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空想未来小説  作者: 宇多瀬与力
2/11

 小さい頃、私の夢は未来の国からはるばると猫型ロボットに来てもらう事だった。

 しかし、母子家庭で借家住まいの我が家には、引き出しのある勉強机はなかった。

 私の抱いた最初の夢は、21世紀を向う前に儚くも散った。

「暑い……。お母さん、いい加減新しいエアコン買おうよぉ」

 その晩は、熱帯夜が多いと云われる今年の夏の中でも、特に暑かった。畳の敷かれた6畳の居間で、私は汗で首にはりつく長い髪の毛を払う様に団扇を仰ぎながら、隣の台所で夕飯を準備する母に懇願した。

 居間の窓の上に神棚の如く掲げられたエアコンは、部屋の温度を調整するという本来与えられた役割を果たさずに、電気を喰い続ける穀潰しである為、去年の冬からコンセントが抜かれている。

「そんなお金があったら、ここの家賃を支払うわよ」

 リズミカルに包丁を叩く音を立てながら、母は返した。

 六畳の居間と寝室、玄関と風呂、トイレが一つになっている我が家は、1LKと云えば聞こえはいいけれど、実態は築数十年のボロアパートの借家だ。しかし、そんな家でも、例え川を挟んで目の前に千葉県があろうと、二階なのに窓からの景色が向いのビルの壁だけであろうと、東京都内というだけで結構な金額の家賃を取られ、現在家賃滞納2ヶ月目に突入している。

「やっぱり、バイトしよっか?」

 私が少し砕けた口調で言うと、今まで室内に流れていた包丁の音が止んだ。

「菜々、あなたは勉強するのが仕事なのよ」

「でも……。お母さん、昼もお仕事して、夜も飲み屋で働いているのよ? 友達だって、コンビニとかでバイトしているし……」

「他所は他所。うちはうち。それに、その友達はアルバイトしている分、予備校で勉強しているんでしょ?」

 母は私に聞いた。私は思わず返事に困った。勿論、アルバイトをしている友達が全員予備校で勉強している訳でもない。予備校に通っている友達の中には、講義や自習をサボってアルバイトやその稼ぎで遊んでいる者もいる。

「それか、浪人が許されているんでしょ?」

 私が返事に困った最大の理由を母はさらりと指摘した。私を大学へ通わせたいと生活を切り詰めて働く母の私に求めている事は一つだ。四年制大学への現役合格。それが、国公立であろうと、私大であろうと、母には些細な問題らしい。私大では学費もかかる。母の貯金で私を私立大学へ通わせるのは、非常に困難な事だろう。

 しかし、私の成績では国公立は難しい。特に、社会科科目と理科科目、英語が絶望的なのだ。得意な科目は、数学ⅠAと国語系科目だ。二次関数以降の数学と体育はあまり得意ではない。かといって、芸術系の才能があるわけでもない。

 つまり、私、中沢菜々という人間は、非常に受験生向きの能力を持つ女子高生ではないのである。最適な職業は何かと考えると、いつも一つの答えに行き当たる。

「主婦」

「どうしたの? ボーっとしちゃって……。暑さでやられた?」

 いつの間にか、夕飯の支度を終えた母が、今のちゃぶ台に夕飯を並べていた。ちゃぶ台の上に散らばっていた菜々の鉛筆の汚れ一つない綺麗な問題集は畳に下ろされ、昼間仕事先で貰ったという菊とリンドウと百合の入った花瓶は窓際に移動されていた。それにしても、その花の組み合わせはお墓参りの花束に見えてしまう。……いや、もしかしたらそうなのかも。母よ、会社でイジメられているのか?

 私の心配を他所に、当の本人はノンキに苦笑して私に言う。

「しっかりしてよ? 菜々は大学を出て、一流の会社で働くんだから」

「だから……、私は別にそれが夢なんじゃないんだから!」

 私は何度も繰り返している問答を今夜も母に始めた。母が私に現実的に安定した将来を求め、私が反論する。そして、母はいつも私に聞くのだ。

「じゃあ、菜々の夢は何? お母さん、菜々が本当にしたい事なら、反対しないわよ」

「………」

 答えられるはずはなかった。今の私に、将来の夢は、ないのだから。

「だったら、勉強をして。少しでもお金のかからない国公立大学に入って頂戴。別に東大なんていいませんよ」

 母は、白髪染めクリームの臭いが残る体を私に近寄らせて言った。人工的に黒く染められた彼女の髪は、私には、起きようとせずに夢の中に居続ける様な、彼女の無理をした人生を表しているかの様に見えた。


「じゃ、戸締りを確りして寝るのよ」

 夕食後、支度を整えた母が玄関で、寝間着姿の私に言った。私は呆れながら答える。

「もう、17歳の娘の留守番に言う台詞じゃないよ。お母さんこそ気をつけてね。いつも直ぐに一人で突っ走っちゃうんだから」

「ハイハイ」

「ハイは一回でしょ?」

「ハーイ」

 まるで幼い子どもの様なやり取りを終え、母は近所の飲み屋の仕事へ出かけた。

 私は言いつけ通り、玄関の鍵を閉めた。襖を開け、居間のちゃぶ台を見下ろすと、例の花瓶の影にスカイブルーの携帯電話が置かれていた。

「あー……お母さん、ケータイ忘れてるよ。………まだ、間に合うな」

 携帯電話を手に取った私は、振り向いて玄関を見ると呟いた。タンスの扉にハンガーで引っ掛けられた制服のシャツを羽織った。ズボンは、コスモス柄のパジャマのままだが、スカートを履く余裕はなかった。

 サンダルを履いて玄関の鍵をかけた時、この中途半端な格好なら寝間着のままでも良かったのではないかと気がついたが、後の祭りだった。

「お母さーん!」

 私は部屋の前にある金属製の階段を、音を立てて駆け下りながら、母を呼んだ。しかし、母は既に家の路地を出た通りの信号を渡った後であった。

「あー、もぅ! ここの階段、キツ過ぎ!」

 私は転げ落ちそうになるのを何とか堪えて階段を降り終え、母の後を追って、通りに向かって路地を走った。

「おかーさーん! ケータイ忘れてぇ………」

 私は母に携帯電話を持つ手を振って呼びかけながら、路地から飛び出した。

「!」

 その瞬間に、私が理解できた感覚は、聴覚を刺激するクラクション、大きな二つの光。

 私が、どの時点でそれをトラックであると判断できたのかは、わからない。しかし、その判断ができるよりも遥か先に、私の生まれ持った本能が、死を悟らせた。

 私の名前が呼ばれ、死の順番が来た事を、何者かが私に伝えた。

 何故か、その後に私を襲った苦しみは痛みではなかった。それは、覚えていないけれど、確かに経験していた感覚だった。全身が水に包まれる感覚。息苦しさと開放感。

 あぁ、生まれる時の感覚だ。

 意識が、深く、深く見えない水底へ向って沈み、浮遊感が全身を支配した時、それを私は思った。

 刹那、私の意識は無に帰した。

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