番外編:後悔の重み〜宮廷魔術師サラ〜
これは、サラがまだ「宮廷魔術師」と呼ばれていた頃の物語。
彼女が“光”と“秩序”の狭間で初めて迷い、そして――決意した日のこと。
その日、いつも通り帝都の定期巡回をしていた私は、とある女の子と出会った。
多少の貧富の差はあれど、貧民と呼ばれる層はいない程度に裕福な国。
それがラーベル帝国だ。
でも、私が見つけた女の子の服はボロボロで薄汚れていた。
「キミ、そんなボロボロでどうしたの?」
声をかけると、ビクッと肩を震わせて走り出してしまった。
私は反射的に駆け出した。
石畳の路地を抜け、角を曲がるたびに少女の姿が消えそうになる。
小さな足が何かを追い払うように音を立てて、薄暗い裏通りへと消えた。
「待って、私は――!」
伸ばした手は空を切り、代わりに埃っぽい空気が肺に刺さる。
ようやく足を止めたとき、少女は路地の奥の木箱の影に身を潜めていた。
膝を抱え、怯えた目でこちらを見ている。
年の頃は十にも満たないだろう。
髪は灰色がかった金で、汚れた頬の下の瞳だけが妙に澄んでいた。
「……怖がらせてごめんね。私は宮廷魔術師のサラ。悪い人じゃないの」
そう言ってしゃがみ込み、そっと手を差し出す。
少女はその手を見つめ、しばらくの間、動かなかった。
「魔術師……」
小さな唇が震える。
その言葉の響きに、私の胸がざわついた。
「お母さんが言ってた。魔術師は、人を連れていくって」
「……え?」
「教会に行った人は、帰ってこない。みんな消えちゃうの」
風が、静かな路地を通り抜けた。
教会にそんな噂はないはずなのに、背筋が冷たくなった。
「……お母さんは?」
少女は答えなかった。
代わりに、汚れた手で胸元の小さな紐飾りを握りしめる。
それは――教会の祈り子がつける印。
私がどうしたものかと悩んでいると、背後から声がかけられた。
「やっと見つけました。ほら、教会に行きましょう」
振り向くと、教会の法衣を纏った神父が立っていた。
教会にいる子どもが、なぜこんなボロボロの格好なのか。
私が警戒を露わにして神父を睨むと、神父は肩を竦めた。
「そんなに警戒しないでください。私はその子を先ほど見つけて、保護しようとしただけですよ」
神父の声は柔らかく、表情も穏やかだった。
けれど、その眼差しだけが笑っていなかった。
「……保護?」
「ええ。たまに怖がって逃げる子がいるんですよ」
そう言って神父は少女の肩に手を置いた。
その瞬間、少女の体がびくりと強張った。
私は反射的に一歩前に出る。
「その子が怯えています。あなた、本当に神父なんですか?」
「もちろんですとも」
神父は微笑を崩さない。
「この子は“選ばれた子”ですから。皆の祈りを捧げる尊い存在なんですよ」
「選ばれた子……?」
「はい。神に最も近い魂を持つ子どもだけが、祈りの儀式に加わることを許されるのです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。
だが、教会に逆らうのはあまり良い判断ではない。
「後で、会いに行かせてもらっても大丈夫、ですよね?」
「ええ、何時でもお待ちしていますよ」
神父に手を引かれて連れて行かれる背中を見て、死者を見送る気分になった。
街の喧騒の中で、鐘の音が遠くに響く。
それはまるで――少女の足音をかき消すようだった。
私は、ただ立ち尽くしていた。
声をかけることも、追いかけることもできなかった。
あのとき、もう一歩だけ踏み出せていたら――
きっと、何かが変わっていたのだろうか。
けれど、私には“帝国の秩序”という鎖があった。
正義を語るその鎖が、少女の手よりも強く私を縛っていた。
その夜、眠れなかった。
闇に響く鐘の音が、何度も胸の奥を叩いた。
あの子の名も、あの瞳も、風のように焼きついて離れない。
その次の日の朝、巡回中に人だかりを見つけた。
街の水路に、子どもの遺体が浮いている。
引き上げられた遺体は――昨日の少女だった。
あの時、私に踏み出す勇気があれば、この子は死なずに済んだ。
人目を気にする余裕もなく、泣きじゃくるしかできなかった。
――それが、私が抱える「後悔の重み」。
どんな光を手にしても、消えない影。
だから私は――真実に向かって歩くんだ。
この出来事は、サラの中で長く消えない影として残り続けます。
それが、彼女が「真実」を選び取るきっかけとなったのです。
――たとえ、その先に待つものがどんな闇でも。




