第七十二話:交わる時間
ほんの少しの違和感から、世界は変わりはじめる。
サラの“誕生日”の朝。
彼女が感じたひとつの異変は、止まっていた時間を再び動かす――
「い、今の……なに……?」
息が荒い。
身体が震える。
何か大切なものを、すべて失ってしまったような喪失感が胸を締めつける。
サファイアのネックレスを強く握りしめ、
指先に伝わる感触で、かろうじて“ここ”が現実だと確かめた。
――覚えてる。
――うん、覚えてる。
――大丈夫。
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと呼吸を整える。
胸の奥にこびりついた震えが、ようやく少しだけ和らいでいく。
窓から差し込む光が、薄く揺れた。
気づけば、部屋は朝日に包まれている。
白く柔らかな光が、床を撫で、壁を染めていた。
「……朝?」
呟いた声が、妙に遠くに響く。
――そうだ。思い出した。
今日は、私の誕生日だ。
けれど、その朝の光は――昨日までのそれとは違っていた。
柔らかいはずの陽射しが、どこか冷たい。
指先で触れた空気が、わずかに異質だ。
私はゆっくりと立ち上がり、窓際に寄った。
鳥の声が遠くで響いている。
けれど、それも“膜”の向こう側から聞こえてくるような気がした。
部屋の隅に置かれた鏡へと、視線が吸い寄せられる。
(……いつもの、私。)
映る姿は確かに自分だ。
けれど、胸の奥がざわつく。
何かが、違う。
私は鏡から目を逸らし、ドアの前に立った。
(本当に、ここが“私の世界”なの……?
それとも――“別の何か”なの……?)
確かめたい。
でも、確かめたくない。
手を伸ばしかけたその瞬間、
胸元のサファイアがかすかに光を放った。
――私は、立ち止まらないって決めた。
息を呑み、ドアノブを握る。
静寂の中、世界が微かに震えた。
一気にドアを開けた瞬間――音が消えた。
息をすることすら忘れる。
目の前に広がったのは……
「……どうして……」
夜の空が、血に焼けて赤く染まっていた。
土埃と血の匂いが肺を満たす。
繁栄の象徴だった帝城は所々崩れ、
街のあちこちで火の手が上がっている。
そして――私の前に、一人の女性が倒れていた。
銀の髪に、蒼い瞳。
まるで鏡を覗き込んでいるような錯覚。
ただひとつ違うのは、
“彼女”が白いドレスを血に濡らし、
その瞬間を――静かに待っていたこと。
そう……ここで現れるはずだったのは、
黒髪に黒い瞳、
瞳に金の紋を宿さない――
ファルネーゼ・アルヴィト・オドアルド。
その“はず”だった。
「……サラ」
背後で紡がれた名は、私の名。
「……ファル、私……」
「夢に飲まれてはだめだ。サラは――サラだろう?」
違う。
夢じゃない。
記憶だ。
振り返り、ファルの瞳を見つめる。
その黒の奥に、金の紋が淡く滲む。
「私、全部知りたい……」
言葉が零れ落ちる。
「ソフィアのことも、私のことも……
それから――ファルが、ずっと傍にいた理由も」
そう。
私がファルといた時間は――
私が感じているよりも、ずっと。
――長く、深く、そして痛いほどに重なっていたのだ。
「やっと、分かったよ……」
悲しいのに、どうしてか嬉しくて――
涙が頬を伝う。
「ファルは……どれだけの時間を……」
ファルは目を閉じ、静かに微笑んだ。
「約束しただろ……あの日、この場所で」
その声は、風よりも穏やかで、どこか遠かった。
――それは、千年前の約束。
「私は……いつか生まれてくる"君"を護る。例え、何があっても。何十年でも、数千の年でも……"君"を待とう、と」
世界が、晴れていく。
焼けた空がほどけ、光が差し込み、
私の世界が、静かに――広がっていく。
「サラ……俺は――何があっても、サラを護る。」
その声に包まれた瞬間、
胸元のサファイアが、ひときわ強く輝いた。
――曖昧だった私の時間が、漸く動きだした。
交わるのは、夢と記憶。
そして、サラとファル――二人の“時間”そのもの。
千年前に交わされた約束が、
今、ようやくひとつの形を取り戻しはじめます。
次回、ファルの“約束”が描かれます。




