第六十六話:幻想の檻
教会が本格的に動きだした。
ラーベル帝国がその動きに同調している――それが、何よりの証拠だろう。
なのに、ファルは――まるでインヴィクトゥスの“遊び心”に乗るかのように、
あっけらかんと私に尋ねてきた。
「派手に行くか、地味に行くか……サラはどっちがいい?」
「……は?」
理解が追いつかない。
窓の外、石畳の通りには鎧の列が連なっている。
ざっと見ても五十名以上――帝都全体で見れば、中隊規模では済まないだろう。
「待って……悩む必要、ある?」
思わず声が裏返った。
こんな状況で“選択肢”があると思っているのだろうか。
「普通に、できるだけ見つからないように出ようよ。変装もできるし、ファルなら気配を消して抜けられるでしょ?」
そう言うと、ファルは少しだけ肩を竦めた。
「……そうだな。けど、インヴィクトゥスのことだ。俺たちの変装情報くらい、もう流していてもおかしくない」
「あぁ……」
なぜか、納得してしまう自分がいた。
「となると、“静かすぎる方”が案外、目につく。どうせ出るなら、どこに向かうか分からないように――派手に、かく乱した方がいい」
その声音は冗談めいているのに、どこか本気だった。
私の眉がぴくりと動く。
「……ねぇ、“派手に行く”って言葉を……
“帝都で何か爆発させる”とか、そういう意味で使ってないよね?」
ファルは静かに笑った。
穏やかで、けれどどこか悪戯っぽい笑みだ。
「なるほど……それで行こうか」
「……ちょっと! 確認で言っただけで、提案したわけじゃ――!」
「被害は出さない。安心しろ」
そう言って、ファルは窓へ歩み寄った。
外の光がその黒いローブを縁取る。
指先が軽く上がると、空気が一瞬、静まり返った。
風が止み、街のざわめきが遠のいていく。
その沈黙の中、ファルがぽつりと呟いた。
「さて――少しばかり、目を引くか」
そして、窓を開け放った。
冷たい風が部屋に流れ込み、
遠くで鐘の音が、帝都の朝を告げた瞬間――。
ファルの指先が、空気をなぞる。
淡い光がひと筋――
その軌跡はまるで、水面を撫でる月の光のように揺らめいた。
「……ファル?」
声をかけた時、空気が息をした。
光がほどけ、音が溶け、影がゆっくりと反転していく。
世界が――ゆらり、と揺れた。
通りの景色が歪み、鎧とローブの列が光の中に溶けていく。
建物の輪郭が滲み、街全体が薄氷の鏡に閉じ込められたようだった。
光が屈折し、風が静止し、時間だけがゆっくりと流れていく。
何百、何千という鏡像の中で、帝都が無限に反射を繰り返していた。
「綺麗……これ、何をしたの?」
「不思議だろう?」
一瞬、ファルが泣いているように見えた。
「――“現象そのもの”を弄る光景は……」
囁かれたその言葉は、私の耳に届く前に世界に溶けてしまった。
騒がしいと感じてしまう程の静寂につられ、窓の外を覗くと――
騎士も魔術師も、市民も、誰一人として動かない。
皆、夢の中の光景を見つめるように、
現実と幻の境を見失っていた。
ファルは軽く息を吐いた。
「派手に見えるけど、実際は静かだろ?」
「……こういう意味の“派手”だったんだ」
苦笑を零す私に、ファルは楽しげに微笑んだ。
「さぁ、行こう。帝都の目は、しばらく幻想の中だ」
そして彼は、私の手を取って部屋を出た。
光が、彼の黒衣を縁取る。
美しく歪んだ朝の街の中、私たちは騎士や魔術師の前を、まるで空気のようにすり抜けて歩いた。
方角を見失った者たちは、無限に映り合う鏡の世界の中で、幻の“私たち”を追い続けている。
――まるで、この街そのものが、
約束の記憶を映す巨大な夢になったかのように。




