第六十四話:温もりのあとに
朝の光が、瞼の裏を静かに照らしはじめる。
そのぬくもりで、ぼんやりと意識が覚醒していく。
――でも、目を開けるのが怖い。
開けてしまえば、そこにあるはずの温もりがないと分かっているから。
分かっているのに、確かめずにはいられない。
目を閉じたまま、そっと手を伸ばす。
……ない。
……分かってた。
……分かりたくなかった。
伸ばした手を胸元に押し当てる。
なくなってしまった証を探すように。
毎朝、毎朝、私の涙は止まらない。
毎晩、毎晩、これが夢であってほしいと願う。
私の震える声が、耳に届く。
「どこにも行かないって、言ったのに……嘘つき……」
それでも、私は探す。
私が、見つける。
何度だって、見つけてみせる。
――だから、待っていてね。
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そして、私は自分の涙が伝う感覚で目が覚めた。
漠然とした不安が胸を締め付ける。
ゆっくりと身体を起こすと、そこは昨日ファルと泊まった宿の部屋だった。
木の香りと淡い灯りが、まだ夜明けの余韻を残している。
視線を巡らせると、ファルはすでに起きていて、
窓際の椅子に腰かけ、背中をこちらに向けたまま本を読んでいた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で小さな音を立てて、不安がほどけていく。
(……よかった。ちゃんと、いる)
「ファル……おはよう」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、サラ」
何気ない朝の挨拶――
それが、どうしようもなく儚くて、愛おしいものに思えた。
気づけば、私は椅子に座る彼の肩に額を寄せていた。
温かいぬくもり。確かにここにある。
その確かさが、胸の奥の不安を静かに溶かしていく。
「……まだ、眠いかも」
小さな声でそう呟いた。
少しだけ甘えたい――そんな気分だった。
ファルは驚いたように息を呑んだが、
すぐにそっと、彼の指が私の髪を撫でた。
その仕草に、心がほどけていくのを感じた。
「随分と甘えん坊だな。その態勢じゃ寝られないだろう?」
私が返事をせずにグリグリと額を押し付けると、
クスッと笑った声が、すぐ耳のそばで聞こえた。
窓辺のカーテン越しに淡い陽光が差し込んでいる。
橙と金が混ざったその光は、朝の静けさをやわらかく溶かしていく。
私はゆっくりとファルの肩から額を離す。
「おはよう、ファル」
「二回目のおはようだな」
またクスッと笑う声は、どこか楽しそうだった。
宿の小さな部屋には、木の香りと温かな空気が満ちていた。
昨夜の灯りの代わりに、今は朝の光が二人を包んでいる。
「今日は、どこに行こうか」
「サラの行きたい場所になら、どこへでも」
その言葉が、胸の奥で静かに響く。
まるで、背中を押されたような感覚だった。
「なら――セリュネアに、行きたい」
ファルの瞳がわずかに揺れる。
その一瞬の沈黙が、全てを物語っていた。
それは、禁足地。
教会が立ち入りを制限し、今も風化しきらない都市の残骸が残る場所。
“厄災”という名の悲劇で幕を閉じた、大帝国があった場所。
そして――ファルの故郷。
彼の始まりであり、終わりの地。
私は、知らなければならない。
“蒼の杯”のこと。
ソフィアのこと。
――そして、それが意味するものを。
しばしの沈黙のあと、ファルは静かに息をついた。
「……分かった。行こう」
それは、私の想いを受け取った言葉。
けれど、その瞳の奥には、かすかな痛みが宿っていた。
それでも彼は、逃げなかった。
朝の光が二人を包む。
やがてその温もりは、長い旅路の始まりを告げる光へと変わっていった。




