の結び目、どうやってるんだか片手じゃ全く解けないのよ。つまり、私は軟禁状態という訳よ」
菜々は肩をすくめてお手上げだという仕草をした。そして、話題を再び小説に戻す。
「それで、どうするの? 後は実際に書くの?」
「そうだな。自分の書き方は、大まかな構想が出来た段階で書き始めてしまう」
「意外と雑な作り方するのね」
「いいや、それくらいの方が物語は元気になるんだ」
「元気?」
「自分は、小説が生き物であると考えている。どれほど詳細に決めていても、書き始めてしまえばその通りには行かない。必ず、予測の出来ない展開や発想が綴られてしまうものだ。だから、自分はその作品を書いているが、創造主だとは考えていない。作家とは、縦横無尽に展開する物語を望む方向へ指揮し、それを文字に起こしているだけの存在だと考えている」
「指揮者ってこと?」
「そうだ。吹奏楽団や鼓笛隊、それらの奏でる演奏は一つの曲に見えるが、作曲家の意図した楽譜という道筋を頼りに、個々が出す音を指揮者によって導いていることで、一つの曲として聞く人を魅了する。作家の役目は、その作曲家兼指揮者と同じだ」
「へぇー、じゃあ早速奏でてみてよ。私達の空想未来小説を!」
「そうだな。……では、聞こう。君の時代のこの近辺の街は、建物はどのようになっている? エスカレエタアやエレベエタアは一般的になったのかい?」
賀集が質問を始めた。既に展開は頭にあり、実際に描写する上で必要な情報を仕入れようとしていると菜々は感づいた。
「あまりこの辺に来たことはないけど、確か上野駅は東京駅程じゃないけど、大きい駅だったわ。エスカレーターも階段があるところにはほとんど全てに併設されていたわよ。それから、お店屋さんも一杯入っていたわ。本屋さんに、喫茶店、そうそう物凄いラーメンに集中して食べられるお店もあった」
「なんだそれは?」
「個室みたいな感じで一人一人別々にラーメンを食べるお店なのよ。女の子一人でも食べやすいけど、友達と一緒に行ったときだったから微妙だったわ」
「……微妙?」
「あぁ、あまりよくなかったって意味の流行り言葉よ」
「微妙ね。そうだ、他に流行言葉はあるかい?」
「うん。……マジとかもあるわ。本当という意味で使うわよ。本当に大変だった! をマジで大変だった! とか、本当に? をマジ? って使ったりね」
「あぁ……あのマジか」
「え! 知ってるの?」
「君の時代ほど広義で頻繁ではないが、古語表現の中にマジはある。歌舞伎か落語の台詞であったはずだ」
「そうだったんだ………。流石は作家ね」
「まぁ、それはそうで。これはマジで使えそうだ。」
賀集はニヤリと笑みを浮かべて言った。
「……兄貴!」
カタカタと音を鳴らし上昇する階段状の昇降機、エスカレエタアでホームへと向う最中、成平の前に立っていた自分と同じ夏期用学生服姿の五分刈りの青年が突然振り向いて叫んだ。彼の名は、和昭。成平の幼馴染で親友だ。
直ぐに成平は自分に向かって言ったのではなく、隣接した下降エスカレエタアにいる人物に向って彼が声を上げたのだと分かった。
しかし、ここは国鉄上野駅の山手線ホーム。利用者は雑踏となり、彼の声もかき消され、彼が見つけた人物もまた姿を見失った。
「兄貴って、光昭さんのことかい?」
成平は和昭に聞いた。彼は即座に頷いた。光昭は、二人よりも一つ年上の齢十八の帝大生である。頭脳明晰というだけではなく、さらさらとした綺麗な髪を持ち、その右の前髪を長く下ろし、そこから覗く目尻に向かって下がる瞳は、ほぼ同じ要素を持つ筈の和昭とは全く対照的な美少年でもある。
情に篤い熱血漢で通っている和昭が最も慕っている人物であるのは、至極当然であり、それは大学受験を控えている高校生の成平にとっても憧れの人物であった。
しかし、それも半年前までの話である。
「……いや、気のせいだったのかもしれない」
和昭はエスカレエタアを昇り終え、下降エスカレエタアの先を振り返って見つめ、静かに言った。成平は何も言葉をかけることが出来なかった。この場合の想定をしたことはなかった。
半年前、光昭は一通の書置きを残し、帝大に退学届けを出して行方をくらました。それは、あまりにも突然の出来事であった。
「兄貴、何をしようとしているんだ? ……マジに」
カタカタと音を立てて下に板を下ろすエスカレエタアを見つめて呟いた和昭の声は、周りの雑踏にかき消された。