亡国の令嬢、父の仇との婚礼を最強騎士がぶち壊しました
父を殺した男の、花嫁にされる。
純白のヴェール。冷たい大聖堂。隣に立つのはガルザス・ゼルガード——ゼルガード帝国第三軍団長にして、父を斬り殺した男だ。
フィーネ・ヴィスタリアは奥歯を噛み締めた。泣くものか。絶対に、この男の前では。
参列席を埋める帝国貴族たちが、祝福の笑みを浮かべている。亡国の姫が勝者に拾われる美談——吐き気がした。
*
前の世界で死んだのは、二十三歳の冬だった。
病室のベッドの上で、何もできないまま。窓の向こうを歩く人々が眩しかった。自分の足で立てること、それだけが途方もない贅沢だった。
最後の夜、祈った。——次があるなら、自分の足で立ちたい。
目を開けたら、泣いていた。赤ん坊の体で。
ヴィスタリア公国。山脈に抱かれた小さな国。春には藤の花が山裾を紫に染める。
二度目の人生は輝いていた。自分の足で石畳を駆け、この世界の全てを貪るように吸収した。
父は穏やかな人だった。フィーネを膝に乗せて、よく藤の花を眺めていた。
「千の花房が集まれば、山を紫に染める。我がヴィスタリアも同じだ。一人一人は小さくとも——」
その先を、父は言えなかった。
十六の春、帝国が来た。七日で王都は落ちた。
父は城門の前でガルザスの剣を正面から受け、死んだ。学者肌の公王に戦の才はなかった。それでも、逃げなかった。
フィーネは泣かなかった。泣いたら崩れると分かっていたから。
*
占領から二年。フィーネはもがいた。
嘆願書を七通書いた。全て黙殺された。密使を三人送った。一人も帰らなかった。
帝国の駐留官に頭を下げ、法の抜け穴を突き、夜間外出禁止令を一つだけ撤回させた。二年間の成果が、たったそれだけだった。
ガルザスに直訴した日、書状を床に叩き落とされた。
「拾え。犬のようにな」
拾った。膝をついて、一枚一枚。読んですらもらえなかった。
それでも立ち上がった。自分の足で立つと決めたから。
けれど——一人の力には、限界があった。
*
心の支えは、一つだけあった。
ヴェルナー・アスティア。
父の代から仕えた公国筆頭騎士にして、「剣聖」の異名を持つ男。
ヴェルナーは開戦の半年前、アルドラ王国への剣術指南役として派遣されていた。公国の数少ない外交資産として——父が自ら送り出した人材だった。
幼い頃の記憶がある。
剣の稽古に打ち込む若い騎士の背中を、城の回廊から眺めていた。まっすぐで、揺るぎなくて、藤の花が舞う中で振るわれる剣は、まるで踊っているようだった。
一度だけ、話しかけたことがある。
城の庭で転んで膝を擦りむいたとき、通りかかったヴェルナーが黙って膝をつき、手当てをしてくれた。剣だこだらけの手が、驚くほど丁寧だった。
「騎士様は、誰を守っているの?」
「この国の全てを」
短い答えだった。でも、その目がまっすぐで、嘘がなくて。
この人は本物だ——子供心に、そう思った。
派遣が決まって城を発つ日、ヴェルナーはフィーネの前で片膝をついた。
「必ず戻ります」
たった一言。でも、その一言を信じた。二年間、ずっと。
いつか父に聞いた。
「ヴェルナーは強いの?」
父は微笑んだ。
「強いとも。——けれど、あの者の本当の強さは剣ではない。一度守ると決めたものを、決して手放さぬ心だよ」
あの人が帰ってくれば。
そう思うことだけが、暗い夜を越える灯火だった。
でも、二年が経っても、ヴェルナーは帰らなかった。
便りすらなかった。
帝国の兵士が笑いながら言った。「あの騎士なら、とっくにアルドラで野垂れ死にしたんじゃないか」と。
殴りたかった。でも、堪えた。
——もう、戻れないのかもしれない。
そう思い始めた頃、婚姻の命令が下った。
*
「ガルザス閣下が、貴様を妻に迎えると仰せだ。ありがたく思え」
帝国の使者はそう言って、薄く笑った。
ガルザス・ゼルガード。父を殺した男。国を踏み躙った男。フィーネの書状を犬のように拾わせた男。
その男の——妻になれと。
「お断りすれば、どうなりますか」
声が平坦であることに、自分でも驚いた。
使者は肩をすくめた。
「公国の残りの民に対する待遇は、今後一切保証しかねる、とのことだ。今ある配給も、住居の保全も、全てな」
人質だ。
千を超える民の命を、天秤に乗せている。
脳裏に浮かんだのは、市場の果物売りのおばさんの顔だった。城下の子供たちの笑い声だった。占領下でも必死に畑を耕す農夫たちの背中だった。
あの人たちを見捨てることは、できない。
フィーネは目を閉じた。
選択肢はなかった。
最初から、なかったのだ。
婚礼の前日、ガルザスが直接フィーネの部屋を訪れた。護衛の兵士を従え、ずかずかと入り込んできた男は、フィーネの顔を見てにやりと笑った。
「明日が楽しみだ。ヴィスタリア公の一人娘が、この手に収まる。——あの男が城門で無様に膝をついた時の顔、今でも覚えているぞ」
心臓を鷲掴みにされたようだった。
「父は——無様になど倒れなかった」
「ほう? 逆らうか。いい目だ。その目が好きでな——折り甲斐がある」
ガルザスは笑い、部屋を出ていった。
去り際、棚の藤の押し花を見つけ、指で弾き落とした。ヴィスタリアの紋章が刻まれた額縁が床で砕けた。
「あ——」
父がフィーネの十歳の誕生日に贈ってくれたものだった。ガラスの破片で指先を切りながら、それを拾い上げ、胸に抱いた。
藤の花びらは、押し花になってもまだ薄紫の色を残していた。父の声が蘇る。千の花房が集まれば——
一人になった部屋で、フィーネは震えた。怒りで。悔しさで。
——でも、泣かなかった。
*
そして——婚礼の日。
控えの間の窓から、一瞬だけ山が見えた。あの向こうに、ヴィスタリアがある。藤の花は咲いているだろうか。
——もう、見ることはないのだろう。
大聖堂に入った。
冷たい空気がむき出しの肩を刺す。純白のドレスは重く、ヴェールは視界を曇らせた。
祭壇まで続く長い通路を、フィーネは静かに歩いた。一歩ごとに靴が石の床を打つ。棺に釘を打つような音だった。
参列者の視線が突き刺さる。哀れみ。嘲り。好奇。——正面を向いたまま、全て受け流した。
隣に立つガルザスが手を伸ばしてきた。太い指がフィーネの手首を掴む。所有物を確認するように。
「逃げるなよ」
囁き声。答えなかった。
祭壇の前。司祭が祝詞を読み始める。
ガルザスの体臭が鼻につく。酒と、脂と、鉄の匂い。父の血も、この匂いに混ざって消えていったのだろうか。
太い指がまだ手首を掴んでいる。骨が軋むほど強く。逃がさない、と言いたげに。
参列席から囁きが聞こえる。憐れだ。器量はいい。——家畜の品評と変わらなかった。
これが、私の二度目の人生の結末か。
前世では病室の天井。今度は冷たい大聖堂。二十三年と十八年。二つの人生を合わせても、何も掴めなかった。
「汝、ガルザス・ゼルガードは、この女を妻として迎え入れるか」
「無論だ」
低い声が大聖堂に響いた。ガルザスは笑っていた。勝者の笑みだった。
「汝、フィーネ・ヴィスタリアは——」
司祭がフィーネに向き直る。あと数秒で、全てが決まる。
フィーネは息を吸った。肺の奥まで、冷たい空気を入れた。
——ごめんなさい、お父様。私は——
そのとき。
大聖堂の正面扉が、轟音とともに吹き飛んだ。
*
衝撃で燭台が倒れ、蝋燭の火が散った。参列者たちが悲鳴を上げ、椅子が倒れる音が連鎖する。
逆光だった。
開け放たれた扉から午後の陽光が流れ込み、大聖堂の通路を白く焼いた。
その光の中に——人影があった。
一人。
長剣を右手に下げ、旅塵にまみれた外套を纏った男が、逆光の中に立っていた。外套の下の鎧は所々へこみ、左腕には黒ずんだ包帯が巻かれている。
満身創痍だった。長い旅路の果てに、文字通り全てを削ってここへ辿り着いたのだと——その身なりの全てが語っていた。
——けれど、その瞳だけが。
暗い大聖堂の中で、炎のように燃えていた。
フィーネの全身から、力が抜けた。
見間違えるはずがない。何年経とうと。どんな姿であろうと。
あの、まっすぐな眼差し。藤の花の下で剣を振るっていた、あの——
「ヴェル……ナー……?」
声が震えた。唇が震えた。
二年間、一度も泣かなかったのに。ヴェールの下で、視界がじわりと滲んだ。
ヴェルナー・アスティア。
ヴィスタリア公国筆頭騎士。剣聖。
帰ってきた。二年かけて、帰ってきた。
——待っていた。ずっと、待っていた。
*
静寂は、一瞬だった。
「何者だ! 侵入者を排除しろ!」
ガルザスの怒号。帝国の護衛騎士が一斉に剣を抜いた。
十人。帝国正規軍の精鋭。
ヴェルナーが、一歩を踏んだ。
——空気が、裂けた。
一人目。剣を抜く音すら響かなかった。金属が触れ合う微かな音だけが残り——気づいた時にはもう、石の床に崩れ落ちていた。
二人目、三人目が斬りかかった。刃が空を切る音が二つ重なり——風が鳴った。大聖堂の空気そのものが震えた。それだけが聞こえて、次の瞬間には二人とも倒れている。ヴェルナーの足は止まらない。歩いているようにすら見えた。
フィーネは息を忘れた。
四人目と五人目が左右から同時に斬りかかった。外套が翻る。長剣が空気を震わせ、低い弦を弾くような音が大聖堂に響いた。四人目が膝から崩れ、五人目は自分の剣が空を切った勢いのまま石の床に突っ伏した。
速い。もうフィーネの目では、追えない。
六人目。七人目。八人目。
彼が通り過ぎた後に残るのは、金属の残響と、鎧が崩れ落ちる鈍い音と、静寂だけだった。剣が風を裂くたびに蝋燭の炎が一斉に靡き、その風圧だけで参列者たちが席から腰を浮かせた。
これは戦いではない。
嵐だ。人の形をした嵐が、大聖堂の通路を真っ直ぐに、祭壇へ向かって進んでいる。
九人目が盾を構えた。鋼の壁。——ヴェルナーの左手が縁を掴み、引き剥がす。金属の悲鳴。次の一瞬で、九人目も床に沈んだ。
最後の一人——十人目が、震える手で剣を構えた。
ヴェルナーは立ち止まった。
「——退け」
低く、静かな声だった。
空気が凍った。十人目は剣を取り落とし、踵を返して走り去った。
嵐が過ぎた大聖堂に、沈黙が降りた。
十人。帝国が誇る精鋭が、一人残らず床に伏している。
誰一人、致命傷を負っていない。殺す必要すらなかったのだ。
*
「き……貴様ッ! 何者だ! 衛兵を呼べッ、増援だ!」
ガルザスが叫んだ。その声は裏返っていた。
ヴェルナーは一瞥もくれなかった。
ただ真っ直ぐに——祭壇の前に立つフィーネだけを見ていた。
嵐のような速さで十人を倒した男が、今はゆっくりと歩いていた。
一歩、また一歩。倒れた帝国騎士たちの間を縫うように、真っ直ぐに。
大聖堂の全てが静まり返っていた。参列者も、司祭も、誰一人動けなかった。この男が祭壇へ歩いていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
ヴェルナーがフィーネの前に立った。
近くで見ると、消耗は色濃かった。外套は擦り切れ、頬はこけ、左腕の包帯から血が滲んでいた。
——どれほどの道を越えてきたのだろう。
それでも。
その瞳だけは、何一つ変わっていなかった。
幼い頃、城の回廊から見上げた、あの真っ直ぐな光。
「この国の全てを」——守ると言った、あの目。
「——遅くなりました、フィーネ様」
その声を聞いた瞬間、世界が滲んだ。
二年間。たった一人で、歯を食いしばって、泣かずに立ち続けた二年間。
嘆願書を書いた夜。密使を見送った朝。ガルザスの前で膝をついた日。誰にも頼れず、誰にも弱さを見せられず、ただ一人で立ち続けた日々。
その全てが、この一言で決壊した。
「ヴェル、ナー……っ……!」
声にならなかった。ヴェールの下で涙が頬を伝い、顎を伝い、白いドレスに染みを作った。
ヴェルナーが右手を差し出した。
武骨で、剣だこだらけの手だった。
「参りましょう」
フィーネはその手を取った。
触れた瞬間——指先から全身に、何かが広がった。
温もりだ。二年間、忘れていた人の温もり。武骨で、剣だこだらけで、でも確かに生きている手の熱。
それだけで、胸の奥の何かが決壊しそうになった。
ヴェルナーがフィーネを抱え上げた。
祭壇が遠ざかる。ガルザスの歪んだ顔が遠ざかる。冷たい石壁が、重たい香の煙が、全てが後ろへ流れていく。
「待てッ! 逃がすと思うか!」
ガルザスの声。剣を抜く音。だが、足音は続かなかった。踏み出せないのだ。あの嵐を見た後では。
ヴェルナーは振り返りもしなかった。ただ、静かに言った。
「ヴィスタリア公の仇——今日は斬らぬ。迎えに来ただけだ」
一拍。
「だが次はない」
背後で何かが崩れる音がした。ガルザスが膝をついたのだと、フィーネは振り返らなくても分かった。
大聖堂の扉から外に出た瞬間——光が、溢れた。
午後の陽光が全身を包んだ。暗い大聖堂に慣れた目には眩しすぎて、思わず目を細めた。まぶたの裏が赤く透ける。生きている色だった。
風が頬に触れた。本物の風だ。石壁に遮られていない、どこまでも吹き抜けていく風。草の匂いがした。土の匂いがした。大聖堂の中の、冷たい石と香の匂いではない。
暖かかった。
フィーネは気づいた。あの大聖堂の中では、ずっと息を止めていたのだ。今、初めて——肺の奥まで、空気を吸い込んだ。
入口の外に二頭の馬が繋がれていた。フィーネを馬上に乗せ、自らも跨り、手綱を引いた瞬間——風がフィーネのヴェールをさらった。
純白のヴェールが、空に舞い上がっていく。
あの男に嫁ぐための衣装。二年間の屈辱の象徴。それが午後の光に溶けて、どこまでも高く、消えていく。
「——あ」
空が、見えた。
前世の病室の窓からは四角にしか見えなかった空が——今、果てしなく広がっている。
こんなにも高い。こんなにも青い。
馬が駆け出した。
世界が動き始めた。石畳が草原に変わり、建物の影が木々の緑に変わる。風がフィーネの髪をさらい、涙が頬を伝う前に飛ばされていった。
自由だ。
その言葉が、唐突に胸に落ちてきた。
二年間、帝国の石壁の中に閉じ込められていた。嘆願書を書く机だけが世界で、ガルザスの嘲笑が天井で、民の苦しみだけが時計だった。
それが今——風がある。空がある。どこまでも続く道がある。
悲しいのではなかった。嬉しいのでもなかった。ただ——胸の奥で、二年間ずっと縛りつけていた何かが、音を立てて解けていくのを感じた。
ヴェルナーの背中にしがみついた。広くて、硬くて、暖かかった。二年分の旅路に痩せた背中。それでも、あの頃と同じ強さがあった。
——もう、一人じゃない。もう、一人で戦わなくていい。
馬の蹄が地面を打つたびに、あの冷たい大聖堂が遠ざかっていく。ガルザスの嘲笑が、帝国貴族たちの囁きが、重い婚礼の衣装が——全部、風の中に溶けて消えていく。
涙が止まらなかった。でもそれは——あの大聖堂の中の涙とは、違うものだった。
*
街を抜け、平原を駆け、森に分け入った。
背後を振り返ると、帝国の城塞が遠ざかっていく。あの石壁の向こうに閉じ込められていた二年間が、一歩ごとに薄れていった。
木々の間を風が吹き抜ける。葉擦れの音が耳に優しかった。鳥の声が聞こえる。大聖堂の中には、こんな音はなかった。
世界が、音を取り戻していく。色を取り戻していく。大聖堂の灰色ではない、生きた緑と青が、視界を埋めていった。
追手の気配が消えたところで、ヴェルナーは小川のほとりに馬を止めた。フィーネを馬から下ろし、自らも降りる。その動作の中で、ヴェルナーが一瞬だけ膝を揺らしたのを、フィーネは見逃さなかった。
「——怪我をしているのでしょう」
「大したものではありません」
平坦な声で答えるヴェルナーの額には、薄く汗が浮いていた。
小川に手を浸した。水が冷たかった。涙の跡を洗い流す。婚礼の化粧が落ち、水面に映ったのは、疲れ切った十八歳の顔だった。
でも——目が生きていた。前世の最後の日、鏡に映った諦めた顔とは違う。疲れてはいても、まだ光が残っている目だった。
呼吸を整えてから、フィーネはヴェルナーの顔をまっすぐに見た。
「どうして。あなたは遠国にいたはずよ」
「アルドラ王国で剣術指南の任に就いていました」
ヴェルナーは静かに語り始めた。
「公国が陥落したと知ったのは、二月ほど後です。すぐに帰国を試みましたが——アルドラと帝国には同盟がある。国境を封鎖されました」
「二月も……知らなかったの」
「海路を探しました。密航を図り、捕まりかけ、山脈を越える道を探しました。幾つもの国を経由し、身分を偽り——」
ヴェルナーの声が、わずかに低くなった。
「——二年、かかりました」
ヴェルナーは左腕の包帯に目を落とした。
「途中、帝国の追手にも遭いました。三度。そのたびに剣を振るい、逃げ、また歩きました」
淡々と語る声に、感情の揺れはなかった。けれどその包帯の下に、二年分の傷跡がどれほど刻まれているのか——フィーネには想像がついた。
「ようやく国境を越えたのは、三日前のことです。婚礼の噂を聞いたのが、そのときでした」
三日前。
国境を越えてから、ほとんど休まず走り続けてきたのだ。あの戦い方の端々に疲労の影があった。それでもなお、十人の精鋭を——。
フィーネは息を呑んだ。
二年。
あの二年間、ヴェルナーもまた戦っていたのだ。剣ではなく、距離と時間と国境という壁を相手に。フィーネが嘆願書を書いていた夜、この人は山脈を越えようとしていた。フィーネがガルザスの前で膝をついていた日、この人は帝国の追手から逃れていた。
「帰路の途中で、フィーネ様のことを聞きました」
「……何を」
「帝国に嘆願書を七通送ったこと」
指が震えた。
「密使を三人、周辺国に飛ばしたこと」
息が詰まった。
「駐留官に直接交渉を申し入れ、何度も頭を下げたこと。——ガルザスの前で、膝をついたことも」
知っていた。
この人は、全部知っていた。
誰にも届かなかったと思っていた。暗い部屋で一人きりで書き続けた嘆願書も、誰にも顧みられなかった密使も、犬のように拾った書状も——全部、無駄だったと思っていた。
なのに。
この人には、届いていた。
「たった一人で、国を守ろうとしていた」
「——守れなかったわ」
声が掠れた。
「何一つ。嘆願書は読まれもしなかった。密使は誰も帰ってこなかった。民のために頭を下げても、何も変わらなかった。夜間外出禁止令を一つ撤回させるのが、二年間の全てだった」
涙が溢れそうになるのを堪えて、フィーネは拳を握った。
「父が命を懸けて守ろうとした国を、私は守れなかった」
声が震えた。
「私は——ずっと何もできなかった。ずっと——」
前世の病室が脳裏をよぎった。白い天井。四角い窓。何もできないまま、季節だけが通り過ぎていく焦燥。あの時と同じだ。
二度目の人生も——結局、同じだった。
「フィーネ様」
ヴェルナーが、片膝をついた。
真っ直ぐに——あの瞳で、フィーネを見上げた。
「——まだ、諦めないでください」
世界が、止まった。
風の音が消えた。小川のせせらぎも、鳥の声も、全てが遠のいて——ヴェルナーの声だけが、胸の真ん中に落ちてきた。
「公国の民は、今もフィーネ様の帰りを待っています。帝国の圧政に、静かに耐え続けている者たちがいる」
「…………」
「アルドラ王国にも、帝国の拡張を危ぶむ勢力があります。道中、接触しました。協力の意を取りつけています」
風が梢を揺らし、木漏れ日がちらちらと二人の間に落ちた。
「二年かかりました。——けれど、手ぶらで帰ってきたわけではありません」
ヴェルナーは、真っ直ぐに言った。
「まだ——終わっていません」
その声は静かだった。
けれど、大聖堂で十人の精鋭を薙ぎ倒した時よりも——強かった。
涙が、溢れた。
今度は堪えられなかった。堪える必要もなかった。
前世では——最後の夜、誰もそんなことを言ってくれなかった。
もう頑張らなくていいよ。もう楽になっていいからね。
みんな優しかった。その優しさに包まれて、天井が最後の景色になった。
でも。
本当に欲しかった言葉は——あの優しさの中にはなかった。
——まだ、終わっていない。
——まだ、お前にはできることがある。
その一言だけを、ずっと待っていたのだ。二つの人生をかけて。
「——ありがとう」
嗚咽の合間に、やっとそれだけ言えた。
ありがとう。帰ってきてくれて。
ありがとう。私を見つけてくれて。
ありがとう——諦めるなと、言ってくれて。
*
どれくらい泣いたか分からない。
小川のせせらぎと、鳥の声と、風に揺れる梢の音。それだけが、二人の間を満たしていた。ヴェルナーは何も言わなかった。ただ、そこにいた。
やがて、フィーネは涙を拭った。
手の甲で、乱暴に。二年分の——いや、二つの人生分の涙を、全部拭い去るように。
そして、顔を上げた。
もう泣かない。
前世のように、天井を見つめて終わったりしない。
今の私には、立ち上がる足がある。
声を上げる喉がある。
そして——共に歩んでくれる者がいる。
「ヴェルナー」
自分の声が変わったことに、気づいた。
震えはない。迷いもない。
それは、ヴィスタリア公国公女の声だった。
父がかつて民の前で語ったような——静かで、けれど揺るぎない声。
「——命令よ」
ヴェルナーが顔を上げた。
ヴェルナーの目が、わずかに見開かれた。
婚礼のドレスは泥と涙で汚れていた。髪は乱れ、化粧は崩れている。けれどフィーネの背筋は真っ直ぐだった。——父もきっと、こんな目をしていたのだろう。城門の前に立った、あの最後の日。
「我がヴィスタリア公国の誇りを、取り戻す」
風が吹いた。
森の木々が鳴り、木漏れ日がフィーネの髪を照らした。
「父が愛した国を。民の暮らしを。藤の花が咲く、あの美しい国を。踏み躙られた全てを——この手で、取り返す」
一歩、前に出た。
「その戦いに——貴方の剣を貸しなさい」
ヴェルナーは静かに目を閉じた。
片膝をついたまま、深く、深く頭を垂れた。
長い沈黙だった。
風が梢を鳴らし、小川がせせらぎ、木漏れ日が二人の上に降り注いでいた。世界は静かで、暖かかった。
そして——顔を上げたヴェルナーの瞳は、澄んでいた。
「貴女の名ならば——地獄までも」
迷いはなかった。
ただ、柔らかな光があった。二年の旅路の果てに、ようやく帰るべき場所へ辿り着いた者の——安堵に似た、静かな光。
フィーネは微笑んだ。
頬にはまだ涙の跡が残っていた。婚礼のドレスは泥に汚れ、髪は乱れていた。
けれどその目はもう、泣いてはいなかった。
前を向いていた。
風が吹いた。
遠い山の向こうから、懐かしい藤の花の香りがした気がした。
——お父様。見ていてください。
貴方の娘は、もう天井を見つめたりしない。もう、俯いたりしない。
——二度目の人生は、ここから始まる。今度こそ。
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