第五話:教会の影
帝都に戻ったサラを待っていたのは、
沈黙ではなく――“影”だった。
教会、古代魔術、そして失われた記憶。
現実の扉が、静かに軋み始める。
帝都の門をくぐると、石畳が冷たく鳴った。
詰所の灯は薄く、鉄の匂いが夜に滲む。
最悪の巡り合わせというものは、たいてい――
迷いが一番濃いときにやって来る。
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「ずいぶん遅い戻りだな。収穫は?」
振り返るより先に、ルシアン隊長の声が胸骨を叩いた。
私は言葉を短く切る。
「……芳しくありません。報告書で確認してください」
逃げ水のような声音を、隊長の視線が踏みとどめる。
「サラ。このまま来い。口頭で報告してもらう」
(……完全に、やってしまった)
扉が開く。部屋の空気が一段冷える。
いつもは奔放な男の声色が、今日は刃のように硬かった。
「報告を」
私は一度だけ呼吸を整え、事実だけを――
冷たい皿に盛るように並べた。
・森の一部の景観が神秘的に変質していたこと。
・魔力の残滓は観測できないが、明確な干渉が推測されること。
(どうして、彼を隠している? 自分でも答えられない)
「それで、すべてか?」
「……はい」
終わりだと思った瞬間、隊長の目が鋼の色に変わる。
「監視の報告によれば――『森で誰かと会話していた』とな」
「……監視?」
「二度目の調査をお前が志願したときからだ。最初の報告も、筆が重かった」
(どこまで、見られていた……顔も、会話も?)
鼓動が袖口を震わせる。
「た、隊長……私は――」
「古代魔術」
息が、喉の奥で落ちた。
瞳の揺れだけで、虚偽は証明される。
指が鳴る。
扉の外の気配が雪崩れ込み、拘束の鎖が冷たく肌を走った。
「“ちゃんと報告しろ”と言ったろう、馬鹿者」
叱責は低く重く――だが、どこか焦燥の影があった。
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懲罰房は、音を飲み込む。
石は冷え、灯は短い。
私は天井の暗がりに、静かに呼吸を並べた。
(どうして私は、ファルを庇ったのだろう)
命令。捕縛。失敗すれば上位魔術師が動く――それでいいはずだった。
それなのに、胸のどこかが温かった。
結界を砕かれた恐怖より、
世界の理を垣間見た歓喜が、まだ指先に残っている。
(恋でも、憧れでもない。ただ――会わなければ、という衝動)
瞼を閉じる。闇が、ゆっくり深くなる。
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「もう! また喧嘩ですか!」
黒髪の男がふたり。
顔立ちは驚くほど似ているのに、声は正反対だ。
一人の瞳には、金の縁飾りのような紋が揺れている。
「お前が選べ。どっちがいい?」
「私には決められません、と何度申し上げれば」
「だが、決めねばならない」
譲らぬ二人の背に回り、私はそっと押す。
「まずは昼食を。話は、それからに」
風が帝城のバルコニーを渡り、私の銀の髪を撫でた。
呼ばれる。
――「ソフィア」
振り向けば、私の大切な二人が並んで立っている。
私は知っている。彼らが切り離せぬ絆で結ばれていること。
同じひとつを巡って争いながら、兄弟以上に深く繋がっていることも。
やはり、私は選べない。
雫の音がひとつ、世界の輪郭を淡く溶かした。
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目を開く。懲罰房の天井。
夢の輪郭だけが、指の間をこぼれる霧のように残った。
足音。錠前が鳴り、扉が開く。
ルシアン隊長の背後に立つ、二つの影を見た瞬間――呼吸が止まる。
一人は、ヴァルター・エーレンベルク公爵。帝国の重鎮、魔術師団長。
もう一人は、純白のローブ。〈太陽を抱く龍〉――
〈エクレシア・ルミニス・バクリ〉の象徴を胸に戴いていた。
「こちら、アウレリウス・ノクス司教だ。今回の聴取に立ち会う」
教会が、出た。
つまり、私が踏み込んだのは“禁じられた領域”だということ。
「来い」
促され、立ち上がる。
通り過ぎざま、隊長が低く囁いた。
「……淡い期待はするな」
その声音が、いつもの彼のものではないと気づいた瞬間、
自分の立つ場所が一段暗くなる。
両脇を魔術師に固められ、歩き出す。
石の廊下が、ひとつずつ未来に音を置いていく。
最悪の状況――それでも私は、不思議と後悔していなかった。
虚偽の報告も、沈黙も。
胸の奥で、小さく確かな鼓動が告げている。
――世界は、私の外にも、内にもある。
だから、まだ進める。
たとえ「教会の影」が、どこまでも長く伸びていても。
帝都の静寂の奥で、動き始める“教会”。
サラの沈黙は、やがて帝国と信仰の均衡を揺るがしていく。




