壱
「今朝、わざわざ電話がかかってきた時は何事かと思ったぞ」
賀集一喜は、国鉄上野駅の改札口で駅員に切符を渡すと、相変わらず人込みの中から目当ての男を見つけ、近づくなり挨拶代わりの文句を言った。
相手の男、大正明治は、この仮駅舎内にも届く蝉時雨から想像される通りの真夏日にも関わらず、律儀にも学生帽を被り、紺色詰襟の学生服の上からマントを羽織っており、涼しげな印象を与える要素は素足で履く下駄のみだ。そして、ポケットからはみ出した軍手。一目で彼が第一高等学校の学生であるとわかる。
一方、賀集は立て襟の洋シャツに袷と袴で身を包み、黒縁の眼鏡と深く被ったハンチングという関東大震災以降、目に見えて減ってきた蛮カラ姿であり、その印象の通り彼は、北の親元を離れ、東京の祖母の家で文学の勉強をしながら作家を夢見る齢十八の青年である。
「何事かと聞かれれば、正午に上野駅にて待つという事だ」
旧友は悪びれる様子もなく答えた。
「全く……。それで、何の用事だい? 春から連絡の一つもよこさずに突然呼び出したんだ。まさか、ただ話をしに呼び出す事を口実に、自動電話をかけてみたと言うんじゃないだろうね? わかっているだろうけど、君は本郷の寮からだから徒歩で来れるが、京橋に住んでいる自分は、鉄道に乗らなければならないのだからな」
「そんな愚考はしないさ。そもそも、来春から帝大工学部へ入学することがほぼ確実である二部三年生の俺が、年明けに開始された自動式の電話を使用してないとでも思うのかい? 答えは否だ。君なら俺が言った事が嘘であるかの判断ができるだろう?」
大正は賀集に指を突きつけて言った。賀集は彼の瞳を見て、嘆息した。
「わかったよ。君は嘘をついていない。じゃあ、用件はなんだい?」
「そうだな。端的に言えば、これから人を訪ねに行くんだ。その人物が、空想小説とやらを書こうと模索している君の刺激になると思ってね。確かに連絡は寄こしてないが、君が執筆で行き詰っている事は風の便りで聞いているからね。……というのも、相手は正真正銘の良家で、流石に俺一人というのは気が乗らないんだ。そこで、君にも同行してもらおうと思った訳だ。……詳しくは、歩きながら説明する。何、弥生と駒込の間、夏目漱石先生宅の近くだ。上野公園のバラックがなくなった様を見て、帝都復興を実感しながら行こうじゃないか」
大正は台詞と同時に賀集の肩に腕を回し、足を進めた。二人は上野駅を出て、上野公園の不忍池へ向った。
時は、20世紀。西暦1926年、大正15年8月15日。激動と云われる大正時代最後の夏にして、後に起こる第二次世界大戦の終戦日と呼ばれることになる、比較的雲が多いにも関わらず暑い日であった。
「岩倉家の名前に聞き覚えはないか?」
上野公園は、国鉄上野駅のほぼ北に位置し、二年前に宮内省から東京市に下賜された為、正しくは上野恩賜公園となっている。
園内の西側にある不忍池の外周を歩きながら、池の中にある島に建てられた入母屋造の不忍弁天堂を賀集が眺めていると、大正は言葉を投げかけた。弁天堂に架かる観月橋を往来する人々の姿見える。
賀集は彼を一瞥し、答えた。
「貿易商だったな、確か」
大正は頷いた。
「そうだ。何でも、先代が明治維新後の文明開化の波に乗り、貿易会社を立ち上げたのが起こりで、当初は名士の猿真似などと馬鹿にもされたそうだが、着実に事業を成功させていった。そして、あの大戦で大儲けをし、今では邸宅を構えている」
「なるほど。して、我々は今、その岩倉邸へ向っているわけだな?」
大正の意図を指摘する賀集は、視線を再び弁天堂に戻していた。参拝者の中には薄汚れた衣類に身を包む者もいる。震災で財産一切を失い、復興の波に乗れずにいるのだろうか。
「………虚言を見抜く君には敵わないが、俺でも君が考えている事くらいはわかる。その詩的な思考で、未だ被災者という存在から抜け出せない者を美化して哀れんでいるのだろうが、俺にはアレが人間としての認識ができないな」
「哲学的な言い回しだな」
「科学を学ぶ者の見解かもしれないが、人間とは欲強い生物なんだ。どんな状況に陥っても、己をその現状に満足ができない。だからこそ、デモクラシーと云う社会の変化が生まれたんだと俺は考えている。如何なる時も、諦めない。それが生物としての人間のあり方だ」
「それなら、自分は人間から外れようとしているのかもな」
賀集が物淋しげな表情で呟いた。大正は彼の肩をポンと叩いた。
「君はまだ人間だ。事実、今も浮かばぬアイデアを捜し求めて、俺と行動を共にしている。………さて、その参考になる様に、もう少しこれから向う用件について話しておこう」
二人は不忍池の外周を回り、根津へ向けて歩みを進める。
大正は視線を進行方向にある、茂みの先にある恩賜上野動物園に向けたまま話を続ける。
「岩倉の子供は七人いてな。そこの三男、確か第五子が、帝大工学部の三年で、最近俺と懇意にしてくれている。先日、その岩倉先輩の様子がおかしいと聞いてな。それとなく、先輩に聞いてみた。すると、先月、末の妹が自殺未遂をしたという返事が来た」
「自殺未遂?」
「慕っていた俺だから話したと言っていた。やはり、良家の娘が自殺未遂というのは、世間的に良くない。理由、その他についてまでは先輩も話してくれなかった。しかし、どうやら彼を悩ませていたのは、その後のことらしい」
「後遺症でも残ったのか?」
「良い言い回しだな。その質問だと肯定になる。仮に君が不能という表現を用いてきたら、答えは否であった」
「つまり、五体に問題はないということか」
「そうだ。実に科学的にも医学的にも難しい状況にその妹は置かれているらしい」
大正特有とも云える表現で説明され、賀集は少し思案して、一つの見解を述べた。
「……記憶か?」
「肯定だ。それが実に、今の君に適している後遺症なんだ」
「どういうことだ?」
賀集は眉を寄せる。今度の彼の意図はどうにも掴めなかった。
「別人の記憶というべきか、医学的な表現で人格障害というべきかわからないが、当人は別の人間だと主張しているそうだ」
「ジキル博士とハイド氏の様だな」
「俺は医学的知見がない。故にそれ以上の説明はできないが、興味深いのは、その彼女が主張する人間だ。自分は未来の人間だと主張しているそうだ」
賀集は思わず立ち止まった。目を見開いて、呆然と立ち止った。数歩先で振り向いた大正がニヤリと笑みを浮かべる。
「どうだい? 君のインスピレイションに影響を与えそうな話だろう?」
岩倉邸は、大正の説明の通り、本郷と駒越の間、根津神社近くの小高い丘の上の住宅地にあった。一際広い敷地が岩倉家であり、中へ入ると手入れの行き届いた庭に囲まれたコンクリート製の西洋風の建築の邸宅が二人の目に飛び込んできた。真新しい造りであるが、近づくと柱など至る所に補修された痕があり、震災前に建てられたことが窺える。
「お約束していた大正です。こちらは友人の賀集と云います」
入口で対応した初老の執事に大正が挨拶をすると、彼は恭しく頭を下げ、承っております、と僅かに擦れた声で言い、二人を邸内へ促した。
玄関ホールから吹き抜けになっており、中央に架けられた階段を昇り、二階の床一面タイル張りの廊下を歩いていく。カランコロンという大正の下駄の音が廊下に響く。
大正は一応の礼儀のつもりで脱いだ学生帽を団扇代わりに扇ぎながら執事の後に続く。大正の隣に並んで歩く賀集は、ハンチングを深く被ったままにしている。
やがて、執事は突当りの扉の前で立ち止まった。後に続く二人も扉の前で立ち止まった。
「なな子お嬢様はこちらの部屋で療養なされております」
そして、彼は扉をノックし、ドアノブに手をかけた。そこで、一度動きを止め、再び二人に顔を向けると、声を落として言った。
「くれぐれも、お嬢様を刺激する様な言動はお控えください」
二人は頷いた。
それを確認すると、執事は、失礼しますと言いながら、扉を押し開いた。
その瞬間、風が吹きぬけた。
夏の暖かく湿った空気ではなく、涼しい乾いた空気が賀集の頬を撫ぜたのだ。
それは恐らく、丘を通過する地上の熱気を吸っていない空気が流れている為なのだろう。なんとも、爽やかな風であった。
「次は、何の先生? 心理学? それとも、精神医学?」
若い女性特有の澄んだ高音の声が、畳が優に十畳は敷ける室内に広がった。それは、まるで水面に広がる波紋の様に、部屋の隅々までに行き届く声であった。
声の主は、例の爽やかな風が入り込む窓から一米程離れた場所に置かれた洋式寝台の上に、上半身だけを起した状態で腰を下ろしていた。彼女は麻地の衣を肩に羽織っているが、体に身に纏っているのは白色の襦袢一枚だけであり、素肌の色が僅かに透けている。
「! 誰、この人達は!」
少女、岩倉なな子は視線を賀集達に向けると、彼らが自分と同世代であった事に気がつき、慌てて肩に羽織っていた衣を寄せて、前を隠す。
その時、賀集は初めて彼女の顔を確認した。彼女は、短く艶のある黒髪と大きな瞳が印象的な細い体躯の少女であった。
「はじめまして。手前は一高三年の大正。年号の大正、明治と書いて、おおまさはるじと申します」
まず大正が挨拶をした。続いて、賀集も挨拶をする。
「大正の友人で、賀集一喜と申します」
賀集が名乗ると、再び大正が得意の饒舌で一通りの挨拶を言おうとする。
「本日は、お兄様から貴女が療養中の身というお話を伺い、勝手ながらお見舞いに……」
「来るという口実で、自称未来人と言って、周囲から気違い扱いを受けている私を見に来たんでしょ? 好奇心だけで」
彼女は冷笑を彼らに向けて言った。図星を突かれた賀集は、何も言い返すことができなかった。口を開いたのは、やはり大正であった。
「実に的確な状況分析ですね。確かに、俺達は上野動物園に連れてこられた珍獣を見に来た物見客と何も変わらない。……しかし、君は違うのではないですか? それが、正しく本物の珍獣なのか、ただの紛い物なのか」
大正の言い回しに、彼女の表情が険しくなる。
「私が嘘をついているって言うの!」
「肯定です。第一に、時間移動をする事が現実として可能なのかという問題があります。第二に、世界……この場合は社会という認識が近いですが、判断する君は、岩倉なな子という現在、誕生からこの時点まで生存している人間として存在している。未来人なら、貴女は生まれた時まで遡っていなければならない」
大正は淡々とした口調で、彼女の主張を切り捨てた。
「だったら、DNA鑑定でもして見なさいよ!」
彼女は声を少し荒げた調子で言った。しかし、彼女以外は怪訝な顔をしている。
直ぐに彼女は気がつき、眉間に指を当て、嘆息する。
「あぁ……そういえば、DNAってまだ見つかってないのよね」
眉間に当てている右腕には布が巻かれており、その布は寝台の柵に結ばれていた。
「はぁ。何でよりによって過去なのよ。……まだ見つけられてなかったり、作られてなかったりしたら、幾ら説明しても理解してもらえないじゃない」
「それは早計というものだ」
そこで口を開いたのは、大正であった。彼は彼女に近づきながら言う。
「名称などは、その概念を理解している者が認識を共有する為に使う存在にしか過ぎない。例えば、俺は先ほど君に大正明治と名乗った。これによって、君とそこにいる賀集の間で、大正明治という名前が俺を指すという認識が共有されたことになる。しかし、他人に俺という存在の認識が共有できないかといえば、答えは否だ。俺の人となり、経歴や能力、情報を与える事で、大正明治の名が俺を指す事を、俺と直接会った事のない者とも認識を共有する事ができるというわけだ」
「何が言いたいの?」
突然、持論を展開し出した大正に彼女は不快感を露骨に出して聞いた。彼は即答した。
「DNA鑑定とやらを、説明すればいい!」
「それは………えーっと……」
彼女は口を開いた状態で視線を巡らせたり、眉間に皺を寄せたり、指を宙でクルクル回したりしている。イメージは漠然と出来ている。しかし、それを口で説明できない。そんな状態であるのは、賀集にもわかった。
しかし、大正は意地悪にも追い討ちをかける。
「どうした? 説明ができないのか? 認識できてもいない言葉を使って、何の意味がある?」
「………」
大正の言葉に何も反論できず、彼女はただ唇を噛む事しかできない。
「今までどんな偉い先生が訪ねたかは知らない。だが、根本的なことを突き詰めようとしていた者はいなかったようだな」
「……根本的なこと?」
彼女は大正を見上げた。彼は、ニヤリと笑い、言い放った。
「君が、岩倉なな子以外の何者でもないという事実。そして、それを証明する為に必要な疑問、哲学的な疑問とも云える。………つまり、君は誰か? それを、証明できるか?」
「私は………」
彼女はすぐさま、彼に反論しようとした。しかし、後に続く言葉が出てこない。
彼は非常に意地の悪い質問をした。自分が誰か、などという事を、自分以外の者に証明する事など、殆ど不可能な事なのだ。
しかし、彼女は一度目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、吐き出すと、目を開いた。
「……証明なんて必要ないわ。だって、私は、大正時代の岩倉なな子じゃない。………そうよ、私は、21世紀の中沢菜々よ!」
それを彼女がはっきりと言い切った瞬間、賀集は彼女と視線を合わせてしまった。それによって、彼は気がついてしまった。
彼女の言っている事は、嘘ではないと。