第四十話:揺るがぬ証
「お茶でも飲もうか」
お母さんがそう言って、台所から小さな湯気の立つポットを持ってきた。
差し出された湯呑みに注がれた紅茶を一口含んだ瞬間――私は驚いて母を見た。
「美味しいでしょ?」
お母さんはいつもより優しく微笑んでいる。
けれど、私の心臓は大きく跳ねた。
(……この味……どうして……ここに?)
静寂の庵で、旅先で――ファルが入れてくれた、あの紅茶と同じ味だった。
口の中に広がる香りも、ほのかな渋みも、彼の指先から受け取った湯気まで思い出す。
「どうして……」
震える声で呟いた私に、お母さんは少しだけ得意げに笑った。
「ファルさんが、前にあなたと一緒に来たときに入れてくれたのよね。とても美味しくて気に入っちゃって。茶葉の種類を聞いて、行商の人に仕入れてもらったの」
「――!」
手が震える。
夢じゃなかった。幻じゃなかった。
お母さんは、確かにファルを覚えている。
湯気の向こうに、彼の微笑が浮かんで見えた気がして、視界がじんわりと滲んでいく。
(ありがとう……お母さん。やっぱり……ファルはここにいたんだ)
「今日のサラは泣き虫ね」
それがからかいではないと分かる。
優しく頭を撫でる手は、ただ私を心配している手だった。
「……うるさい……」
お母さんが淹れてくれた紅茶をもう一口含む。
喉を通る温かさに、胸の奥の冷たさがほんの少し溶けていく。
「ねえ……お母さん」
「なあに?」
「ファルのこと……覚えてる?」
私の問いに、お母さんは湯気の向こうで少し目を細めた。
そして、まるで懐かしい歌を思い出すように、ゆっくりと答えた。
「覚えてるわよ。優しい人だった。あなたの傍に立って、まるで守るように見つめていた……『ああ、この人はサラを大切にしている』って、すぐに分かったもの」
胸が詰まる。
確かに――母はファルを見ていた。
私だけじゃなかった。
「お父さんも覚えてるぞ」
横から声がして振り向けば、お父さんが大きな手でマグを持ちながら笑っていた。
「ミレーネばあさんの畑、手伝ってくれただろう?
あれからばあさん、『サラちゃんの旦那は次はいつ帰ってくるんだ』って煩くてな。旦那じゃないって言っても全然信じなくてよ」
「……っ」
込み上げるものを堪えられなくて、私は唇を噛んだ。
紅茶の香りがまた立ち上り、滲む視界の中で二人の声が重なる。
(これでいい……私以外の誰かが、確かにファルを見ていた。私の隣に、あの人はいたんだ)
サファイアのネックレスが胸元で小さく震えた気がした。
私がそっとサファイアを撫でる仕草を、お母さんがジッと見つめてから目を閉じる。
「サファイアの石言葉……『揺るぎない心』、『一途な愛』、それから『真実を見抜く洞察力』……素敵なプレゼントね」
お母さんが静かに微笑みながら言う。
その声に、胸の奥が熱くなった。
(揺るがない心……一途な愛……真実を見抜く力……)
それはまるで、ファルが私にくれたもの。
そして、今の私に必要なものすべてだ。
指先でサファイアを撫でる。
冷たいはずの石が、ほんのりと温もりを返してくる気がした。
まるでファルが「大丈夫」と傍で囁いてくれているように。
「……うん。最高の……プレゼントだよ」
涙を拭いながら微笑んだとき、紅茶の香りとともに、心に小さな勇気が芽生えていた。
(もう、自分にも、夢にも負けないよ……)
そう心でつぶやいた瞬間、ふとあの時の光景が蘇る。
――ファルは、あのとき魔術を使っていなかった。
「ねぇ、お母さん。魔術師が使わない時って、どんな時かな…」
私の問いに、お母さんは少しだけ首を傾げ、湯気の向こうで柔らかく笑った。
そして、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「……そうね。誰かを傷つけたくない時……
それから、例え使えなくても…守りたいものが目の前にある時、かしらね」
胸が大きく震えた。
ファルの姿が蘇る。
剣だけを構え、傷だらけになりながらも、その背中は何かを背負い、護っていた。
(……やっぱり……何かあったんだ)
サファイアのネックレスが胸元で小さく光を返す。
私はそれを両手で包み込み、目を閉じた。
母の言葉と、ファルの姿が一つに重なり合い、確信へと変わっていく。
「……うん、ありがとう。最高の答えだよ」
涙がにじむけれど、今度は拭わなくてもいいと思えた。
それは弱さの涙じゃない。
――また進むための、揺るぎない光だから。




