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黒の約束〜滅びの約束を越えて〜  作者: はる
約束の残響

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第八十六話:沈黙の海を越えて

風の音。

波の音。

そして、遠くで消えていく鐘の音――。


海は息づいていた。

ゆるやかにうねる潮が、船底を撫でるように滑っていく。

けれど、その音の奥にあるはずの生命の気配は消えていた。

まるで世界そのものが、ひととき呼吸を止めたかのように。


胸の奥に、冷たいものが張りついていた。

息を吸おうとしても、空気が肺に届かない。

時間が凍りつき、音だけが遠くで流れている。

視界の端で、灰がひとすじ落ちた。

それは静かに崩れ、光の粒となって消えていく。


手の中に残ったのは、ノエリスだった“何か”が壊れる感触。

指の隙間から、砂のように記憶がこぼれ落ちた。

掴もうとすればするほど、形は崩れ、

残るのはただ――空虚だけ。


その手を、温かいものが包んでいる。

気付いた瞬間、凍っていた時間が音を立てて解けていく。

指先に宿った熱が、確かに現実を思い出させた。


「……ファル……」


名を呼んだ瞬間、心がひび割れた。

痛い。

魂そのものが悲鳴を上げている。

鼓動と痛みが重なり、どちらが現実で、どちらが幻なのかさえ分からなかった。


「大丈夫。今見たものは、ただの“記録”だ。――サラ」


深い蒼の底から響く声。

その響きが、暗闇の縁をゆっくり照らしていく。

冷えきっていた世界に、わずかな色が戻っていった。


名前。

そう、私は――ソフィアじゃ、ない。

サラ。

確かに、それが私の名。

その名を呼ばれた瞬間、世界が呼吸を取り戻した。

涙が、ひとしずく零れた。


揺れる視界の中、蒼が溶けていく。

波の煌めき。風の匂い。塩の味。

音と光が輪郭を取り戻し、世界が再び“今”を流れ始めた。



---


「……ここは……?」


喉が焼けるように乾いていた。

言葉を発するたび、胸の奥に痛みが広がる。

呼吸のたびに肺が軋む。

それでも確かに――息がある。

その事実が、生の輪郭をはっきりとさせた。


ファルが、そっと頬に触れる。

その指先には、確かに“生きている”温度があった。

氷に触れた後のように、じんわりと熱が広がっていく。


「沈黙の海を抜けた。――よく、耐えてくれた」


その声は、祈りのように静かで、優しかった。

安堵が滲む響き。

彼の瞳が柔らかく揺れ、その光を見ているうちに、

私の中にも微かな温もりが戻っていく。


気づけば、私はファルの胸に顔を埋めていた。

彼の胸から伝わる鼓動が、確かに“生”の音を刻んでいる。

冷たい記録の中では、決して届かなかった現実の音。

それがただ、痛いほど愛しかった。


心の奥が、ゆっくりとほどけていく。

涙が頬を伝い、ファルの衣を濡らした。

それが現実の証のようで、また新しい涙が零れた。


「……怖かった」


震える声が漏れた。

それが嗚咽なのか、祈りなのか、自分でも分からない。

声にならない想いが、波音に溶けていく。


ファルは何も言わなかった。

ただ静かに、私の髪を撫でる。

その仕草が、痛みよりも優しく、失われた時間を包み込む。

まるで、世界そのものが赦してくれるように。


ふと周囲を見れば、同じように座り込む乗組員たちの姿があった。

彼らの顔にも、恐怖と安堵が入り混じっている。

互いの存在を確かめるように、震える手で肩を叩き合っていた。


「大丈夫だ。すぐに皆、立ち直る」


ファルの声は穏やかで、深い海の底のようだった。

静かで、遠く、それでいて確かに届く。

その声を聞くだけで、世界が少しずつ安定していくように感じた。


「……ファルは、平気なの?」


その問いに、彼の瞳がわずかに揺れた。

その光は、どこか遠くを見ているようで――ほんの少し、寂しかった。




「俺には……“過去”を見ることができないからな」


短い言葉に、深い孤独が滲んでいた。

その意味を、私は問い返さなかった。

彼が知っていても、見ることはできない“過去”。

それが、きっと私たちを隔てる境界なのだと、心のどこかで悟っていた。


「――ごめん」


私がそう呟くと、彼は苦笑して、そっと髪を撫でた。

その手の温もりに、胸が締めつけられる。

その手が離れたら、もう二度と戻れない――そんな気がした。


(……ファルと私は、違う時間を生きている)


嫌でも理解してしまう。

彼の時間は、私よりも長く、深く、静かだ。

けれど――。


認めたくなかった。

私は、同じ時間を歩みたい。

たとえ、その時間が儚く終わるとしても。


無意識に、彼を抱きしめた。

置いて行かれないように。

そして、置いて行かないように。

互いの存在を確かめるように、静かに腕を回した。


波の音が、二人を包み込む。

沈黙の海の底で、確かに響いていたのは――

互いの鼓動だけだった。

その鼓動が、確かに“今”を刻んでいた。



---


やがて、帆を打つ風がわずかに変わった。

海流が船底を押し上げ、揺らぎが戻る。

止まっていた世界が、ゆるやかに動き始めた。


遠くで、光がひと筋、海面を裂いた。

空は淡く色を変え、雲の隙間から金の光が差し込む。

海面がその光を弾き、遠くに白い影が浮かび上がった。


「見えてきたな。――あれがノータリア。

 またの名を、“蒼の記録院の街アルカ・メーレ”だ。」


「……アルカ・メーレ……」


呟いたその響きは潮風に溶け、

新しい旅の始まりを告げる鐘のように、

遠く、静かに鳴り続けていた。

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