第三十五話:孤独の檻
第二章開幕です。
まぶたの裏に残るのは、まだ消えない赤。
血に染まった空と、泣いていたファルの顔――そして、あの鎖が彼を絡め取るような感覚。
「……っ!」
私は大きく息を吸い込み、跳ね起きた。
額に冷や汗が張り付き、全身がまだ小刻みに震えている。
夢? 幻? それとも……記憶?
荒く呼吸を繰り返す私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある壁と家具だった。
(ここは……“静寂の庵”……?)
私が最後に覚えているのは――あの光に包まれ、必死にファルを抱きしめた瞬間まで……。
「……ファル……?」
かすれた声が、静寂に吸い込まれる。
部屋を見渡しても“彼”の姿はない。
ファルの血で赤く染まっていたはずの私のローブは、ファルが選んでくれた淡い蒼に戻っていた。
けれど――崩れ落ちる彼を抱き止めた感触も、血の臭いも、鮮明に焼き付いて離れない。
私は思わず部屋を飛び出した。
広間に駆け込むと、白灰色の床が、私の心のざわめきを映すように波紋を広げる。
私が知る限りの部屋を巡っても、どこにもいない。
(どこ……どこにいるの……!)
名前を呼びながら庵の中を走る。
同じ部屋を何度も、何度も、何度も、何度も――それでも、どこにもいない。
「ファル……どこに……」
我慢していた涙が、ついに頬を伝った。
「返事……してよ……………」
私は思い切り息を吸い込んだ。
「返事してよ!!」
叫びは庵の奥へ消えていった。
……返ってくるのは、乾いた反響音だけ。
喉の奥が強張る。
胸が冷たく沈んでいく。
私は足を止めない。
廊下を駆け抜け、階段を上り、ありったけの扉を開け放った。
――どの部屋も整ったまま、冷たく、静かだった。
息が荒い。心臓が痛い。
けれど庵の中は、異様なまでに静まり返っていて、私の足音と呼吸だけが響いている。
その響きすら、まるで私自身を嘲笑うように木霊する。
(どうして……いないの……?)
涙が滲む。視界が揺れる。
私は壁に手をつき、それでも探すのをやめられなかった。
ファルを呼ぶ声は、次第にかすれ、震え、やがて声にならなくなる。
――まるで世界に、私ひとりしか残されていないみたい。
喉が焼けるほどに息を吸っても、誰も応えてはくれない。
庵の白灰色の床と白い壁が、私の心の空虚を映すように冷たく広がっていく。
(やだ……やだよ……ファル……)
震える声が漏れる。
膝が笑い、力が抜けていく。
私は思わず、その場に崩れ落ちた。
崩れ落ちた床は冷たかった。
肩を預ける壁も、指先に触れる石も、温もりを返してはくれない。
(どうして……こんなに寒いの……?)
庵は、静かでも安心できる場所だったはずなのに。
今はただ、私を閉じ込める檻のように見える。
扉を開けても、奥に続くのは同じ景色ばかり。
繰り返す廊下と閉ざされた部屋が、まるで世界ごと私を嘲笑っているかのよう。
胸の奥がぎゅっと縮む。
呼吸をするたびに、赤い空と、泣いていたファルの顔が蘇る。
そして――あの「鎖」に絡め取ってしまった感覚が喉を締め上げる。
思い出すたび、心がちくりと痛む。
夢でも幻でもなく――これはきっと私の奥に眠る「記憶」なのだ。
「……ファル……」
名前を呼んでも、やはり返事はない。
音が届かないのか、それとももう存在していないのか。
考えた瞬間、視界が滲んだ。
(嫌だ……一人は嫌……)
静寂の庵は名の通り、ただ静かすぎて。
自分の心臓の鼓動が、やけに大きく響いて聞こえる。
その音すら、次の瞬間には止まってしまう気がして、怖い。
「……置いて行かないで……」
震える声が、部屋に吸い込まれて消える。
涙が頬を伝い、床に落ちた。
ぽたり、と小さな水音がしたのに、それすらも孤独を突きつけてくる。
胸が痛い。
まるで何かに強く握りつぶされるみたいに、心臓が悲鳴を上げていた。
息を吸っても、肺が動いてくれない。
喉が焼けて、声を出そうとしても空気だけが漏れる。
震える指先を見つめる。
今は何も掴んでいないのに、感触が離れない。
心が暗闇に沈んでいく。
怖い。
怖い。
怖い。
「……ファル……」
名前を呼ぶ。
返事がない。
また呼ぶ。
それでも返ってこない。
(嫌だ……一人は嫌……)
背を壁に預け、膝を抱え込む。
冷たい石の感触が背中を這い上がり、じわじわと体温を奪っていく。
その冷たさが――まるで死にゆく者のように思えてならない。
涙が頬を濡らす。
止めようとしても止まらない。
耐えられず、また歩き出す。
涙で滲む視界の中、私は震える指先で机や棚に触れていった。
けれど、そこにあるのは整然と並ぶ本、誰の手も触れていない椅子、私の心を映すように波紋を広げる床だけ。
……衣も、魔力の残り香すら――どこにもない。
「……嘘、でしょ……」
胸がきゅうと締め付けられる。
まるで最初から存在しなかったかのように、庵は静かに整っていた。
でも――私は確かに抱きしめた。
あの腕の温もりも、震える涙も、血の匂いも……全部、鮮明に覚えているのに。
「ファル……ほんとに……どこにいるの……?」
言葉は掠れ、空気に溶けて消えていく。
返ってくるのは、やはり冷たい静寂だけだった。
――その瞬間、私は思ってしまった。
ファルが残したものは、ここにはひとつもない。
この世界に、私を…彼を…証明してくれるものは何も……。




