第八十六話:願いを、もう一度
世界が息を止める。
“沈黙の海”――音も、魔力も、記憶さえも飲み込む場所。
そこに足を踏み入れたサラとファルを包むのは、
海ではなく、かつて失われた“蒼の記憶”だった。
――音が、変わった。
波の響きも、風の匂いも、まるで世界がひとつ呼吸を止めたようだ。
少し前までの船乗りたちの喧騒も静まり、
代わりに、耳の奥で“何か”が軋むような音がした。
「サラ、間もなく“沈黙の海”だ。俺から離れるなよ」
ファルの声は低く、張り詰めていた。
その瞳の奥に、初めて見る“恐れ”の色が滲んでいる。
「沈黙の海って……なに?」
問いかけながらも、喉が渇いて言葉が掠れた。
ファルはすぐには答えない。
海を見つめたまま、しばらく沈黙を保つ。
やがて、ファルが口を開いた。
「風が凪、音も魔力すら飲まれる場所だ」
「音も魔力も、飲まれる?」
ファルはゆっくりと頷いた。
その横顔が、淡い光に沈んでいく。
「かつて“世界から消された場所”だ。――空白の空、沈黙の海。呼び方は色々があるが、静寂の庵と同じように、切り離された空間が広がる海域」
「……切り離された、空間……」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
いや――そもそも、音になっていない。
唇が動いているのに、空気が震えない。
波の音も、帆の軋みも、風の唸りも――すべて、どこか遠くに押しやられていく。
世界が、薄くなる。
「ファル……?」
名を呼んでも、声は届かない。
けれど、ファルの肩が僅かに動いた。
彼には聞こえているのか、それとも――感じ取っているのか。
「大丈夫だ。自分をしっかり持て。直ぐに抜ける」
その声だけは、不思議と胸の奥に響いた。
まるで、思考の中に直接届くように。
船体が大きく軋んだ。
冷たく、しかし潮の匂いはない不思議な風。
ファルが魔術ではない別の何かで風を起こした。
だが、船が進んでいるのかすら分からない。
視界が歪み、水平線がゆらりと溶けていく。
海の青が、次第に淡く、白く、透けていく。
底が見えるわけではない。
むしろ、底が“存在しない”ような空虚さが、足元からじわじわと広がっていく。
私は思わずファルの手を掴んだ。
その指先がかすかに震える。
寒いのではない。
――自分の存在が、薄れていくような感覚。
呼吸をしているのに、肺が動かない気がする。
鼓動は遠のき、時間の輪郭すら曖昧になっていく。
「ファル……これ、本当に海なの?」
問いかけた瞬間、風景が滲んだ。
空と海の境界が消え、視界いっぱいに“蒼”が満ちる。
境目も、奥行きもない。
ただ――懐かしい光の中で、誰かが笑った気がした。
“サラ”
確かに、誰かが呼んだ。
それは、波でも風でもない。
胸の奥で、封じられていた記憶が疼き出す。
紅茶の香り、祈りの声、古い石壁――そして、血の…臭い。
遠い過去の断片が、脳裏に浮かぶ。
柔らかな声、冷たい指、誰かの名を呼ぶ幼い私の声。
それらが幾重にも重なり、やがてひとつの光景を描き始めた。
私は深い海に沈むかのように、その記憶に飲まれていく。
思考が溶け、体の輪郭が失われていく。
右手に、ファルの温もりを感じながら――
確かに、そこに“現実”があった。
それだけが、私をこの世界に繋ぎ止めていた。
けれど次の瞬間、
意識の底で、世界が“軋む”音を聞いた。
それは、確かにあの時と同じ音。
セリュネアが沈んだ、あの“終わり”を告げる音だった。
私は目を閉じる。
闇ではなく、蒼が広がっていく。
光も影も呑み込む、永遠の蒼。
その中で、誰かの声が微かに囁いた。
――“願いを、もう一度”
そして、世界は音もなく――私の中に沈んだ。
音のない海。
世界が消えるように、記憶が形を取り戻す。
最後に囁かれた「――願いを、もう一度」。
それは、誰の声だったのか。




