第五十二話:黒の逡巡
今回は少し説明の回。
ファルの謎が少しだけ語られます。
庵の庭に、湯気と草の匂いが薄く残っていた。
白いテーブルには、注ぎきったポットと、温もりの消えかけたカップ。
「……さて」
ファルが背もたれから身を起こし、私たちを順に見た。目の金の紋が、静かに揺れる。
「まずは俺から素朴な質問があるんだが、いいだろうか」
敬語ではないけれど、いつもの優しさと、少しの剽軽さが滲む声。
「あぁ……俺たちのことだろ? 成り行きだ」
インヴィクトゥスが豪快に笑い、カリグナスはため息をつく。
「てっきり教皇からの命令だと思ったのだが、違うのか?」
「命令じゃねぇよ」
インヴィクトゥスが肩をすくめる。
「俺たちは教会から指示が出る前にこっち――カリサリア大陸に渡ったからな。……まぁサボりだ」
気にするな、と言わんばかりに笑う。
「私はインヴィクトゥスの監視ですよ」
「お前なぁ、少しはぼかせよ!」
カリグナスは淡々と付け足す。
「勝手をするなら現場で止めろ、という『指示』も受けていますから」
「おい、言い直すな。しかも余計にハッキリ言うな!」
インヴィクトゥスが頭をかきむしる。
「でも、私は……助かったよ? ……ありがと」
二人は目を見合わせ、さっと視線を外した。
「そのぉ……なんだ、敵に礼なんて言うもんじゃねぇぞ」
耳まで真っ赤にするインヴィクトゥスの横で、カリグナスが口元を押さえる。
(あ……照れてる)
「インヴィクトゥスは相変わらずなんだな」
ファルが軽く笑い、インヴィクトゥスを見る。
「二人は、知り合い……なの?」
前回遭遇したときも親しげに話し、インヴィクトゥスは試すだけ試して帰ってしまった。
「まぁ、一対一なら茶を飲むくらいの仲だよな!」
笑うインヴィクトゥスを、カリグナスが鋭く睨む。
「あなた、帰ったら懲罰房ですからね」
「なんでだよ!?」
大げさに両手を広げて抗議するインヴィクトゥスに、私とファルは思わず笑みをこぼした。
不思議なことに――この場だけは、敵も味方も関係なく、同じ湯気と香りに包まれている気がした。
そう思っていると、ファルの真剣な気配が場を引き締めた。
「では……皆、俺に聞きたいことがあるだろう?」
もちろん、ある。
けれど私の質問は、この二人の前でしてはいけないこと――考えるまでもなく分かっている。
私が黙ると、インヴィクトゥスが気を遣った。
「嬢ちゃんから質問しないのか?」
「私は、聞く時間ならいくらでもあるから」
「なんだよ、惚気か」
インヴィクトゥスは笑いかけた顔をしかめた。カリグナスが足を踏んだらしい。
「いってぇなぁ、ったく……じゃあ率直に聞くぞ? 外のあのありさまはなんだ?」
私の肩がびくりと震えた。
ファルが隣にいるのに、まだ――ファルを抱き止めた感触が、血の臭いが、消えない。
――
ファルが私の手をそっと握る。
その温もりが、ここにいる彼を確かにしてくれる。
「あれは……教会が『厄災の成れの果て』と呼ぶ、黒龍カイゼル・アルヴィトの魂の顕現だ」
インヴィクトゥスとカリグナスの視線が鋭くなる。ファルは続けた。
「俺は龍じゃない。だが、その魂の欠片を宿している以上、近しい存在ではある。――そして、サラ……いや、ソフィアの魂と共にある欠片は、俺のそれとは別の断片と言っていい」
喉の奥がひりつく。ソフィアという名が、もう鎖ではないと知っているのに、胸の奥で小さく鳴る。
「あれは――ソフィアの魂がサラの魂に重なった結果だ。一時的とはいえ、その影響で、俺に宿っていた欠片がサラへ引き寄せられた」
だからファルは魔術を使わなかった。――いや、使えなかったのだ。
「結果、サラの中に一時的とはいえ、いくつもの魂が同居した。器が足りなくなって、溢れた黒龍の魂が実体を取り、意思を持って顕現した」
「でも、ファルはカイゼルが顕現するのを知ってたみたいだったよね?」
そう、確かに『待たせすぎ』と言っていた。
「いや、普段なら俺に流れ込んで終わりになるはずだった。今回は――俺が無意識に拒んでしまったんだ」
「じゃあ、嬢ちゃんに張られてる結界も、黒龍がやったのか?」
「いや、それは俺だ。ギリギリのところで強引にカイゼルが魂を流し込んできた。だから、身体が再生するまでの繋ぎとして、サラに結界を張っただけだ」
「おいおい……繋ぎってなぁ……こんな反射結界張られたら、教会の魔術師でもどうにもならんぞ」
インヴィクトゥスは、呆れを通り越して感心した顔になっている。
「それより、『身体が再生するまで』とは、どういう意味ですか?」
カリグナスが目を細め、ファルを睨みつけた。
「俺は……どこで止まれるのか、まだ知らない」
湯気はもう消えて、庭の水音だけが残った。
その言葉は、重く胸に響いた。




