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黒の約束〜滅びの約束を越えて〜  作者: はる
約束の残響

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第八十七話:沈黙の中の記憶

ソフィアの記憶。

それは幸福だったのか。

それとも――

蒼の海はゆっくりと崩れ、かわりに無数の光片が宙を漂う。

それは、記憶そのものが形を取り戻していくようだった。


どこかで鐘の音がした。

けれど、音ではない。心臓の奥で“記憶”が鳴っている。


世界が裏返る。

足元の蒼が消え、代わりに石畳の床が現れた。

陽光が差し込み、紅茶の香りが鼻をくすぐる。


これは、夢……ではない。


――記憶だ。



---


テーブルの上には紅茶と果実水、色とりどりのお菓子が並んでいる。

隣には、私の弟、ノエリス。


「ソフィア姉さま!これ、食べていいの?」


「えぇ。一緒に食べましょう」


歳の離れた私の弟。

私の宝物のひとつ。


陛下もアルヴィト様も、私が帝城から出ることを咎めることはない。

だから、こうして定期的にノエリスに会いにくるのが私の楽しみだった。


嬉しそうにお菓子を頬張り、果実水を目を輝かせて飲む姿を見ているだけで癒された。


セリュネア帝国は、大きな武力を持ちながらも、決してそれを振るうことのない国。

陛下もまた、民のひとりであろうとした。

だからこそ、この国は長く平和に包まれてきた。


――そんな世界が永遠に続くと、信じていた。



---


屋敷の入口が騒がしくなり、

どこかで悲鳴が上がった。


けれど、その声が誰のものだったのか、思い出せない。


ノエリスが怯えている。

私は彼を背に庇い、扉から遠ざかる。

それなのに、足音が――近づいてくる。


床を叩く重い足音。

金属の音。

数を数えようとしたけれど、途中でやめた。


屋敷には護衛がいたはず。

帝城から連れてきた精鋭も。

なのに、誰も――いない。


喉が冷える。

息を吸っても、肺が動かない。

詠唱の断片を唇に乗せようとした、そのとき――


扉が、開いた。


氷の刃が飛んできた。

紅茶の香りを裂き、壁を削り、光を散らす。


白い破片の向こうに、影が三つ。

魔術師と、剣士が二人。


「やっと見つけたぞ」


声が届く。

けれど、意味が届かない。


――これは夢ではない。

そう理解した瞬間、手が喉に触れた。



---


息が詰まり、詠唱が途切れる。


「っ……!」


声にならない呻き。

それでも私は、睨むことだけはやめなかった。

男はただ、気味の悪い笑みを浮かべ続けていた。


抵抗しようとノエリスの小さな剣を逆手で振り上げても、軽く止められ、無理やり床に転がされる。


「おい、押さえてろ」


その声でもう一人の剣士が私の背中を踏みつけた。

ノエリスから引き剥がされた。

その不安と恐怖で、踏みつけられた痛みなど感じなかった。


必死にノエリスに視線を向けると、怯えて声も出せないのだろう。

口も膝もガタガタと震え、床は濡れていた。


「お願い!やめて!」


そんな願いが、この男達に通じるはずもないことくらい――分かっている。

でも、願わずにはいられなかった。


ノエリスの怯えた顔と、男の背中。

男が笑っているのは、見なくても分かる。


男がノエリスの脇腹を蹴り飛ばす。

ノエリスは声も上げられず、痛みと恐怖で蹲った。


「燃やせ」


背筋に氷を落とされたように身体が強張った。


「……何を、言ってるの?」


考えたくない。

嫌だ。嫌だ――


「やめ――!」


その瞬間、炎がノエリスを呑み込んだ。

光が跳ね、空気が悲鳴を上げる。


「あああぁぁぁぁ――」


声が、裂けた。


皮膚が焼ける匂いが、紅茶の香りを押し流していく。

熱が視界を焼き、世界の輪郭が溶けていく。


ノエリスが叫んでいる。

けれど、もう“音”ではなかった。

破れた息と焼けた喉の音が、世界の端で泡のように弾けて消える。


「ノエリスッ!!」


動こうとしても、背を押さえる足が骨を砕く。

世界がゆっくりと傾き、赤だけが視界を焼いた。


炎の向こうで、ノエリスがこちらに手を伸ばしていた。

その指が燃え、皮膚が黒く剥がれていくのが見える。

――それでも、伸ばしていた。


「ノエリス!」


……返事がない。


「ノエリス!」


声が喉で潰れ、言葉にならなくなっていく。

声が壊れて、血の味がする。


炎の色が濃くなるたびに、あの子の形が崩れていく。

焼け焦げた肉が、煙のように空へ散った。

それでも、まだそこに“彼”がいるような気がした。


世界が静かになった。

音が、何もかも遠のいていく。


ただ、焦げた匂いだけが残っていた。


背中を踏みつけていた足が離された。

這うようにノエリスだったものへ、手を伸ばす。


……冷たい。


温もりを探すようにそっと撫でた。

次の瞬間、ズズッと音を立てて、私の指が彼を壊してしまった。


怒り? 哀しみ? 絶望?


――分からない。


ただ、ノエリスを奪った者たちに殺意を向けるのが精一杯だった。


ノエリスだったものの欠片を握りしめ、振り返ろうとした瞬間――

後頭部に強烈な痛みが走り、視界が一気に霞む。


薄れゆく意識の中で、最後に見たのは、ノエリスだったものの顔。


そして、男の外套の隙間から覗く“太陽を抱く龍”の紋章――


その輝きが、異様に冷たく光っていた。


――お願い、壊さないで。


世界が、歪む。

床が溶け、壁が砕け、紅茶の香りが遠ざかっていく。


――記憶が、崩れていく。


光も音も、すべてが遠のいていく。


そして、すべてが再び――蒼の海に沈んだ。


沈黙だけが、彼女を包んでいた。


――遠くで、もう一度、鐘の音がした。


記憶は、沈黙の中で最もよく語られる。

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