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空想未来小説  作者: 宇多瀬与力
10/11

「出来た……」

 賀集が万年筆を置いたのは、日が一度昇り、それも傾き始めた翌日の午後であった。

「……おっと」

 大きく伸びをして立ち上がった賀集は思わずふらつきベッドに倒れこむ。寝食すら忘れて書き続けていたのだ。当然の結果と言える。

「いや、駄目だ。今すぐに菜々君のところへこれを届けに……行かねば………」

 しかし、賀集はそのまま死んだ様に一気に眠りに落ちた。

 五分。ほんの五分程度眠ったつもりであった。

 賀集は、ゆっくりと瞼を開く。疲労は回復していた。

「……しまった!」

 しばらく辺りを見回すと、その異変に気がついた。部屋が薄暗くなっていた。

 慌てて窓の外を見ると、日はもはや夕日とも呼べないほどにまで沈んで弱くなり、青くなった空の反対側は漆黒の闇の中に浮ぶ白い月が街を照らしていた。

 五分どころか、五時間近く眠っていたらしい。

 慌てて賀集は原稿を束ねて鞄に入れると、大急ぎで部屋を出た。そして、いつの間にか岩倉邸に戻っていた例の執事に、菜々のいる病院へ電話をかけさせてもらうように頼んだ。

「………えぇ? どういう事ですか? ………それじゃ誘拐じゃないですか! ……はい。わかりました。では、警察に連絡をしてください!」

 賀集は殴りつける様に、電話機の受話器を戻した。穏やかな事態でないことを察した執事が賀集の様子を伺う。

 賀集は、一度深呼吸をして憤りを抑えると、口調を落ち着かせて説明した。

「菜々君が病院から姿を消しました。看病をしていたゆきさんの姿も見えないそうです。それから午後の回診の後に二人組の男が見舞いに来たそうです」

「えぇ! そんな!」

 驚く執事に、賀集は続ける。

「看護婦の一人がその二人組の内の一人が彼女の身内の者だと知っていたので、それから病室の様子も見にいかなったそうです。……つまり、昨日病院にいた、九胤さんです」

「! ………しかし、なぜお坊ちゃまが?」

 更にその小柄な体を仰け反らせて驚く執事。賀集は首を振り、答える。

「それは自分にもわかりません。しかし、菜々君とゆきさんが九胤さんに攫われたのは状況から間違いありません。問題は、どこにいて、誰といるかです! 心当たりはありませんか?」

「そんな……なんて事を………」

 執事は完全に狼狽している。賀集は、思わず舌打ちをすると、彼の両肩を掴んだ。

「落ち着いて下さい! あなただけが頼りなんです!」

 賀集が叱咤すると、執事の視線が賀集と合った。過呼吸気味になっていた彼の呼吸が落ち着く。

「………どうか、落ち着いて思い出してください。九胤さんが親しくしていた人や、何かを隠れてする様な場所を」

「……そういえば、心当たりがございます」

「それは?」

「ここ半年……いえ、一年程の間、九胤お坊ちゃまが一緒にいるのを何度か見ました」

「それは?」

 執事に問うと、彼はじっと賀集の目を見つめた。

「!」

 賀集にも頭の片隅に可能性でその人物のことがあった。しかし、自らでそれを指摘する勇気はなかった。

 しかし、執事はその人物の名を言った。

「賀集様をこちらに連れて参りました、大正明治と申す一高生でございます」

 その言葉を聞いた賀集の脳裏に、遠い昔に大正が言った言葉が、君は俺にいつか裏切られる、という言葉を発した少年だった大正の姿が浮んでいた。


 賀集は夜の本郷通りを、帝国大学目指して一目散に走っていた。直ぐ後を走っていたはずの執事の姿は、既に遥に後方に小さく見える。

 あれから彼らは、まず九胤の住む離れを調べた。しかし、何も参考になりそうなものはなかった。

 しかし、何も参考になりそうなものがなさ過ぎたのだ。そこで、賀集は執事に聞いたのだ。

「九胤さんが、学問をするのに利用していたのはどこですか?」

 離れにあった書物は、一般的な読み物や総合的な勉学の学習書などばかりであった。帝大で専門的な学問を学んでいる人間の部屋にしては、あまりにも専門書がなさ過ぎたのだ。

 そして、執事が思い出した場所こそ、帝大内の一棟の地下室を教授が自由使用を特別に認められているという話だ。当然、公にはなっていない非公式な使用らしいが、それこそが彼らの居所である可能性を強めた。

「はぁ、はぁ……流石に、走るには距離があるな」

 九胤の学んでいる分野の研究室が入っている棟までたどり着いた賀集は、苦しくなった呼吸を整えようと深呼吸をする。

 しかし、そう中々呼吸が落ち着くほどに賀集は運動慣れしてはいない。全身から流れ出る汗の内、顔を伝う汗だけでも腕で拭うと、彼はふらつく足取りで棟の中へと入った。


 夜の棟内の灯りは想像以上に少なかった。地下へ降りる階段は特に暗く、一段一段慎重に降りる。

 しかし、それ以上に彼が恐れたのは、足音であった。この階段は、構造上か、異常なまでに足音が上から下に響く。足音だけではない。賀集の荒くなったままの呼吸も、その息遣い一つ一つが階段から棟の全体に響きわたる。しかし、それを気にしてばかりはいられない。

 やがて賀集は、階段を下り終え、地下階の廊下に出た。しかし、廊下に聞こえるのは賀集の息遣いだけだった。

「違ったか……」

 そう呟いた時、賀集の目に薄暗い廊下の中で僅かにもれる部屋の明かりを見つけた。正しくは、分厚いガラス越しにもれる灯りだった。

 その部屋は、防音設備が整っているのか、金属製の分厚い扉で閉ざされていた。

 賀集は、その扉に耳を押し当てた。とても微かだが、話し声が聞こえる。

「……とうに、なな子の………だな?」

「…ていだ。今度こそ………は成功する」

 はっきりと聞こえなかったが、男の声がなな子の名前を言ったことと、もう一人の声が聞き間違えることのないほどに聞きなれた声であったこともわかった。もう一人は、間違いなく大正の声であった。

 賀集は周囲を見回した。何かの実験に使うものらしき金属製の棒があった。1メートルを超える長さのそれを掴む。想像以上に重い。

 賀集は、金属の棒を握りしめると、金属製の分厚い扉を思いっ切りの力で開け放った。

「「!」」

 部屋は、ほぼ正方形の四方の壁をコンクリートで覆われた完全な密室部屋となっていた。そして、部屋の中央には大きな機械装置があり、その傍らには頭に何か冠の様な装置が取り付けられた菜々とゆきが横になって眠っており、その前に九胤と大正の姿があった。

「予想以上に早い到着だな。流石は賀集だ」

 最初は驚いた大正だったが、直ぐに平静な態度になり、笑みを浮かべて言った。

「どういうことだ?」

 一方、九胤は動揺したまま、大正に聞いた。

「どうもこうもない。俺達は病院で看護婦に顔を見られている。そして、君はその正体を知られている。賀集が突き止められない方が不思議なくらいだ。だが、正直なところ、もう少し時間がかかると踏んでいた」

 淡々とした口調で語る大正の目に一切の偽りはない。

「やはり、お前が菜々君達を………。何のためにこんなことを?」

「実に的確な質問だ。再実験を行う為だ」

「再実験?」

「実験に失敗はつきものだ。しかし、それで飽きられては、科学の発展はない………。失敗は成功の母というだろ?」

「何が言いたい?」

 賀集は声を落として聞いた。大正はやれやれと首を振る。

「おいおい。君ほどの人間がこの状況で俺の言葉の意味がわからないというのかい?」

「………なな子さんは、自殺じゃないのか?」

「それでいい」

「答えろ!」

 賀集が声を荒げると、大正は肩を竦めて答えた。

「肯定だ。……しかし、否とも言える。彼女は確かに自殺未遂をした。だが、それは失敗に終わった。なぜなら、ここにいる岩倉氏が助けたからだ」

「………」

 賀集は何も言わずに大正の目を見つめ続ける。全て偽りのない言葉だ。

「そして、彼は俺を呼んだ。理由はこの装置を使う為」

「何の装置なんだ?」

「説明する単語はいくらでもある。だが、どれも的確ではない。偽りのない言い方をすれば、人の精神を移す装置だ。もっとも、あの段階ではまだ完成に至ってはいなかった。しかし、既に試作段階を終え、数回の動物実験も終えていた。そこに来た岩倉氏の要望は、渡りに船だった。だから、実験に協力した」

「つまり、その装置は九胤さんが研究をして作ったものではなく」

「あぁ、俺が彼の協力で作ったものだ」

 大正は平然たる顔つきで言った。

「……君は何者なんだ?」

「それは今、君がするべき質問とは言えない」

「……二人をどうするつもりだ?」

「一応合格点だな。いいだろう。二人は実験の被験者だ。彼女の精神をこの女性に移す」

 大正は菜々を指差した後、その指をゆきに向けた。

「そんなこと……」

「出来ないとは言うな? 既に成功はしなかったが、失敗という程ではない成果を出している」

「その実験で、菜々は彼女の体に憑依(うつ)ったのか?」

「肯定だ。もっとも、あの時は岩倉なな子から岩倉ゆきへ憑依(うつ)す実験であった為、薬で眠らせて運んできた岩倉ゆきの脳波に変化が見られなかった為、失敗したと考えた。だから結局、俺達は岩倉ゆきを元のベッドに戻し、岩倉なな子も元の入水自殺をした池に捨てたがね」

「!」

「怒ったかい? しかし、この展開は君が随分前にわかっていたことじゃないか? 俺が君の能力を知った時に、俺はこうなる事を予想して君に告げた。覚えているだろ? 君は俺にいつか裏切られる」

 賀集は怒りをぐっと、金属の棒を握り締める力に込めて耐える。

「……教えろ。自殺の、なな子さんの自殺の理由は、何だ?」

「もう想像できるだけの材料は得ているだろ? いいや、君の事だ。自分の口からそれを言うことはできないか」

 大正は軽笑すると、蔑んだ表情のまま続けた。

「この岩倉氏が、例の胎児の父親だ。加えて言うと、それは岩倉なな子を望まずして起こった。……これで十分だろ?」

「………下衆」

 賀集が呟いた。

「外道とも言える。だが、そのお陰で俺は貴重なデータを得られた」

「!」

 その瞬間に、賀集の中で何かが切れた。その手に握る金属の棒を振るい上げ、声にならない奇声を上げて、大正に襲い掛かった。

 しかし、重い金属の棒は動きを鈍らせ、大正は体を捻って、それを回避する。棒は鈍い音を立てて床を叩く。

「そこまでだ!」

 賀集が大正の声で振り向くと、彼の前には拳銃を構えた九胤が立っていた。

「ご苦労。助かった」

「いいえ。それよりも、約束を」

「わかっているさ。ちゃんと岩倉ゆきの体に岩倉なな子の精神を入れてやる」

 拳銃を構えたままの九胤の肩をポンと叩き、大正は言った。その目は偽りを言っていた。

「………」

「だが、その前にコイツを片付けなければ。賀集、その物騒な棒をこっちによこせ。安心しろ、直ぐに殺しはしない。むしろ逃がしてやる。そうすれば、必然的に、精神を失って死亡するこの岩倉なな子の体に都合のいい説明がつくからな! 喜べ、21世紀まで生きられるぞ! もっとも、殺人犯としての指名手配を逃れ続けられたらの話だがな!」

 そして、大正は愉快そうに呵呵大笑する。

 拳銃を突きつけられた時点で、賀集に勝機はなかった。しかし、負けない可能性は残されていた。

 彼は、ゆっくりと体を向き直り、その手に握る金属の棒を思いっ切り放り投げた。部屋の中央に鎮座する機械装置に向かって!

「!」

「ちっ!」

 驚く九胤。咄嗟に大正は、舌打ちをすると同時に、目の前にいた九胤の体を思いっ切り突き飛ばした。突き飛ばされた九胤の背中に、賀集の投げた金属の棒が直撃した。

「がはっ!」

 呻き声を上げて、九胤は倒れる。同時に、拳銃が部屋の隅に転がり、金属の棒も鈍い音を立てて床に落ちる。

 すぐさま大正は、装置に駆け寄る。

 しかし、賀集の動きはそれよりも数瞬早かった。彼は地面に落ち、弾みにで宙に浮いた金属の棒を走りこみながら、掴み取り、その走る勢いを殺さずに、そのまま装置を殴った。

 機械装置は、火花を散らした。しかし、それも一瞬だった。機械装置は再び沈黙し、その上は(ひしゃ)げて、そこに金属の棒が突き刺さっていた。

「くっ……」

 火事場の力で殴った為、肩を痛めたらしく、賀集は顔を歪める。しかし、その両脇にいる菜々とゆきは、静かに寝息を立てていた。二人は、無事だった。

「………ちっ! 無茶苦茶しやがって! 陳腐な人間風情が……」

 賀集が顔を部屋の入口に向けると、毒突く大正がいた。

「待て!」

 賀集は直ぐに立ち上がり、走った。同時に、大正も走り出した。


 大正は、階段を慣れた調子で駆け上がる。一方、賀集は暗い階段を上手く駆け上がれない。その距離は一気に広がる。

 そして、あっという間に地上階へ上った大正は、そのまま外へ逃げようとする。

「あ! 待ちなさい!」

 しかし、丁度そこには賀集の後から走ってきていた執事がいた。彼は直ぐに両手を広げる。

「ちっ!」

 大正は、突き飛ばそうとするが、すぐに迫る賀集の足音に気づき、舌打ちをすると、その身を翻し、階段を駆け上がった。

「賀集様! 上です!」

 やっと夜目が効いてきた賀集が、地上階に達すると、執事が上を指差す。階段を駆け上がる音はまだ響いている。

 そのまま賀集は階段を駆け上がった。階段を駆け上がる音を追っていくと、屋上に達した。見ると、屋上への扉は、開け放たれている。

「はぁ、はぁ……。よし!」

 賀集は肩で息をしつつも、呼吸を整え、屋上に出た。

 夜風が彼の体を通り過ぎる。屋上を照らすのは、空に浮ぶ月の明かりだけだ。

 そして、その月光の下、屋上の真ん中に夕涼みでもしているかの様に立つ大正の姿があった。

「脱帽だよ、賀集」

 大正は視線を賀集に向けた。

「大正、君は……」

 一体何者なのか。そう聞こうとする言葉を飲み込み、賀集は違う言い方を選んだ。

「大正、自分の目を見て言え。君は、未来から来たのか?」

「………」

 じっと大正を見つめて言った賀集を彼は黙って視線を合わせ続ける。しかし、大正は直ぐに溜め息を吐き、この睨めっこをやめた。

「降参だ。……賀集、君の言うとおりだ。本来の俺はこの時代の人間ではない。中沢菜々の21世紀どころではない、途方も無い未来に生きていた人間だ。この大正明治という名前も当然本当の名前ではない。第一次世界大戦……あぁすまない、お前からすると只の世界大戦だな。あの戦争で家族が死亡したという、大正という苗字の孤児に憑依(うつ)ったから、ちょっとした遊び心でな。行き着いた宇都宮の親族だという者に大正明治と名乗った。明治維新で氏名ができたとはいえ、まだ戸籍もいいかげんだな。簡単にこの時代の人間に入り込めた。そして、中学校でお前に出会った」

 賀集は大正の目を見つめる。彼は本当の事を言っている。

「……本当の君も同い年なのか?」

「あぁ。時代だけじゃなく、人間そのものが少し違う時代に生まれたんだ。分かりやすく言えば、秀才や天才を意図的に作れる技術がある。よって、俺の時代の人間は生まれながらの秀才や天才しかいない。そして、俺もその例に漏れることなく、5歳でこの時代でいう帝大卒業以上の知識と学力を習得し、7歳で重力子物理学の応用理論を完成させた。それ以降、俺はある目的の為に不可逆的な存在とされる時空の可逆性を実証……つまり、過去への時間移動を実現させよう研究に没頭した」

「それを完成させてこの時代に来たのか……」

「正確には、百年は先に行くつもりだった。どうも装置が未完成だったらしい」

「君の目的は何なんだ?」

「勿論、俺は研究者だ。知的好奇心が理由だ」

「理由ではない。君が過去へ来た目的だ」

「………流石だな、俺が見込んだだけある。地球人になりたかったからだ」

「え?」

「恐らく、中沢菜々からその前兆についての話は聞いているはずだ」

「まさか、空想未来小説の……環境問題のことか?」

「肯定だ。彼女の話は所詮、地球の周期的な環境変動に多少の変化を与えていた程度の段階だ。この星の許容範囲内の事態で、異常気象と騒いでいた甘い時代の、な」

「………」

「俺の時代、地球に脊椎動物は存在していない。環境適応能力の高い無脊椎動物の一部と植物の一部が異常変異して生存している以外は肉眼に見える生物は全て絶滅した。代わりに肉眼に見えない大きさの微生物には楽園と成っているが」

「人は?」

「俺達人間は、地球外に逃げた。多くは地球衛星軌道上の人工生活衛星で生活し、一部は新天地を求めて宇宙へ旅立った。俺は宇宙で生まれ育った」

「そんな……」

「お前の能力には、感謝すべきだな。この話を信じてくれるのだから」

 大正は驚く賀集を見て口元を綻ばせた。そして、大正は話を続ける。

「そして、俺は完成させた装置を持って、地球へ降りた。しかし、俺は予定していた時代よりも若干早い時代に来てしまった。正直、最初は困った。理由は二つある。この時代ではまだ環境の変化に注目する人間はごく一部の研究者だけだった。そして、もう一つは技術面だ。俺は研究者だ。実験の結果を確認する必要があった。故に、俺の時代に再度戻る必要があった。しかし、この時代ではその装置を作るには、いくつかの材料が未発見であったり、未開発であった。仕方なく、俺はこの時代の人間として生き、この時代のこの国で最も優秀な人間が集る場所へ行くことにした」

「一高に帝大か」

「肯定だ。そして、岩倉氏と出合った。彼は愛する妹を生かす為にその精神を別の人間に移したいと望んでいた。俺はそれを利用した。同時間での憑依を成功させることと、別時間での憑依は理論上同じことだったからな」

「え?」

「時間を直線と考えてみろ。ある点とある点の二つでそれぞれ切断するとして、その一方で見ると未来でも、未来から見ればもう一方は過去だ。すなわち過去と未来を移動することは同一の意味になり、可逆的だ。同時間と言ったが、これは始点終点が同点になっている状態に過ぎない。二次方程式の重解と同じだ。しかし、どうやら俺が目的の時間に来れなかったことと同様に、この時間移動には俺の想定していない別の因子があるらしい。結果的に、岩倉なな子に2010年の中沢菜々の精神が憑依してしまった」

「菜々君は、戻れるのか?」

「それはわからない。しかし、不可能という可能性がある」

「どういうことだ?」

「実体の無い精神であっても、時空の上に存在するモノであることは変わらない。物体に対して働く時間の不可逆性に該当しないだけに過ぎない。本来精神が存在すべき時間とは違う位置に存在することになる。それを引き止めているのが、器である人間の肉体だ。しかし、その器の生命活動が停止すれば、精神は解き放たれ、あるべき時間に引き戻される筈だ。しかし、その始点となった時間に戻っても、その肉体がその直後に死亡している可能性は十二分に考えられる。俺の推測では、この精神には生命活動に関わる一切の本能も含まれているからだ。そして、この可能性は俺にも中沢菜々にも該当する。俺は、装置の実行する都合上、実行時に生身を地獄と表現できる地球上に晒した。岩倉氏の話によれば、中沢菜々も始点は交通事故に遭った瞬間だった。これは憶測だが、憑依の始点にするには、精神を引き止めている肉体がなくならなければならない。つまり、肉体が死亡した瞬間にのみ精神は時間移動が可能となる」

「じゃあ、菜々君はもう戻れない?」

「否だ。俺がやろうとしているのは、別の方法だ」

「別の……! まさか、改めて憑依をするのか?」

「肯定だ。流石だな、賀集。俺の本来の肉体が、始点の瞬間に死亡しているならば、同じ時間の別の人間に憑依すればいい。ま、この大正明治という人間は死亡するのだがな」

「そんな………」

 話を聞き愕然とする賀集に大正はニヤリと笑った。

「なにを絶望している? お前は中沢菜々を生かしたいのだろう? だったら、簡単じゃないか。お前には丁度いい器がある。岩倉氏がやろうとしたことと同じさ。岩倉ゆきの肉体に中沢菜々の精神を移してやればいい。そして、お前は彼女との縁談を進めればいい。愛しているのだろう? 中沢菜々を!」

 大正は興奮した口調で口を大きく開き、詰め寄り賀集に言った。

 しかし、賀集は拳を握り締め、言い返した。

「違う! そんな方法は間違っている! それならば、自分は彼女を生かす方法を考える」

「それは不可能だ。俺の見解は医師と同じだ。彼女は、この時代の医学では治すことのできない病を患っており、その命は来週までもたない。そして、彼女の精神は時の彼方へと消え去る。彼女を救う方法は、他にない」

「それでも! それでも自分はそんな人の道を外れたことをしたくはない!」

「人の道か……なんともエゴに満ちた台詞だ。それはお前が罪悪感にさいなまれる余生を過ごしたくないだけの話だろう。俺にはわかる。お前が本当は何を望んでいるかを。そして、俺にはそれを叶える術がある」

 大正は賀集に詰め寄った。その二つの黒い瞳に映る賀集の喉元がゴクリと音を立てて動いた。

 その反応を見て、大正は勝ち誇った笑みを浮かべた。

「そうだ。自分に素直になれ。何を望み、何をしたい? 俺はそれを叶えてやろう! 共に装置を直そう!」

「じ、自分は………」

 賀集が震える唇を動かし、言葉を発する。しかし、その先の言葉を発する前に、甲高い声が彼らの耳に飛び込んだ。

「望まないわ!」

 二人は驚いて声のした階段の方を見た。

「菜々君……」

 賀集は声を漏らした。階段の昇降口の前にいたのは、菜々であった。

 菜々は青白い顔でふらつきながらも、瞳には生気をみなぎらせて、一歩ずつ二人に近付いていく。

「私は、そんなの望まないわ。もう私の、中沢菜々の体が無い? だったら、私はこれで満足よ。このまま岩倉なな子として死ぬわ。ゆき姉を巻き込ませはしない! ゆき姉は賀集さんとこれから幸せになるの! あんたの勝手にはさせない!」

 そして、賀集の横にまで歩いて行った菜々は、心配して手を肩に添えようとする賀集の手を払うと彼の頬を思いっきり叩いた。軽快な音が周囲に響いた。

 熱を帯びた頬に手を当てて賀集が菜々を見た。菜々は、両目に溢れんばかりの涙を溜めていた。

「何やってるのよ、賀集さん! なに、こんな奴の口車に乗りかけているのよ! 意識無くしてても、ちゃんと聞いていたんだからね。……助けてくれてありがとう。……でもね。私は、賀集さんといられて、十分に幸せよ。もうこの一生に後悔のないくらいに」

 そして、菜々は大正を見た。

「あなた、声が大きすぎよ? その話、地下実験室にも届いていたわ。お兄さん、私よりも青い顔で放心して、私が出て行くのも気にせずに座り込んでいたわ。騙されていたことに気づいたのだから当然ね」

 菜々の話を聞いて、大正は舌打ちをする。

「ふん、今更あんなシスコン男は用済みだ。賀集、俺はここを去る。お前たちは自由に残された時間を過ごすがいい。ドイツやアメリカ、ロシアに行けば、岩倉のような人間は他にもいる。……それとも、俺を止める術をお前たちは何かできるのか? 正義を講じても、客観的には犯罪だ」

「………」

「卑怯者……!」

 黙ってみつめる賀集と、憎らしく呟いた菜々を嘲笑いながら、大正は二人の横を通りすぎ、階段に向かう。二人に、彼を止めることは出来ない。

 大正が階段を下りていく。その背中が二人の位置から見えなくなろうとした時、発砲音が階段から響いた。そして、落ちる様に見えなくなる大正の体。

「「!」」

 賀集と菜々は顔を見合わせ、慌てて階段へ駆け寄った。

 階段には鮮血を流して倒れた大正と、銃口からまだ硝煙を漂わせた拳銃を構えた九胤の姿があった。

「そんな……」

「九胤さん!」

 声をかけた二人を見上げると、彼はか細く笑うと虚ろに呟いた。

「なな子、今そっちに行くよ」

 彼は銃口を自らのこめかみに向けた。

「よせ!」

 賀集が叫んだ時には、彼は引き金を引いていた。

 階段に銃声が響き、二つの死体が転がった。


 数日後、賀集は岩倉邸の菜々の部屋にいた。床についていた菜々に代わり、賀集が警察に事情を説明した。勿論、未来などの内容は伏せ、この事件は研究にとり付かれた研究者二人の凶行として幕を引いた。

 病状が落ち着いていた菜々であったが、今朝から容態が急変し、ゆきからの連絡を受けた賀集が駆けつけたのはつい数分前であった。

「もう……長くは、ないみたい」

「………」

 力なく笑う菜々に、賀集は何も言えず、その手を握った。それしか思いつかなかった。

「あー………頭がぼーっとしちゃって……駄目ね」

「喋るな」

「ううん、言わせて」

 菜々は賀集の制止を拒否し、ゆっくりと言う。

「空想未来小説……書き上げて……くれて……ありがとう」

「あぁ」

「ねぇ……賀集さん」

「なんだ?」

「もし……大正の言っていたことが間違いで、……私が生きていたら、……あの約束……メル友に……なるって約束………果たしてね」

「あぁ、わかった」

 賀集が言うと、菜々は涙をうっすらと流し、頷いた。

「うん………」

 そして、微笑んだ少女は、そのまま息を引き取った。

 享年17歳。岩倉なな子として、その少女は葬られた。

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