第七十一話:目覚めの朝に…
少し寝不足のまま迎えた朝。
両親は、どこか浮き立っているように見えた。
テーブルに視線を移せば、朝にしてはずいぶんと豪勢な食事が並んでいる。
焼きたてのパンの匂い。
温かなスープの湯気。
そして、見覚えのある果実酒まで置かれていた。
「……今日、何かのお祝いなの?」
思わず問いかけると、ふたりは顔を見合わせ、
驚いたように、そして少し呆れたように笑った。
「今日は――サラの誕生日でしょう!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ震えた。
まるで、忘れていた“何か”が静かに呼び覚まされたように。
「あ、そうだった……ね」
笑って返したけれど、どこか現実味が薄い。
昨日と同じ朝。
同じ部屋。
同じ風の匂い。
でも――ほんの少し、何かが違う。
母がパンを皿に取り分けながら、優しく微笑む。
「十七歳も、あっという間だったわね」
「……うん」
(十七、か……)
その数字が、どうしてか胸の奥で引っかかった。
まるで心と時間が、ほんの少し噛み合っていないような――
そんな違和感が、微かに滲む。
窓の外では、小鳥の声。
朝日が差し込み、テーブルの上で果実酒がきらりと光った。
(あぁ……朝日って、こんなに眩しかったっけ)
一瞬、胸元のサファイアが淡く光った気がした。
けれど、その輝きは誰にも、私にすら気づかれないまま、
光と影の中に溶けていった。
父が笑いながらカップを掲げる。
「今年も元気に。おめでとう、サラ」
母が続けて、静かに願いを口にする。
「……願わくば、笑顔の多い一年でありますように」
私は小さく頷いた。
声を出すと、何かが壊れてしまいそうだったから。
静かな朝。
それは、まるで“世界が息を潜めている”ような――
そんな誕生日の始まりだった。
微かな違和感と、何かが足りないという喪失感が拭えない。
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いつもより少し遅くなった朝の陽が、部屋の壁を淡く染めていた。
食卓を片づけたあと、私はひとり、窓を開け放ち、春の風を吸い込んだ。
(誕生日、か……)
朝食の賑やかさが嘘のように静かな空気の中で、
自分の吐息の音がやけに大きく感じられた。
昨日までと何も変わらないはずなのに、
胸の奥だけが――どこかざわついている。
胸元のサファイアに指先が触れる。
冷たいはずの石が、ほんのり温かい。
まるで私の鼓動に呼応するように、
ゆっくりと微かな光を放っていた。
「……おかしいな」
呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
窓の外では、村の子どもたちが笑いながら走っている。
パン屋の煙突から、白い煙が空へ昇っていく。
何も変わらない。
なのに、私だけが――この世界の“外側”に立っている気がした。
「私……何で帰ってきたんだっけ」
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
何か大切なことを、思い出さなければならない気がした。
でも、指先からこぼれ落ちる砂のように、思考が掴めない。
(帝都に……戻る途中だった……?
それとも、誰かを……)
額を押さえると、脳裏の奥でざらついた音がした。
金属の軋みのような、何かが擦れる音。
同時に、胸元のサファイアがかすかに震える。
「なに……これ……」
世界の輪郭が、かすかに揺らいだ。
空気が震え、色が少しだけ滲む。
その瞬間――脳裏に、血の匂いが蘇る。
恐ろしい記憶が逆流していく。
血に染まった誰かを抱き止めた。
血に染まった頬が、温もりに触れた。
血に染まった手を、誰かが――強く、握ってくれた。
(だれ……?)
目を閉じた瞬間、黒い影が一閃、瞼の裏を横切った。
風が鳴り、サファイアが淡く明滅する。
それはまるで、“呼ばれている”かのように。
――私は、誰……?
――誕生日は、終わりと始まりの境界。
彼女が見た“朝”は、"今"の彼女が辿らなかった世界かもしれない。




