第八十三話:蒼の記録院 ― 龍の名を継ぐ者
彼らが語る“真実”は、もう戻れない世界の話。
サラとファル――その名が、古の契約を呼び覚ます。
静かな部屋に、紅茶の香りと過去の記憶が混ざる時、
“蒼の記録院”が見てきたセリュネアの真実が、ゆっくりと姿を現す。
案内された部屋の壁に、“三日月を抱く龍”の紋章が刻まれていた。
灯の少ない室内で、その銀の輪郭だけが静かに光を返す。
それは――自由商ラグトの店の奥にも掲げられていた紋章だった。
マルセリウスは私たちの前に進み出て、深々と頭を垂れる。
「よくぞ参られました。“ファルネーゼ・セリウス・オドアルド陛下” そして――“蒼の杯サラ様”」
私の知る名ではない。
私がファルを見ると、彼は小さくため息をついた。
「マルセリウス、セリュネアは既にない。その名は意味を持たないぞ」
マルセリウスが跪き、言葉を紡ぐ。
「貴方様がおられることに意味があるのです。
――真実を知りながら蛇を祀るなど、我々にはできませぬ」
私の知らない真実の中で交わされる言葉を、ただ呆然と見ていた。
ファルが静かに私を振り返り、低く告げる。
「サラ、ラグトやこの者たちは――“アルキウム・カエルレウム”。
通称・蒼の記録院に属する者たちだ」
「……記録院?」
聞いたことのない名だ。
私が分からずに首を傾げると、マルセリウスが椅子を引いてくれた。
「船を出すのは昼になりますので、サラ様のご質問には存分にお答えいたしますよ」
「……はい」
私が動揺を隠せずに座ると、ファルは微笑んで隣に腰を下ろした。
マルセリウスが正面に座るのかと思いきや、紅茶を淹れ始めたことに少し驚く。
湯気が立ちのぼり、香りが部屋を満たしていく。
紅茶の香りが、知らぬはずの懐かしさを運んでくる。
――彼らが語る“真実”は、たぶん、もう戻れない世界の話なのだろう。
二人とも柔らかな表情をしていたが、ファルだけは、どこか遠くを見ていた。
「さて、それではどこから話しましょうか」
マルセリウスが紅茶を配りながら、悩ましげな顔をした。
「……ファルの名前、私が聞いたのと違う」
マルセリウスがちらりと二人を見て、目を閉じる。
「ファルネーゼ様がセリュネアの皇帝であらせられたことは、ご存じで?」
「はい。静寂の――えっと……」
「“静寂の庵”の書庫で知ったようだ」
「そうですか。なら、アルヴィト様のことも?」
「え……あ、はい」
ファルが平然と“静寂の庵”と口にしたことに驚いたが、マルセリウスは何の動揺も見せなかった。
「サラ様が“名前が違う”と感じられたのは、アルヴィト様の“力と名を継いだ”ためですよ」
「……力と、名を……?」
マルセリウスは頷き、静かに語り出す。
「古きセリュネアでは、名は魂の器であり、力の証。
アルヴィト様が滅びの刻に、陛下へとその“名”を託されたのです」
ファルが、微かに目を伏せた。
――“ファルネーゼ・アルヴィト・オドアルド”。
それは、継承の証。
漸く繋がった。
夢で見たソフィアが、同じ名を持つ二人を“陛下”と“アルヴィト”と呼び分けていた理由が。
ソフィアが生きていた時代、二人は“別々の存在”だったのだ。
「そして、今のファルネーゼ様は、龍に近しいと言うよりは……龍そのもの、と言って良いかと」
ファルは“人ではない”――そう言われたのと同じだった。
違う。少なくとも、私が知るファルは人間だ。
「……ふざけないで」
気付いたら、声が出ていた。
「あなた達が崇めるものが、龍だろうが、皇帝だろうが……私には関係ない!」
私はテーブルを叩いた。
紅茶の雫が跳ね、まるで返り血のように木目の上に広がっていく。
「血が流れて、痛みを知って、泣いて、笑って――それでも優しくて!
なのに誰も、隣にいない……誰も! ファルのことなんて見ていない!」
感情が渦を巻き、何を言っているのか自分でも分からなかった。
「……サラ、落ち着いて」
ファルの、いつもの優しい声。
それが、余計に私の心を掻き回す。
「辛いって言ってよ! 寂しいって言ってよ! ――なんで……なんで、受け入れようとするの……!」
「――サラ」
ファルの腕が、私の頭を包むように抱き寄せた。
その温もりが、胸の奥をゆっくりと溶かしていく。
「お願い……ひとりにしないで
――ファルも、ひとりにならないで」
ファルの腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
彼の胸に顔を埋めると、
心臓の鼓動が、ゆっくりと耳の奥を満たした。
――人の音だった。
それが、何よりの証だった。
「……大丈夫だ、サラ。俺たちはもう、独りじゃない」
その声は、遠い海鳴りのように穏やかで、
それでも、胸の奥を焼くように切なかった。
マルセリウスが、静かに紅茶のカップを見つめながら呟く。
「――蒼の杯は贄にあらず。
龍を人として愛し、孤独を受け入れ、永劫共にあろうと契を交わした……
まるで、記録にあるソフィア様とアルヴィト様を見ているかのようです」
その言葉が、静かな波紋のように広がり、
紅茶の香りとともに、部屋の空気に溶けていった。
サラが叫び、ファルが抱き寄せる――その一瞬の中に、
遥かな過去と現在が重なりました。
“蒼の記録院”――
彼らが記したのは、滅びか、祈りか。
次回、《第八十四話:》。
過去の記録が、静かに語られ始めます。




