弐
賀集一喜は、京橋に家を構える、出版関係でそれなりの富を築いている家の子どもとして生まれた。しかし、育ちの大半は宇都宮にある母親の実家である。
彼には、既に両親はいない。彼の肉親は、宇都宮の祖父母と京橋の祖母だけである。父親は、三年前の関東大震災で発生した大火災に巻き込まれて死亡した。父親の弟も同じく震災で死亡している。
しかし、母親の死は、全くそれらとは違う理由であった。
話は彼の生後一年を迎えようとする時期に遡る。
当時、彼も母親も京橋の家で暮らしていた。まだ乳飲み子であった彼の頭に生えていた産毛が頭髪としての太さと長さを持ち、その一本一本に色がついてきた事が起因となる。
彼の髪色は、黒ではなく、茶色であったのだ。
勿論、彼の両親は愚か、その両親もまた、黒い髪であった。
父親の弟、つまり彼の叔父は母の不倫を疑った。それにけしかけられた祖母も、彼を不倫の子であると疑った。
始めは根の葉もないことだと言い、母の疑惑を否定していた父親も、次第に妻の不倫を疑い始めた。
彼女は必死に潔白を訴えた。しかし、既に京橋の家に彼女の味方となる者は、乳飲み子である賀集以外にはいなかった。
彼女は、故郷の宇都宮に帰り、両親に彼を預けた。事情を聞き、娘の潔白を信じた両親は、彼女に離縁を薦めた。毎夜の様に続いた交渉の末、彼女は遂に首を縦に振った。
彼女の答えに、彼らは安堵した。
しかし、それは帰郷後、彼女が両親についた始めての嘘であった。
明くる朝、彼女は庭の松の枝に吊るした縄の輪に首をかけ、自殺した姿で見つかった。
後に、父方の祖母の祖父に当たる人物が、大陸の人間の血が入っている明らかになった。しかし、それは納骨を済ました後の話であった。納骨は、祖父母と乳欲しさに泣く、彼の三人だけで行われていた。
長男の息子とわかった京橋の家は、離縁が成立していなかった事を理由に、彼を引き取ろうとした。しかし、祖父母は断固として反対した。
結果として、妻を死に追いやった責任を感じていた父親の説得で、叔父と祖母は諦め、以降十数年間、交流を絶っていた。
しかし、三年前の震災での訃報が届き、事態は変わった。老婦人一人が生き残り、孤独となったのだ。
同時に、青年となった賀集の事情も変わっていた。彼は、作家の夢を持ち、上京したいと考えていた。
結果、彼は祖母の世話をする代わりに京橋の家へ住む事になった。つまり、書生と同じ待遇で、後に相続することとなる家に住んでいるのである。
これまでの話は、賀集が宇都宮の祖父母から後に聞いた話と、京橋で生活することになってから祖母から聞いた話を合わせた、客観的な事実である。
当時、乳飲み子であった彼が記憶に残っていないのは仕方のないことでもある。
しかし、彼には唯一、主観的な記憶が残っている。
それは、母親が京橋の家で必死に潔白を訴えた時の一瞬。母の胸に抱きしめられた彼が、潔白を訴える母の目を見上げた瞬間の記憶。
それが、生来彼の持つ才能の一つであったのか、この時の経験が起因となっていたのか、それは彼自身もわからない。
しかし、現在の賀集には、目を合わせた者が嘘を言っているのか、否かがわかるのだ。
そして、自分を中沢菜々と名乗った岩倉なな子の目は、記憶に残る母親と同じ、嘘のついていない目であった。
翌日、岩倉家に賀集の姿があった。大正はいない。彼一人だった。
「また来たの?」
彼女は昨日と同様、寝台から上半身だけを起し、部屋に入った賀集を一瞥すると直ぐに視線を窓の外へ移し、呟いた。
窓から見える空は、昨日同様に晴天とまでは言えない天気であった。
「明日は雨が降るかもしれない」
賀集が呟いた。彼女はポツリと返した。
「そう。……天気予報で言ってたの?」
「あぁ」
予想外にも、素直な返しに少し驚きつつも、彼は頷いた。
「朝のラジオで言っていた。まぁ、当たることと外れることが殆ど同じく位だけどな」
「ふーん……。そんなに外れるんだぁ………」
「どんなに優れた観測者でも、見ている空は我々と同じだから、仕方がない」
「そりゃそうか……」
「なら、君の時代はどうやって天気予報をしていたんだい?」
「簡単よ、宇宙から見ればいいのよ」
「宇宙?」
「人工衛星よ。雲の様子を宇宙から見る機械よ。地上から見て予想するよりも簡単でしょ?」
彼女は言い終わって初めて、賀集が自分の話を肯定し、聞いている事に気がついた。
「私の言っていること、信じてくれるの?」
「嘘をついていないんだから、信じるしかないだろう。君は21世紀の中沢菜々だ。それは嘘ではない」
「……本当に、信じてくれているの?」
彼女は不安と期待、そして疑念をその大きな瞳に懐き、賀集の目を見つめる。
彼はゆっくりと頷いた。
「そんな……真剣な目で、私の話を聞いてくれたの……あなたが……初めてだよ」
彼女は言葉を発する度に、瞳を一層に潤ませ、仕舞いには涙を流していた。
「なんで泣いているんだよ」
「だって……嬉しいんだもの!」
涙腺が狂ってしまったかの様に、滞る事を知らぬ涙で顔面を崩した彼女は言った。
それを聞いて、賀集は思わず微笑んだ。
「嬉しいのだったら、笑えよ。泣くべきじゃない」
彼の言葉に、彼女は一度顔を伏せ、勢い良く顔を上げた。
「………うん!」
その笑顔はとても綺麗であった。
「つまり、賀集さんは小説家で、そのネタ探しで私に会いにきたってことなんだ」
落ち着いた彼女は、例の執事が部屋に届けてきた温かい西洋紅茶を一口飲むと、賀集の話した過程についての感想を言った。
「あぁ。しかし、事実とは考え難い話だったから、あまり気乗りはしなかった。アイデアに行き詰っていたから、その気分転換に大正と出歩きながら議論を交わせればそれでよかったと思っていたのが、本心だな」
寝台の脇に置いた椅子に座る賀集も紅茶を口に流すと、答えた。白い陶器のティーカップに満たされた澄んだ紅色を帯びた液体から放たれる香りが、鼻、口、そして再び鼻を抜けた。
「ま、冷やかしに来たお友達の大正って人よりも印象はよかったけどね」
「そう言うな。彼は昔からああいう物の言い方しかできない者なんだ。それに、彼も君の言っていた話、満更でもないと思っている。信じているかは兎も角、真剣に話を聞いていた」
「アレで?」
彼女は眉間に皺を寄せ、目を瞬かせて聞いた。賀集は苦笑混じりに頷いた。
そして、もう一口、紅茶を啜ると、賀集は話を切り出した。
「それで、本題なのだが、こうして君と出会えたのも縁だ。自分は、是非とも未来についての小説を書きたい。協力して頂けないだろうか?」
姿勢を正した賀集は、改まった口調で彼女に提言した。ある程度の展開を予想していた彼女はわざとらしく腕を組んで考える素振りをする。
「う~ん、どうしようかなぁ~」
「頼む!」
賀集は頭を、椅子に座る自分の膝よりも下になるのではないかと思うほどにまで下げて、懇願した。
彼女は思わず噴出した。
「ちょっと、それじゃ真剣さが伝わらないわよ?」
「あ……、失礼」
「全く……。いいわ! 但し、条件があるわ」
「条件?」
「私もその小説の執筆に協力させて。そして、小説は私と一緒に書く。彼此一ヶ月近く、ここに閉じ込められて退屈なの。当たり前だった話が、この時代じゃ当たり前に話すとキチガイ扱いだもの。いいでしょ?」
彼女は目を輝かせて、賀集の返事を待った。
「わかった。その条件を呑もう」
賀集は頷いた。
「やったー! じゃあ、賀集さん、よろしくね!」
思わずガッツポーズをした彼女は、満面の笑みを浮かべて右手を差し出した。賀集はその手を取り、握手した。交渉成立だ。
「こちらこそ。えぇーっと、中沢さん?」
「菜々で良いわ。中沢っていうと、周りの人から変な目で見られるでしょ? 菜々だったら、なな子の呼び名に聞こえるから」
「わかった。宜しく、菜々君」
執筆は翌日から開始された。
賀集は、早めの昼食を取り、すっかり見慣れた根津神社を通り、正午に岩倉家を訪ねた。最早、無駄な応対はなく、執事は淡白に賀集を菜々の部屋へ通した。
「どうしたの、その荷物?」
昼食の冷しうどんを啜っていた菜々は、賀集が肩に下げていた大きな書類鞄に気がつき、挨拶も抜きに指摘した。
「執筆というのはただ紙と筆があればいいというものではない。資料をまとめ、構成を組む必要があるんだ。昨日、ここの帰りに帝大の図書館に行ってきた」
そう言うと、寝台に腰を下ろしている彼女がうどんを食べるのに利用していた足に車の付いた移動式の机の上に、鞄から出した本を次々に積み上げていく。
「何、コレ?」
「これは少年向けの雑誌、少年倶楽部。これは譚海。これは赤い鳥だ」
どれも表紙に片手を振り上げた夢を持った子どもの絵が描かれた雑誌を積み重ねる。
「帝大って、こんなのもあるの?」
「いや、これは私の蔵書だ。帝大は、資料の情報収集をしていただけで、貸し出し時間が過ぎてしまった」
「………」
菜々は何も言わずに、器に残ったうどんを啜った。汁の中に浮かぶ、かち割りされた氷が暑さを癒す。
「自分は、これら雑誌に掲載されている様な子供に夢を与える小説を書きたい訳だ。それには、やはり未来を舞台にした空想小説が最適だと思う。まず君のいた、21世紀は具体的にいつ頃なのかい?」
菜々が冷たい汁まで飲み干すと、賀集は机に紙と万年筆を用意していた。
「2010年7月よ」
「なんだ、百年も先ではないのか。いや、その方が未来を想像しやすい」
彼は紙にメモを取った。そして、質問を続ける。
「よし、続ける。住まいはどこだい?」
「江戸川区」
「……どこだ?」
賀集は顔を上げた。
「え、まだ東京都江戸川区ってないの?」
驚く菜々に頷く賀集。
「今の東京は、東京府。ここは東京府東京市本郷区に当たる。下の地名は何?」
「一之江」
「あぁ、今は東京府南葛西郡瑞江村だ」
「郡? 村? ……都心じゃないと思ってたけど、村だったんだ……」
気持ちが盛り下がり苦笑いを浮かべて菜々は呟いた。
「この数十年で東京がそれだけ発展するという事だろ? 喜ばしいと思うがな」
「そう考えることにするわ。……待って、地下鉄ってあるの?」
「地下鉄は、現在工事中だ。上野から浅草を繋げる予定らしい」
「あーメトロの銀座線か。銀座線が最初の地下鉄だったんだ、知らなかった」
「東京地下鉄道はそう呼ばれるんだな」
「という事は、一之江駅を通る都営新宿線が出来るのはまだまだ先ね」
「それはわからない。来年かも知れないし十年後かも知れない。自分は、地下鉄道の事しか知らないからな。……さて、続けよう。君の年齢は、岩倉なな子と同じ17歳かい?」
「そうよ。都立高校の三年生。って言っても、確か今って違うのよね、学年の取り方」
「現在の学年は、尋常小の六年、中学校の五年、高等学校の三年、大学の三年になっている。自分は中学卒だが、同級生の大正は現在第一高等学校の三年生だ。彼は来年帝大に上がる予定だ」
「そういえば、一高って名乗ってたわね。……という事は、18歳ね」
「あぁ。そっちは?」
「小学校六年、中学三年、高校三年、大学は大抵が四年よ。でも、高卒や大卒で就職する人が多いわね」
「成程な」
賀集は頷きながら、紙にメモを取る。
そこへノックの音が聞こえ、菜々が応じると、執事が食器を下げに来た。ついでに賀集はトイレを借りたいと頼んだ。
「しかし、本当に大きな家だ。古いだけの京橋の家とはまるで違う」
用を足した賀集は、装飾の施された壁などを眺めて、一人感想を呟きながら、廊下を歩いていた。
「貴方がなな子を毎日訪ねている作家ね」
唐突に背後から声をかけられた賀集は驚いて体を跳ねらせ、振り向いた。
彼の後ろには、長い黒髪を後ろに束ねた女性が立っていた。顔は菜々そっくりであったが、その雰囲気は大人びている。一目で岩倉なな子の姉であると見当が付いた。
「なな子さんのお姉さんですか?」
「そうよ」
彼女は頷いた。今後小説執筆の為に通い詰めることになる事を決めていた賀集は、可能な限り愛想の良い表情をして挨拶をした。
「そうですか。はじめまして、賀集一喜と申します」
「ゆきよ。よろしく」
岩倉ゆきは、会釈程度に首を下げた。そして、彼の横を通り過ぎた。その時、彼女は小さく、しかし彼の耳に届く声で囁いた。
「人の不幸を喰いものにして、最低ね」
咄嗟に、弁解を言おうと彼は振り返ったが、彼女は近くの部屋に入ってしまった後であった。わざわざ部屋に入ってまで弁解を言うべきではないと判断し、気持ちのどこかにしこりを残しつつも、賀集は菜々の部屋に戻った。
「それで、どんな小説を書こうと思っているの? 21世紀の事を書くって言っても、色々あるでしょう?」
部屋に戻ると、少年少女譚海を流し読みしていた菜々が聞いた。
「それについてはまだ構想中だ。仮にその頃、戦争があれば、それを題材にした冒険小説を書こうとも思っている」
「残念ながら、日本は戦争してません」
パサリと音を立てて譚海を閉じて、菜々は言った。
「ならば、平和の中にあるちょっとした冒険を書きたい。旅行記としてもいいな」
「それ、これの影響?」
菜々は今し方読んでいた譚海を見せる。六年前のバックナンバーで、連載小説の中に鹿島鳴秋の小人島奇譚があった。
「これって、ガリバー旅行記でしょ? 私も小さい時に読んだわ」
「そうだ。スウィフトの翻訳小説だな。自分が始めて買って読んだ雑誌だ。この世界に足を踏み出そうと考えるようになった作品だ」
賀集は懐古する眼差しで譚海を手にとって言った。
「ふーん。……それで、旅行記ならどういうのにするの? この時代の人が未来に行くとか?」
「いいや。それも面白そうだが、それでは未来の世界を軸においた物語ではなく、時間移動を軸に置いた物語になってしまう。登場人物はその時代の人物にする。………菜々、未来では移動手段の発展が予想される。鉄道はその網を広げ、高速鉄道なる物も完成しているだろう」
「うん。新幹線がそれね。東京と大阪が二時間半だったかな?」
「それはすごい! 高速鉄道ではなく、夢の超特急だな!」
賀集は興奮し、鼻息を荒くして紙にメモを取り、更に質問を続ける。
「それから、海路と空路だ」
「船? ……わからないわ。水上バスとかは昔乗ったことがあるけど、移動手段というよりも観光の一つみたいな感じだったし」
「という事は、空路の発展が考えられるな」
「確かに、日本中至る所に空港作ってるわね」
「つまり、多数の客を乗せる大型の飛行機が完成しているという事か?」
「うん。何人くらい乗れるのかな? 百人くらいは乗れる飛行機が飛んでるわね。あれ、数百人かしら?」
「成程。それほどの力だと、プロペラ推進ではなく、ジェットエンジン推進の飛行機が開発されたということかな?」
「あー……、そういえば、ジャンボジェット機って飛行機の事を言うわね」
「それはアメリカ本土へも行けるのか?」
「友達が去年シアトルに家族旅行で行ってたわね。何時間だったかな? 10時間以上はかかってたと思うわ」
「それは、距離の関係で仕方のない事かもしれないな。いや、一日とかからずにアメリカ本土へ行けるのはもの凄いことだ!」
目を輝かせて、賀集はメモを取り、宙を見上げる。当然、見えるのは天井の筈だが、今の彼には、大空を翔る飛行機の姿が見えていた。
「それで、どういう話にするの?」
そんな空想に浸る賀集を呆れた眼差しで見ながら、菜々は聞いた。
「そうだな。祖母の使いで、少年はアメリカへ出かけるというのはどうだろう?」
思わず菜々は肩を崩した。
「ないない、絶対にない!」
菜々は高い声を上げて否定した。
「なら、中国か? ソビエトか?」
顔を上げた賀集は、ずれた眼鏡を指で上げながら聞いた。
「そうじゃなくて、おばぁちゃんのお使いで海外へ一人で行く子どもなんていないって言ってるの!」
菜々は両手を前につき、主張を訴えた。賀集は即座に反論する。
「だが、飛行機は沢山の人を乗せられる様になったのだろう? 自分も十の時分に、祖母の使いで電車に乗って、宇都宮からこちらまで行ったことがあるぞ」
「距離が違うでしょ、距離が!」
菜々は嘆息した。しかし、彼は不満気な表情をする。
「宇都宮から上野まで何時間もかかるんだ。……それに、あまりに近いところでは旅行記に成るまい。精々異国は行きたい」
「いいけど、私は海外旅行に行ったことないわよ」
「そ……そうなのか」
菜々の一言で賀集は落胆した。
「別に海外じゃなくてもいいじゃない。工夫一つでどうにでも出来るのが小説でしょ? 腕を見せどころよ。それに、一応私は都民よ! 東京の事だったら任せて!」
賀集は顔を上げた。なんとも情けない笑顔を菜々に向けて頷いた。
しかし、この日は妙案が浮かぶ事なく、賀集は帰宅の徒についた。