第九話:夢に揺らぐ名
「アルヴィト様! 床で寝るなんて何事ですか。少しは人間らしく振る舞ってください!」
「ん? ソフィアか……」
執務室の床に転がっていたのは、黒い瞳に金の縁取りを宿す、私の最愛の人のひとり。
いつも黒いローブを纏い、魔術師のような姿をしている。
「ご自分のお立場を理解してください」
「仕方ないだろう。どうにも人間の暮らしには慣れなくてな」
「慣れてください!」
面倒そうに起き上がり、今度は執務机に腰を掛けて大きな欠伸をする。
「……そこは座る場所ではありませんよ」
「ソフィアは厳しいなぁ。だが、そういうところも好ましい」
睨むと、彼は子どものように慌てて謝る。
その焦った顔が可愛くて、私はついからかいたくなるのだ。
「また俺を弄んだな?」
「さぁ? どうでしょうね?」
そうやって言葉を交わしていると、扉が開く。
「ふたりとも楽しそうだな」
振り返ると、アルヴィト様と瓜ふたつの顔がそこにあった。
「陛下からもアルヴィト様に何か言ってください」
「言っても無駄なのは、ソフィアも知っているだろう?」
私は深いため息をつき、似た者同士のふたりを軽く睨んだ。
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私は薄く目を開ける。
(……また夢? なんで、覚えていられない?)
意味を測りかねながら、体を起こす。
「サラさん、夕食ができましたよ」
扉越しにファルの声。
(もうそんな時間……)
慌てて鏡を見ると、髪がひどく乱れていた。
「準備できたら行く!」
「分かりました」
寝癖を直し、広間へ急ぐ。
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「ごめん。起きたら髪が大変で……」
「いえ、大丈夫ですよ」
いつもと変わらない微笑。
なぜか懐かしさが胸に灯る。
食堂に入ると、宮廷料理のような豪華な皿が並んでいた。
冷めていない料理に一瞬驚くが、庵ならば不思議でもないだろう。
口に運ぶと、舌に豊かな味わいが広がった。
「これ、あなたが?」
「勝手に用意されるんですよ」
「……誰が?」
「オバケ、とか?」
冗談めかす笑い。
私はむっとして唇を尖らせる。
「あなたって、大事なことはいつも誤魔化す」
「ああ……サラさん、そういう顔もするんですね」
くすくす笑う彼に、頬が熱くなる。
「……じゃあ条件です。私のことを“ファル”と呼び捨てにしたら、質問ひとつだけ包み隠さず答えましょう」
「じゃあ──ファル。あなたの目的は?」
「あっさり呼びましたね。もう少し照れてほしかったのですが」
「だってファルって愛称でしょ?」
彼は手を打って笑みを浮かべる。
「……なるほど。目的は──人探しです」
単純な答えに、私は肩を落とした。
「誰を探してるの?」
「……友人、とだけ」
「また誤魔化した! 約束と違うじゃない!」
身を乗り出すと、彼は困ったように笑う。
「では、名前だけ。──それでいいですか?」
「……許す」
ファルは目を閉じ、しばし沈黙。
そして、ゆっくりと告げた。
「……ソフィア」
その名を聞いた瞬間、胸の奥にざわめきが広がった。
理由もなく、確かに知っている名。
忘れていた記憶の底を揺さぶるように。