第六十七話:鏡の中の帝都
「おいおい……これはいくらなんでも、予想してないぞ」
思わず口に出た。
朝日が昇ったはずの帝都の空は、光を拒むように静まり返っていた。
街全体が、薄い膜のような光の層に包まれている。
建物も人も、空気そのものさえ――まるで鏡の中に閉じ込められたかのようだった。
教会本部からの指示で、俺とカリグナスはラーベル帝国の帝都に駐在し、サラ・フェルディナンドの大規模広域捜索任務の指揮を執っていた。
その任務開始の朝。
まさに出発の号令をかけようとした、その瞬間――この異常が起きた。
騎士たちは動けず、魔術師たちは口を開けたまま立ち尽くしている。
空気は凍てついたように澄み、音がまるで届かない。
なのに、どこかで風鈴のような音が鳴っていた。
それが“幻聴”だと気づくまでに、数秒かかった。
「……まるで世界そのものが息を止めたみたいだな」
カリグナスが低く呟く。
その声さえ、壁に反響して別の方向から返ってくる。
俺は額を押さえ、小さく息を吐いた。
――これじゃあ、俺まで見失っちまうじゃねぇか。
「まったく……手加減って言葉、知らねぇのか、あの野郎は」
静寂の中、思わず笑みが漏れた。
呆れと、わずかな興奮が混じった笑いだ。
「何を楽しそうに笑っているんですか」
カリグナスの呆れた声が聞こえる。
だが――振り返った先には、誰もいない。
「……おい?」
壁の向こうに、また壁。
そしてその奥にも、また壁。
光が屈折し、空間がねじれていた。
「だぁ! まどろっこしいな!」
拳を叩きつける――
だが、手応えは空気を打っただけだった。
腕ごと吸い込まれそうな感覚に、思わず体勢を崩す。
視界が波打ち、天と地の境が曖昧になる。
「……っ、ちょっと待て、これは……」
世界が、静かに、しかし確実に“ずれて”いる。
「インヴィクトゥス……私たちが今、目にしているのは本当に“魔術”ですか?」
背後からの声。
反射的に振り向いた俺の目に――異様な光景が映る。
カリグナスが、天井に立っていた。
いや、上にある床に。
その姿がゆらりと逆さに揺れ、まるで世界の方が裏返ったように見えた。
なんとも形容しがたい光景だった。
柱に人が立ち、壁に木が生え、足元には水面がある。
そのすべてが、光の粒子となって吸い込まれていく。
街が、無限に反射する鏡の群れへと変わっていく。
何万、何億という数の“帝都”が、互いを映し合い、
その中心で――俺たちだけが、ひとつの現実に取り残されていた。
「くっそ……どうなってやが――いってぇっ!」
無い壁に顔面をぶつけて蹲る。
「下手に歩き回らない方が良いくらい、分かるでしょう」
カリグナスの声がした。
冷静すぎるその口調が、逆に腹立たしい。
だが声の方向には――やっぱり姿がない。
「……あいつらが帝都から離れるまでは、どうしようもねぇってか」
「そういうことです」
呆れを隠そうともしない声。
俺は仕方なく、空にもたれかかって床を見上げた。
そこには、窓に立ったカリグナスが、まったく同じ仕草で俺を見下ろしている。
(頭、イカれそうだぞ……)
帝都が“鏡の世界”に沈んだその朝、誰もが息を呑んだ。
ファルが創ったのは幻か、それとも現実か――




