第八話:静寂の庵の夜
脱走の経緯と精霊の話がひと段落すると、私は思い切って尋ねた。
「……“邪龍”って、何?」
ファルは少し考え込むように視線を伏せ、それから静かに答える。
「文献に残っているでしょう。──古代の大帝国を滅ぼした黒龍」
黒龍。
かつて世界の半分を治めたセリュネア帝国を、一夜にして滅ぼした伝説の存在。
教会や帝国が象徴とする白き龍に対し、敵対した存在として語られる。
私は思わずファルを凝視していたらしい。彼が小さく笑った。
「……私が怖くなりましたか?」
「……そうは思わない。でも、司教様が。あなたの名を聞いたあと『忌々しい邪龍』と……」
「教会は昔から、私を目の敵にしてますからね。比喩でしょう」
肩をすくめ、苦笑する。
(古代魔術を使うから? それとも……)
問いを飲み込むと、彼は先回りするように口を開いた。
「そんなに逃げ回っているわけじゃありませんよ」
軽く笑い、教会とのいざこざをまるで笑い話のように語る。
その規格外の内容に私は言葉を失った。
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「そろそろ休憩しましょうか」
気付けば長い時間を過ごしていた。お腹も空き、そして──
「……お風呂、入りたい」
我ながら場違いな一言に、ファルはにこりと微笑んで立ち上がる。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは浴室。
皇族の浴場のように広く、華やかで、けれど不思議な静けさをたたえていた。
「必要なものは揃っています。服は置いておけば綺麗になりますから。ごゆっくり」
そう言い残し、扉が閉まる。
(……置いておけば綺麗になる?)
ローブを脱ぎ、シャワーを浴びる。温度はちょうど良く、自然に整えられている。
湯船に沈めば、声が漏れた。
「はぁ……気持ちいい」
半日以上、馬と歩き詰めだった脚は重く、浮腫んでいた。湯にほぐされながら、現実が押し寄せてくる。
脱走兵。下手をすれば犯罪者。
帝都には戻れない。教会が絡んでいる以上、容赦はない。
隠れ住むなら辺境の村か──。
(お父さん、お母さん……大丈夫かな)
両親は小さな村の出。私もそこで育った。
魔術が好きで、無理を言って帝都に出た。……その結果がこれだ。
焦燥に胸を締め付けられながらも、湯の温もりに心は和らいでいく。
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浴室を出て服を広げると──新品のように蘇っていた。
驚きつつ身支度を整え、部屋へ戻る。
ファルは一人、紅茶を飲みながら本を読んでいた。顔を上げ、柔らかく微笑む。
「おかえりなさい」
私の強張った表情を見て、彼が首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「……両親が、心配で」
子どものように俯き、裾を握りしめる。
ファルは歩み寄り、膝を折って私の顔を覗き込んだ。
「当面は心配いりませんよ。──行ってみましょうか」
「でも、見つかったら……」
「心配無用です。絶対に見つかりません。それに、私、強いでしょう?」
少し茶化すような声に、思わず口元が緩んだ。
「サラさんの故郷は?」
「……フェリシア、という村」
「ここから馬で二日ほどですね。今日はお疲れでしょう。部屋を用意しました。明日、出発しましょう」
フェリシアの名を知っていたことに小さな驚きが走る。
「……うん」
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案内された部屋は、外の白一色とは違い木の家具で整えられ、温もりのある空間だった。
「夕食ができたら呼びます。庵の中も自由に歩いてください。書庫には……サラさんの知りたいものがあるかもしれませんよ」
そう言い残し、ファルは出て行った。
私はベッドに身を投げる。
(ふかふか……)
焦りと不安は残っている。だが、柔らかさに抗えず、空腹さえ忘れて目を閉じてしまった。