表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒の約束〜滅びの約束を越えて〜  作者: はる
約束の残響

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

104/109

第八十六話:願いを、もう一度

世界が息を止める。

“沈黙の海”――音も、魔力も、記憶さえも飲み込む場所。

そこに足を踏み入れたサラとファルを包むのは、

海ではなく、かつて失われた“蒼の記憶”だった。

――音が、変わった。


波の響きも、風の匂いも、まるで世界がひとつ呼吸を止めたようだ。


少し前までの船乗りたちの喧騒も静まり、

代わりに、耳の奥で“何か”が軋むような音がした。


「サラ、間もなく“沈黙の海”だ。俺から離れるなよ」


ファルの声は低く、張り詰めていた。

その瞳の奥に、初めて見る“恐れ”の色が滲んでいる。


「沈黙の海って……なに?」


問いかけながらも、喉が渇いて言葉が掠れた。

ファルはすぐには答えない。

海を見つめたまま、しばらく沈黙を保つ。


やがて、ファルが口を開いた。


「風が凪、音も魔力すら飲まれる場所だ」


「音も魔力も、飲まれる?」


ファルはゆっくりと頷いた。

その横顔が、淡い光に沈んでいく。


「かつて“世界から消された場所”だ。――空白の空、沈黙の海。呼び方は色々があるが、静寂の庵と同じように、切り離された空間が広がる海域」


「……切り離された、空間……」


自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

いや――そもそも、音になっていない。


唇が動いているのに、空気が震えない。

波の音も、帆の軋みも、風の唸りも――すべて、どこか遠くに押しやられていく。


世界が、薄くなる。


「ファル……?」


名を呼んでも、声は届かない。

けれど、ファルの肩が僅かに動いた。

彼には聞こえているのか、それとも――感じ取っているのか。


「大丈夫だ。自分をしっかり持て。直ぐに抜ける」


その声だけは、不思議と胸の奥に響いた。

まるで、思考の中に直接届くように。


船体が大きく軋んだ。

冷たく、しかし潮の匂いはない不思議な風。

ファルが魔術ではない別の何かで風を起こした。

だが、船が進んでいるのかすら分からない。

視界が歪み、水平線がゆらりと溶けていく。


海の青が、次第に淡く、白く、透けていく。

底が見えるわけではない。

むしろ、底が“存在しない”ような空虚さが、足元からじわじわと広がっていく。


私は思わずファルの手を掴んだ。

その指先がかすかに震える。

寒いのではない。

――自分の存在が、薄れていくような感覚。


呼吸をしているのに、肺が動かない気がする。

鼓動は遠のき、時間の輪郭すら曖昧になっていく。


「ファル……これ、本当に海なの?」


問いかけた瞬間、風景が滲んだ。

空と海の境界が消え、視界いっぱいに“蒼”が満ちる。

境目も、奥行きもない。

ただ――懐かしい光の中で、誰かが笑った気がした。


“サラ”


確かに、誰かが呼んだ。

それは、波でも風でもない。


胸の奥で、封じられていた記憶が疼き出す。

紅茶の香り、祈りの声、古い石壁――そして、血の…臭い。


遠い過去の断片が、脳裏に浮かぶ。

柔らかな声、冷たい指、誰かの名を呼ぶ幼い私の声。

それらが幾重にも重なり、やがてひとつの光景を描き始めた。


私は深い海に沈むかのように、その記憶に飲まれていく。

思考が溶け、体の輪郭が失われていく。


右手に、ファルの温もりを感じながら――


確かに、そこに“現実”があった。

それだけが、私をこの世界に繋ぎ止めていた。


けれど次の瞬間、

意識の底で、世界が“軋む”音を聞いた。


それは、確かにあの時と同じ音。

セリュネアが沈んだ、あの“終わり”を告げる音だった。


私は目を閉じる。

闇ではなく、蒼が広がっていく。

光も影も呑み込む、永遠の蒼。


その中で、誰かの声が微かに囁いた。


――“願いを、もう一度”


そして、世界は音もなく――私の中に沈んだ。


音のない海。

世界が消えるように、記憶が形を取り戻す。


最後に囁かれた「――願いを、もう一度」。

それは、誰の声だったのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ