第五十八話:帝都に残るもの
かつて何度も通った通り。
制服を翻して歩いた石畳。
けれど今は、その足音ひとつひとつが、昔の自分を遠ざけていくようだった。
「少し、寄りたいところがあるの」
そう言うと、ファルは無言で頷いた。
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最初に向かったのは、帝都の南門近くにある喫茶店だった。
かつて任務帰りに、よくリシェリと立ち寄った場所だ。
磨かれたガラス越しに、中の様子が見える。
カウンターに立つ店主が以前と変わらず、何人かは見知った顔ぶれの客が笑っていた。
扉の上の鈴が鳴るたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
音も香りも、何も変わっていないのに――
そこにいた私だけが、もういない。
「入らないのか?」
ファルが静かに尋ねる。
私は小さく首を振った。
「……ここには、もう居場所がない気がする」
「そうか」
それ以上、彼は何も言わなかった。
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次に立ち寄ったのは、街の裏通りにある小さな雑貨屋。
香料やインク、紙を扱う店で、魔術師団時代によく通っていた。
扉を開けると、香辛料のような独特の香りが鼻をくすぐる。
棚には整然と並ぶ瓶や筆記具。
手に取った瞬間、指先に昔の記憶が蘇った。
(このインクの匂い……あの報告書を書いた時も、同じだった)
「懐かしいか?」
ファルが聞く。
私は瓶をそっと棚に戻しながら、微笑んだ。
「懐かしい。でも、もう“好き”とは少し違うかな」
「違う、か」
「うん。思い出は綺麗なままでいいのに、今見ると、少し寂しくなる」
ファルは何も言わなかった。
けれど、その沈黙が妙に優しくて、言葉よりも安心した。
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店を出てから、帝都の中心へ向かう。
魔術師団本部の尖塔が、遠くに見えた。
その前に立つ人影に、思わず足が止まる。
淡い金髪に、背の高い姿。
リシェリだった。
訓練のとき、いつも一歩先を歩いていた彼女。
丁度、定期巡回の時間だった事を思い出す。
凛と歩きだしたその姿は、何も変わっていない。
声をかけようと、唇が動いた。
けれど、音は出なかった。
私の足が、一歩、また一歩とリシェリに向かって進む。
行ってはいけないと分かっている。
――でも…。
フワッと温かい風が私の髪を撫で、茶色だった髪が銀色を取り戻す。
驚いてファルを見た。
「行っておいで」
優しく送り出してくれる彼の笑みと言葉に背中を押され、私は駆け出した。
「リシェリ!」
私の声で、リシェリの視線が彷徨い、遂に私と目があった。
怒られるかな。
心配してくれていたかな。
私はまだ、あなたの友達で…いられるのかな。
「……嘘…サラ、なの?」
リシェリの目は驚きの色を隠さず、私をジッと見つめた。
「うん。…リシェリ、元気だった?」
リシェリの顔が、少しずつ近づく。
私は息を整えようとするけれど、胸の奥がきゅっと痛む。
「本当に、サラなの?」
震える声。
それを聞いただけで、何かがほどけるように涙がこみ上げた。
「うん、私だよ。……心配かけて、ごめん」
リシェリは小さく息を呑んで――私を抱きしめた。
懐かしい香り。制服の頃、同じ隊室で笑い合っていた時のまま。
でも、その腕の温度の中に、わずかな戸惑いが混じっていた。
「サラ、あなたはもうここには……」
リシェリの言葉が途中で途切れる。
その続きを言わせたくなくて、私は首を横に振った。
「うん、分かってる。今はただ、会えてよかった」
互いに少し離れる。
リシェリはまっすぐ私を見て、目を細めた。
「サラ……あなた、変わったね」
「うん。きっとそうだと思う」
リシェリが目を閉じ深く息を吐いた。
「サラ…私は何も見てない。誰とも会ってない。だから…逃げて」
それは…リシェリが私に伝えられる、唯一の言葉だったのだろう――。
リシェリが私に背を向けて歩き出した。
「リシェリ…ありがとう」
たぶん、聞こえていない。
でも、伝わったと思う。
――さようなら
胸に手を当て涙を堪えている私の肩を、ファルの優しく温かい手が包む。
その温もりに甘えて、一筋だけ涙を流した。
――帝都の鐘が遠くで鳴った。
その音が、私の中の何かを、静かに閉じていった。
次回はサラが帝都脱走前まで遡ります。




