第六十九話:笑顔の帰る場所
リュミエとアズルの蹄の音が、心地よくゆっくりと静まっていく。
フェリシアの村の前で、やがてその音は風に溶けた。
私はリュミエから降りるなり、村の入り口に駆け出した。
「ただいま!」
私は村の入り口に立つと、大声で帰省を告げた。
それは、私を送り出してくれた人たちへの感謝を込めて――元気な姿を見せたかったからだ。
「サラちゃん! おかえり!」
「おお! 元気なサラちゃんが帰ってきたぞ!」
矢継ぎ早に声が上がり、笑顔が広がっていく。
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
見慣れた家々、遠くで鳴く馬の声、干し草の香り。
前回の帰省からまだ日は浅いのに、どこか懐かしい空気が、肺の奥まで染み渡る。
まるで村一番の人気者になった気分――
……と思ったのだが。
「兄ちゃんも来たのか! 久しぶりだなぁ!」
「畑仕事にはまだはえーぞ!」
「春前になったら畑耕すの手伝ってね!」
……ファルが村のお年寄りに大人気だ。
この間、私が少しだけ村に戻ったときにも噂は聞いた。
でも、まさかここまでとは思わなかった。
ちょっと手伝った程度だと思っていたけど――いや、明らかに違う。
ファルは、村の英雄扱いだ。
しかも本人も、まんざらでもない様子で楽しそうに話している。
相手の話を丁寧に聞いては、穏やかに笑って返す。
その笑顔を見るたび、周りの人たちもつられて笑う。
いつもは少し近寄りがたい雰囲気を纏っているくせに――
どうしてこういう時だけ、こんなに馴染んでいるのか。
――まるで、何年もこの村で暮らしてきた人みたい。
「サラちゃん、あんたもいい人連れてきたねぇ」
背後から声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
振り向くと、ミレーネおばあちゃんが目を細めて笑っている。
日焼けした頬、丸い手。
「い、いい人って……まだそんなんじゃ!」
「ふぅん? “まだ”ね。期待しとるわよ。それに、あの子もまんざらではないだろうしね」
「そ、そんなことないってば!」
必死に否定しても、おばあちゃんは全然信じてくれない。
むしろ「はいはい」と言わんばかりに、楽しそうに笑っている。
まったく、この村の人たちは昔からそうだ。
何を言っても、全部“良い方に”受け取られてしまう。
――いや、もしかしたら、それがここの“優しさ”なのかもしれない。
そのとき、少し離れた場所でファルがこちらを見た。
視線が合う。
彼は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
その仕草が妙に自然で、なんだか悔しい。
……なんか、ずるい。
「ほぉら! みんなで話しかけてたら、サラちゃんが焼き餅やいちまうから! 散った散った!」
ミレーネおばあちゃんの一声で、どっと笑い声が上がった。
「サラちゃん、悪かった! 取ったりしないから安心しろ!」
「仲良くするんだよー?」
――焼き餅って、そっち!?
もう、笑うしかない。
顔が少し熱くなっているのが分かった。
けれど、誰も悪意なんてなくて、ただ本当に――楽しそうで。
この空気の中にいると、胸の奥の固い部分がゆっくりと溶けていく気がした。
バラバラと散っていく村人たちを尻目に、ファルがこちらに歩み寄ってきた。
彼の黒いローブが、夕陽を受けて淡く赤く染まる。
その姿は、不思議とこの風景に溶け込んでいた。
「この村は――みんな笑顔でいいな」
穏やかに、けれどどこか懐かしむような声だった。
まるで遠い昔に、似た光景を見たことがあるかのように。
その横顔を見て、私はふと胸が温かくなった。
「……うん。ここは、私の大事な場所だから」
小さく呟いたその言葉に、ファルが目を細めた。
風が吹き抜け、木々の葉がさらりと揺れた。
遠くで子どもたちの笑い声が響き、犬が吠え、誰かが洗濯物を取り込む音がした。
すべてが、あたたかく、懐かしい。
夕陽が少しずつ傾き始め、村の家々を柔らかく照らす。
その光の中で、ファルが小さく笑う。
「――いい場所だ」
それだけの言葉なのに、なぜだろう。
心の奥の、痛むような場所にそっと触れられた気がした。
「ねぇ、ファル」
「ん?」
「……また、帰って来られるかな」
「もちろん、ここはサラの"家"なんだから」
その答えが嬉しくて、けれどなぜか、少しだけ切なかった。
夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。
その風は甘く、少し土の匂いがして――帝都にはない、優しい匂いがした。
私は深く息を吸い込み、笑顔を浮かべる。
ファルが笑顔を返してくれる。
その笑みと風の音が重なって――胸の奥に、静かに響いていく。
そして――
空が橙から藍へと変わる頃、私たちは並んで村の奥へと歩き出した。
その背中を、柔らかな陽の名残が包んでいた。
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そして、私は家の前に立ち、目を閉じて深呼吸をする。
今は、しっかりと立てる――
今は、あの時とは違う。
もう、この手から溢さない。
もう、立ち止まらない。
夕暮れに暖められた風が、私の背中を軽く押してくれた。
「ただいま!」
玄関を開け放ち、“今”の私ができる、最高の笑顔を両親に見せた。
一瞬、驚いたように目を見開くふたり。
けれど、すぐに――笑顔に変わる。
それは、娘の帰省を喜ぶ顔。
それは、娘の成長を誇らしく思う顔。
それは、娘の元気な姿に――ほっとして、涙ぐむ顔。
あたたかな風が、玄関をすり抜けていった。
私の胸の奥にも、同じ風がそっと吹き抜ける。
「おかえり」という両親の言葉が重なった。
お母さんは一粒の涙と笑顔。
お父さんは堪えて目頭を押さえる。
――それだけで、私はもっと、前に進める。
思い出も、友さえも置き去りにしても、私を認めてくれる人がここにいるから。
夕暮れは、前に見たときと――まったく同じ色をしている。
まるで、あの時から一日も経っていないみたいに。




