第五十話:鎖を解く言葉
扉を押し開けた瞬間、外の靄も鳥の声どころか、世界そのものを一枚の薄布の向こうへ置いてきたように遠のいた。
床は白灰の石で滑らかに均され、踏み出すたび、淡い光の波紋が足元から広がっては消える。
壁には窓ひとつないのに、柔らかな明るさが満ちていた。
「……ここが、嬢ちゃんの言う“庵”か」
背後でインヴィクトゥスが低くつぶやく。
カリグナスは言葉を飲み込み、指先で空気の“密度”を確かめるように宙を撫でていた。
私はなぜか、自分が向かうべき場所を“知って”いた。
広間を進むと、右手には――ファルと紅茶を飲んだあの部屋。
左奥には――食堂。
そのさらに奥には……。
一歩ごとに胸の鼓動が速くなる。
一歩ごとに足の運びが早まっていく。
早く。
早く――
早く、あそこへ。
「おい嬢ちゃん! 一人で先行くな!」
気づけば、もう走り出していた。
インヴィクトゥスの静止は耳に届かない。
通路は長くない。
なのに、途方もなく長い時間を走っているような気がした。
立ち止まり、呼吸を整えて前を向く。
そこには白灰の壁と同じ色で覆われ、素通りしてしまいそうな扉が一枚。
心臓が痛い。
握った手の爪が掌に食い込む。
私は深く息を吸った。
(……行こう)
白灰色の扉に手をかける。
抵抗なく扉が開く。
前を向くのが怖い――でも、大丈夫。
だって、あなたはそこにいるから――
「――サラさん、おかえりなさい。それから、遅くなってしまい、すみませんでした」
申し訳なさそうに微笑んで立っていたのは、
黒のローブを纏い、黒髪に、黒い瞳と金の模様が刺す――不思議な魔術師だった。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ずっと押し込めてきたものが、言葉になるより先に涙になって溢れ出す。
走ってきた息苦しさと、溜め込んできた想いの重さが、同じ勢いで込み上げる。
「……っ、ばか……!」
声が震えた。
涙で視界が揺れる。
それでも、止められない。
「どうして、一緒にいてくれなかったの……っ!」
気が付いたら、もうファルに抱き着いていた。
「ずっと、ずっと! 怖くて、寂しくて……でも、ここに来るまで頑張ったんだよ……!」
息を乱しながら、言葉が途切れ途切れに溢れていく。
「放って行かないでよ!」
――まるで子どものように。
「……私を、見てよ……私は、ファルを……見てるよ?」
嗚咽が混じったその声は、庵の静寂の中に吸い込まれながらも、確かに響いた。
ファルは目を見開いたまま、動けずに立ち尽くしている。
その黒い瞳に、金の紋が淡く揺れた。
「私、を?」
ファルが驚きに目を揺らす。
その姿を見たのは――初めてだった。
「そうだよ……私は、今の“ファル”を見てるんだよ」
その言葉に、ファルは静かに目を閉じる。
次の瞬間、優しく私を抱き返していた。
「そう……ですか。――ありがとう」
かすかな声とともに、彼の瞳から一筋の涙が零れる。
それは彼が決して見せたことのない弱さであり、強さでもあった。
「私も……サラさんを、見ています」
「……違う」
私は大粒の涙をぼろぼろ零しながら、拗ねたように顔を上げた。
「ソフィアのことは……呼び捨てだったのに……私のことは“サラさん”なんだね……」
嗚咽まじりの声が庵の静寂に溶け、震えながらも確かに届く。
ファルは一瞬きょとんとした後、微かに笑ったように見えた。
「……サラ」
たった一言。
けれどその呼び方が、胸の奥を強く打った。
その瞬間――長い間自分の心を縛っていた“ソフィア”という鎖が、静かに解けていくのを感じた。
胸が熱い。涙が頬を伝って止まらない。
なのに、笑顔がこぼれる。
胸がうるさくて、息が苦しいほどなのに――。
言葉にしたら、すべてが壊れてしまうかもしれないのに――。
それでも、伝えなきゃ。今の私で。
「……ねぇ、ファル……私ね……ファルが好き」
嗚咽混じりの声は震えていたけれど、もう迷いはなかった。
それは過去の誰かの気持ちではなく、今の私自身の言葉だ。
ファルは一瞬、言葉を探すように息を呑んだ。
けれど、迷いを振り切るように――。
「私も……いや…違うな。――"俺"も…サラが好きだ」
その言葉は掠れていたけれど、迷いは一欠片もなかった。
ファル自身の初めての言葉。
その声は、庵の柔らかな光の中で震え、静かに響いた。
“皇帝”でも“龍”でもない。一人の“ファル”の声だった。
胸元のサファイアが温かく光を放ち、庵の白灰の壁に淡い波紋を映した。
その光の中で、サラは涙をぬぐい、笑顔で頷いた。
「……うん……うん!」
ふたりの言葉に呼応するように、庵の光は一層柔らかく揺らめき、静寂は祝福のように私達を包み込んだ。




