第八十七話:白と蒼の境界
沈黙の海を越え、ついに彼らは“記録の街”へ――。
長い静寂の後に差し込む真昼の光。
第八十六話の余韻を受けて、物語は“記録”から“記憶”へと歩みを進めます。
陽光が海を割り、甲板の上に降り注いでいた。
沈黙の海を抜けた船は、真昼の光の中でゆっくりと呼吸を取り戻していく。
潮の香りが濃い。
風が帆をはらみ、波が船腹を叩く。
遠くの空気が変わりはじめていた。
湿った潮風に、石と人の匂いが混じっていく。
その混じり方が、まるで現実へと戻る合図のようだった。
ファルが前方に目をやり、息を吐いた。
その横顔には、安堵とも寂寞ともつかぬ色がある。
海風に黒髪が揺れ、光が細く流れた。
「……あの塔、懐かしいな」
私も身を乗り出して、その先を見た。
白い尖塔が、陽炎のようにゆらめいている。
その根元に広がる街並みは、
まるで水面に浮かぶ幻のようだった。
揺らめく海と光のあわいに、
その街は“記録”ではなく“記憶”のように見えた。
「あの白い塔?」
「ああ。もうかなり古い」
彼の声が、風に溶けていく。
光が海を跳ね、塔の影がきらめきの中に滲む。
昼の太陽が強すぎて、すべてが少し現実離れして見えた。
――まるで、世界そのものが眠りから覚めきらないように。
ファルは目を細めて言った。
「“記録院の街”なんて呼ばれてるけど、
本当の姿を知ってるやつはほとんどいない」
「あなたは、知ってるの?」
「静寂の庵が“世界”の記憶を守ってるなら、
アルカ・メーレは“人の記憶”を集める場所と言うべきだろうな」
淡々とした声。
けれど、その言葉の奥に何かが揺れていた。
波の反射が彼の瞳に映り込み、
蒼の中にわずかな痛みが見え隠れする。
ファルはそう言って、手すりに背を預けた。
笑ったように見えたけど、その奥に少しだけ痛みが滲んでいた。
その痛みが何に向けられたものか、私は訊けなかった。
昼の風が二人のあいだを抜けていく。
海の光が、街を、そして私たちを包み込む。
光が肌を焼くように熱いのに、不思議と心は静まっていく。
錨の鎖が鳴り、船体がわずかに揺れた。
足元を伝う衝撃に、止まっていた時間が確かに動き出す。
水面に映る影が震え、波紋が広がる。
そのわずかな動きが、命の証のように見えた。
港の喧噪が、遠くで小さく響いていた。
それは現実の音だった。
笑い声、荷を降ろす音、鳥の鳴き声――
沈黙の海にはなかった“生活”の音が、確かにそこにあった。
現実が――ゆっくりと、戻ってくる。
やがて、街の輪郭がはっきりと見えてきた。
白い石造りの建物が陽光を受けて輝き、
その隙間を縫うように水路が走っている。
水面には無数の小舟が浮かび、
それぞれが鏡のように光を跳ね返していた。
白を基調とした教会の影響がある建物のはずなのに、紋章は一切ない。
それがかえって、この街の“純白”を際立たせていた。
権威も信仰も、ここには存在しない。
ただ、人々の息づく音と、記憶の欠片だけが漂っている。
「海の上にも街がある!」
思わず声が大きくなり、頬が熱くなる。
自分でも驚くほど、子どものような声だった。
風に乗ってその声が広がり、波に消える。
ファルが少しだけ口元を緩めた。
「この街特有の景色だからな。歩いて回るだけでも楽しめる街ではある」
その声音はいつものように穏やかで、
どこか懐かしさを帯びていた。
彼の視線は、遠く過去を見るようでもあり、
今を確かめるようでもあった。
船がゆっくりと港へ向かって進む。
水路を滑る音、錨の鎖の軋む音、
すべてが静かに、確かに“動いている”。
私は甲板の縁に手をかけ、
アルカ・メーレの街並みを見つめた。
白と蒼が溶け合い、
まるで空と海の境界が街になったようだった。
風が頬を撫でる。
潮の香りが濃く、懐かしい。
この街が、私たちを呼んでいる――
そんな錯覚を覚えた。
ファルの黒髪が光を掠める。
その横顔に浮かぶ微かな影を見ながら、
私は胸の奥に、言葉にならない予感を抱いた。
――この街には、何かが眠っている。
その確信にも似た感覚が、
海風とともに静かに胸へと沈んでいった。
アルカ・メーレ。
それは“蒼の記録院”に連なる街でありながら、どこか異質な場所。
白い塔に刻まれた記憶の影、その中に眠る“人の記録”とは――。




