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黒の約束〜滅びの約束を越えて〜  作者: はる
杯と蛇

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第五十六話:聖火の残響

私は何をするでもなく、静寂の庵でゆっくりと過ごしていた。


ここに戻ってから、どれくらいの時間が経っただろう。

日付の感覚が薄れていく。庵には窓がない。

外の光も、風の音も届かない。

あるのは、どこまでも一定の明るさを保つ青白い光と、私の呼吸の音だけ。


嵐のような日々を抜け、ようやく訪れた静けさのはずなのに――胸の奥のどこかが、ざわめいている。

水面の下で、何かが蠢くような、不快な気配。


まだファルが来ていない。

緑が生い茂る室内、湿った土の香りと、葉の上を落ちる雫の音。

静けさに包まれているのに、どこか息苦しい。

私は自分で入れた紅茶を手に取り、口をつけた。

温度も、香りも、確かにあるのに、味だけが遠い。


――その時、ざわめきを感じた。


耳ではない。心の奥底、もっと深いところ。

それは音というより、波のように押し寄せる「気配」だった。

最初は気のせいだと思った。

でも、瞼を閉じるたび、その“声”が近づいてくる気がした。


祈りのようでいて、呪いのような響き。

懐かしくも、恐ろしい――そんな矛盾を孕んだ旋律。


ふと、誰もが知る祈りの言葉が頭をよぎる。

救いを求める、あの歌。

私は、なんとなく口ずさんでいた。


「光よ、燃えよ、罪を照らし

 闇を裂きて、魂を還せ

 その火は慈しみ、すべてを包む

 清き焔よ、我らを導け」


最後の節を歌い終えるころには、指先がかすかに震えていた。

それでも、静寂が戻ると、少しだけ心が落ち着いた気がした。


「――綺麗な歌声だな」


背後から声がして、肩がびくりと跳ねる。

ファルだ。いつの間に……。

紅茶のカップを持つ手が危うく揺れる。


「……あ、ありがと」


恥ずかしさで頬が熱くなる。

振り向くと、ファルは私をまっすぐ見つめていた。

その瞳の奥で、一瞬、淡い金の紋が揺れる。


「“聖火の歌”……か。まだ、あの歌がこの時代に残っているとはな」


その声には、わずかな警戒と、深い哀しみが滲んでいた。


「聖火の……歌? “聖歌”じゃないの?」


「いや。“聖なる火”の歌だ」


ファルはゆっくりと、私の入れた紅茶を注ぎなおしながら言った。

湯気がゆらめき、空気の輪郭をぼやかしていく。


「意味は……少し違う」


その言葉の続きを問おうとしたとき、ファルが低く息を吸った。

そして――古代語で歌い出す。


静寂を割るような、低く澄んだ声。

音は柔らかいのに、空気が震える。

意味は分からない。

なのに、心の奥が冷たくなる。

まるで、魂そのものに何かが触れてくるような感覚だった。


旋律は私が歌ったものと同じ。

でも、響きの端に「血」の匂いがある。

鉄と灰の混じるような、遠い記憶の味。

何かが呼び起こされる。

そして、息が詰まる。


ファルの歌が終わると、庵の中が急に“重く”なった。

空気が沈み、音がすべて吸い込まれたように消える。

まるで、世界そのものが耳を塞いだようだった。


ファルは目を閉じ、しばらく動かない。

その静止が怖くて、私は声を絞り出す。


「意味は……」


「なんとなく分かった……でも、怖かった」


ファルがゆっくりと目を開く。

その瞳の金の紋が、淡く揺らめいた。

そして、静かに笑う。


「それでいい。――あの歌は、“意味を知らない者”の方が救われる」


その言葉が、庵の中に長く残響した。

まるで、壁そのものが“理解してはいけない”と告げているかのように。


沈黙が落ちる。

庵の空気はぴたりと止まったまま。

外の世界とは完全に断たれている。

音も、風も、動きもない。

それでも――確かに聞こえた。


どこか、壁の奥。

深く、底のない闇の向こうから、誰かが同じ旋律を“歌っている”。


それは耳で聞こえる音ではなかった。

胸の奥を撫でるような震え。

まるで、聖火そのものが生きていて、こちらを見ているようだった。


私は恐る恐る目を開けた。

ファルがこちらを見ている。

けれど、その表情はいつもよりもずっと静かで、どこか遠い。


「ファル……」


「大丈夫だ」


彼はそう言いながら、私の前に新しい紅茶を置いた。

香りは同じはずなのに、味は少し違った。

わずかに苦い。

それでも、温かかった。


「ねぇ……」


私は少し迷ってから言葉を継ぐ。


「一度、ラーベルの帝都の様子を見に行きたいんだけど……ダメかな」


ファルは目を閉じて考えるように息を吸い、そして穏やかに微笑んだ。


「じゃあ、行ってみようか」


その一言に、胸の緊張が少しだけ解ける。

けれど、どこかで知っていた。

この静寂の庵を出るということは、再び“あの世界”に踏み入れるということ。


瞳の奥に私を心配する色が見えた。

――それでも、彼は私を否定しない。

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