第―――話 黒の約束 ―起源―
――その約束が、世界を変えた。
これは、“黒の約束”が生まれた最初の朝の記録。
すべては、ここから始まった。
――精霊の森
精霊たちが自由に舞い、木漏れ日が空気そのものを柔らかな黄金に染める。
風が吹けば、光が粒となって流れ、世界そのものが息をしているように見える。
かつて“世界の知識”が宿ると呼ばれた森――俺が知る限り、その奥に踏み入れる者はほとんどいなかった。
精霊に拒まれれば、二度と辿り着けない。
そんな不可思議な森を、二人で歩くのが俺とソフィアの共通の楽しみだった。
彼女は笑うとき、いつも風の音に似た声で笑う。
木々の間に差す光を見上げながら、指先で魔力の粒を弾く。
「ねえ、見て下さい。世界って、こんなに綺麗なんですよ。……なのに、滅びるんです」
そう言って、寂しそうに微笑む。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
風が頬を撫でるたび、彼女の瞳の奥に一瞬だけ影が差す。
――それでも彼女は笑っていた。滅びゆく世界を、愛おしむように。
俺はその言葉に、ただ頷くしかなかった。
彼女が見ている“世界の綺麗さ”を、俺はまだ知らなかったからだ。
いつも、森は穏やかだった。
けれど、今日の風だけは――どこか、笑っているような気がする。
まるで、まだ名のない出来事の気配を先に嗅ぎつけたかのように。
ソフィアの足取りが、風に導かれるように速まった。
「精霊たちが“沈黙する場所”があるらしいのです。世界が記憶を閉じた場所……」
俺は笑って肩をすくめた。
「また妙な本の読みすぎじゃないか」
けれど、ソフィアは真剣だった。
その横顔には、ほんのわずかな恐れと、祈りのような決意が混じっていた。
「もし本当なら、そこには“世界のはじまり”が眠っているかもしれません。
そして……“終わり”も」
その言葉の直後、風が止んだ。
さっきまで囁いていた木々が、まるで息を潜めたように静まり返る。
森の空気が、ひやりと冷たく変わった。
「ソフィア、戻ろう。ここから先は――」
言い終える前に、彼女は光の向こうへ歩き出していた。
その背に、言葉にならない焦りがこみ上げる。
そして、声以外の音が置き去りにされた。
振り返った先に、森が避けたかのように石造りの貴族邸を思わせる建物があった。
崩れたはずの外壁の石材が、空中に浮かんでいる。
「なんだ……これは……」
俺が言葉を失っていると、ソフィアが息を呑んで駆け出した。
目の奥が、幼い頃に何かを見つけた子どものように輝いていた。
「本当にあった!」
「待て!」
急いで追いかけるが、ソフィアは気にした様子もなく建物に入っていく。
後を追い、建物に入ると――世界が反転したような感覚に襲われた。
床は灰白の石で磨かれ、歩むごとに波紋が揺らめく。
壁は窓ひとつなく純白の天井に覆われ、光源も採光もないのに優しい光が注ぐ。
だが、その光の中に、なぜか焦げた匂いが混じっていた。
ソフィアがぽつりと呟いた。
「……ここ、息をしてます」
その声が響いた瞬間、床の波紋が天井へと昇り、光の粒が舞い上がった。
まるで建物そのものが彼女の言葉に応えているようだった。
ソフィアの声すら白く染めてしまいそうな空間に、目眩がした。
そして、胸の奥で警鐘が鳴った。
この光は、美しすぎる――“壊れる前の世界の色”だと直感した。
そんな考えが浮かんだ瞬間、自分の声が響いた。
「ほお? お前ら、変わった“カタチ”をした人間だな」
ソフィアが俺の顔を見る。
だが、俺が発した言葉ではないと理解したのか、辺りを見回した。
次の瞬間、壁の文様が動いた。
白かった壁がゆっくりと黒く染まり、古代語のような光の紋が浮かび上がる。
形を定めぬ文字たちが、まるでこちらを観察しているように蠢いていた。
「誰だ……どこにいる!」
思わず声を上げる。
「ここだよ」
壁と壁が裂けた。
天井は――黒い翼が隠している。
「龍……」
ソフィアの声が震える。
その瞳には、恐怖と畏敬と――どこか懐かしさが宿っていた。
「偉いな、蛇と間違わないとは」
眩い輝きの中、巨影は形を変えていく。
漆黒の鱗は光に消え、闇の翼は夜明けを焦がして拒むように、薄く広がって消えた。
そこに残ったのは――
「陛下と……同じ顔………」
まるで鏡を見ているような気分だった。
その“顔”が、ゆっくりと楽しげに笑う。
「お前が、俺の――欠片たり得る存在だからだ」
俺を指差しながら笑う“顔”の声が途切れた。
その瞬間、心臓が掴まれたように熱くなる。
目を逸らせなかった。恐ろしいのに、どこか懐かしかった。
「いや、いずれ分かるだろ。今は――答えを聞くとしよう」
その言葉に、胸の奥が灼ける。
言葉よりも先に、心が反応していた。
「選べ――。“終わり”を継ぐか、“始まり”を壊すか」
光が、ソフィアを包んでいた。
伸ばした手が届かない。
指先が焼けるほど熱いのに、何も掴めない。
わかっていた。
それでも、彼女の笑顔を守れるのなら――世界の理など、どうでもよかった。
この選択の先に、戻れないものがあると。
「――始まりを……壊す」
それが、“黒の約束”のはじまり。
世界は、その瞬間から嘘を覚えた。
そして、彼女の微笑みも――その嘘の中に沈んだ。
――それが、すべての“約束”の原点。
彼らの選択が、千年後の帝都へとつながっていく。




