第八十一話:沈黙の海への序章
遠くに見える海が、夕陽を受けて金に輝いている。
フェリシアを発ってから三日。
草原と森を抜け、丘を越えた先に――
ようやく、港町アルマリスの白い街並みが現れた。
「着いたね……あれが、アルマリス」
馬を止めた私の隣で、ファルが微かに笑う。
潮風に乗って響く鐘の音が、街の賑わいを告げていた。
波のきらめきも、人々の声も、どこか懐かしい。
けれど、胸の奥の小さな緊張はほどけない。
「船まで白いんだね」
遠目にも、どの船も白塗りで、甲板には金の装飾。
陽を反射して眩しく光る帆船群は、美しいというより――どこか、神聖すぎる。
「一応アルマリスは国家にも宗教にも属さないと謳っているが――」
ファルは白い帆の列を一瞥し、瞳の奥に一瞬だけ冷たい光を走らせた。
「実際は、教会の資本が深く入り込んでいる。ここは貿易の要だ。“信仰”が通貨になっている場所さ」
「信仰が……通貨?」
「献金の額で船の優先権が決まる。教会は“平等な神の海”と言うが――都合のいい理屈だ」
皮肉を含んだ声音に、かすかな寂しさが混じる。
私は無意識に、ファルの横顔を見上げた。
潮風に揺れる黒髪の隙間で、陽がきらりと跳ねる。
「……嫌い?」
「いや。好きだよ。この街は、嘘と真実の境界がはっきりしている。だからこそ、ここでしかできないことがある」
意味は掴めない。
けれど、その瞳の奥に――わずかな覚悟が宿っていた。
門をくぐると、石畳の坂道が海へと落ちていく。
両脇の店からは焼き魚や香辛料の匂い。港では船員の掛け声が重なり、
祭りでもないのに笑顔が絶えない。ここでは、商談も祈りも、同じ“取引”として呼吸している。
「活気があるね……」
「帝都とは違う意味で、な」
軽く笑って歩き出すファル。
だが私は気づいていた――笑みの下に、薄い警戒があることに。
港の向こう、塔に翻る旗。
白地に金の十字。その中心には――見覚えのある紋章。
(……教会の紋章)
胸の奥がざわつく。
ファルは一瞬だけ視線を上げ、その紋章を射抜いた。
怒りとも悲しみともつかない影が、表情に触れて消える。
「サラ、宿の前に寄る場所がある。……会っておきたい男がいる」
「誰……?」
「“自由商”だ。アルマリスで船を動かすには、あいつの許可がいる」
海風が吹き抜け、鐘がもう一度鳴った。
金の光が白壁を洗い、遠くで波が砕ける。
――ようやく辿り着いた港町。
だが、この穏やかな潮風の下に、新しい嵐が潜んでいる気がした。
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自由商の事務所は港の最奥。
表の喧騒が嘘のように薄れ、潮と油の匂いが濃くなる。
細い階段を下りると、重い扉に古びた金属の紋章――《三日月を抱く龍》。
「……教会の印に似てる」
「似せてる。“神の目が届かぬ影の教会”――聞こえはいいが、要は裏の集まりだ」
ファルが扉を押し開ける。
薄暗い室内。壁一面の航海図。
灯に照らされたコインが、乾いた金属音で数を主張していた。
「やあ、黒衣の賢者様じゃないか」
灰の外套、古びた単眼鏡の男が奥から出てくる。
陽気そうな声だが、目だけが笑わない。
「……久しいな、ラグト」
「本当に久しい。二年半か? 相変わらず老けないねぇ」
ファルは肩をすくめる。
「その話は結構だ。今回は――船が要る」
「なるほど。“海を渡る代償”を払う覚悟はできてると?」
その一言で、心がひやりとする。
“代償”――響きは、金だけを指していない。
「ああ。祈れば良いんだろ?」
私が問いかけようとした時、ファルの視線に制される。
ラグトは口端を上げ、古い地図を指でなぞった。
「流石、分かってるな。なら、船を出すのは簡単だ。――行き先が問題だがな」
地図の端、サルミール大陸南岸に黒い印。
「この印、何ですか?」
「“沈黙の海”。昔、教会の船が消えたって噂がある。そこを抜けなきゃ、サルミールには着けねぇ」
「裏航路、か……沈黙の海とはな」
ファルがわずかに目を伏せる。
瞳の底を、一瞬だけ“恐れ”が掠めた気がした。
「……構わない。行く」
「命知らずは相変わらずだね」
ラグトは肩を竦め、書類を差し出す。
「出航は明後日。――ただし、本当にいいのか? あんたは平気でも、お嬢さんにはきついぞ」
「大丈夫だ。俺がいる。乗組員も、全員無事に送り届ける」
ラグトが吹き出す。
「すげぇ自信だ。――お嬢さん、助言。沈黙の海に入ったら、賢者様の手を握っておきな」
「え?……あ、はい」
意味が分からないまま、話は前へ転がっていく。
外に出ると、空は群青に移ろい始めていた。
潮風は冷たく、街灯が石畳を金に染める。
どこかでまた、鐘。
――“祈りの鐘”。
けれど、あの音が私に必要なのか、もう分からない。
金の海が静かに呼吸する。
波の向こう、白い帆が一枚、夜風に翻った。
その白はあまりに純粋で――だからこそ、少し怖い。
私が祈るべき神は、ここには居ない。




