第8話 月下の輪舞曲
体に心地よい、低い音が響く。
時刻は低い音の4刻。地球でいえば午前2時。ほとんどの人間は眠りについていることだろう。月光により蒼白く染まった部屋で、横たわった如月一葉はそっとため息を吐いた。
(寝れないなぁ)
世話係の侍女が訪れるのは低い音の6刻。今からでは2刻……4時間ほどしか無い。
とは言え朝食も部屋でとっている一葉。この待遇に若干の申し訳なさを感じているのだから、この上寝坊などできるはずもない。日本で生まれ育った筋金入りの庶民なのだから。
眠れない原因は解っている。
未だに抜け落ちないその言葉は、何気なく言われたモノだというのに。
(恋仲……ねぇ……)
その言葉で思い出すのは彼女にとって大事なひと。
大事だと、彼女だけが思っていたひと。
いや、それは間違いなのだろう。始まりは確かに互いを見ていたのだから。
ずっと同じ気持ちでいると思っていた。
恋し、恋されているつもりだった。
記憶の中にあるあの日、一葉は彼から久々に連絡をもらった。
それまでの2人は些細なきっかけからの言い合いで連絡を絶っていたのだ。
それは今までもあったこと。
それはこれからも幾度となくあるだろうこと。
そう思っていただけに、その言葉は一葉の心を凍らせた。
――いち、別れよう
わからない。
わかりたくない。
出会ってからの1年半、ずっと彼を見ていた。
だから、その月日が一葉に訴えている。
彼は本気だと。
――俺、友達にはなれてもお前の彼氏でいるのは無理だわ
――…………なんで?
何を言われているのだろうと思った。
――いち、何考えてんのか分かんねぇし。何があっても1人で何とかしてるし。俺がいる意味無いだろ
――そんなこと……
――それに
そして彼は言いにくそうに、気まずそうに……しかし一葉をまっすぐに見ながら言った。
――守りたい人ができたんだ
――……なんで? 私は……私は、『違う』の……?
――お前は、1人でも平気だろ。でもアイツは1人じゃダメなんだ
耳が、心が、すべてが拒否をしたはずなのに、それは心の奥底に刺さった。
辛かった。
仲直りを信じた自分を、一葉は哀れに思った。
寒い夜。今夜は雪だと、予報は言っていた。
この震えは、寒さは、体と心のどちらが上げた悲鳴なのか。
――いい、よ……
――……え?
――そんなに、そのひとが好きなら。仕方ないじゃん。もう、無理なんだもん
――……いち、悪い……
――もうこんな風に話すこともないね
目を見たくなかった。そっぽを向きながら話していた一葉には、彼がどのような表情を浮かべていたのかは見えなかった。
――ん……ホントに、ごめん
――謝るなら……っ!! 謝るなら、最初から言わないでよ!! 亮なんか大っ嫌い……!!
最後の言葉は彼よりも彼女の心こそを切り裂き、大きな傷を作る。
こらえきれずに背を向け、ボロボロと泣きながら宛てもなく走った。
追いかけてほしいという希望は、3分後の寒さにより絶望へと変換される。
――こんなありきたりな話。
それが自分にも起こり得るなど、一葉は今まで露ほども思ったことがなかった。
ひとりでなど生きていけない。
傷つかないほど強いわけではない。
何から何まで頼らなくては、私にはあなたと生きていく理由が無いのか。
そんな言葉も、今となっては届かない。
彼女は自分から逃げ出したのだから。
泣きながらボタンを押し、縋るように呼び出した友人の暖かさで余計に泣いた。
どれだけ酔っても心のどこかに残る冷たさが一葉を苛んだ。
そうしてどれ程辛くても、やがて時間は経ち日が変わる。
世界とは案外良くできているものなのだ。
目を覚まし、大学へ行き、部活にも出、また少しヤケ酒を呑んでから家路についた。
『1人』が欠けても、思ったほど『日常』は変わらないものだった。
何ひとつ変わらないのだ。彼は隣にいないけれど、自分は立ち直る。
そう、『1人でも生きていける』。
愚かしくもそう思い込まねばこの傷は存在を主張し、そのままでは歩くことすらできなかった。
何も知らない仲間たちに一葉は何でもないふりをし、状態を知る友人たちが顰めた眉には気付かないふりをした。他人には危うく見えるほどの光を持たねば、心の闇に押しつぶされそうだったのだ。
――大丈夫、私は大丈夫。
そして憎らしいほど星がきれいで怖いほど静かなその夜に、一葉は地獄へと召喚されたのだ。
「恋仲……ねぇ?」
今となれば、男1人に何て大げさだったのだろうかと一葉は思う。彼の存在にあの頃の自分は舞い上がっていたのだろうとも。
しかし、あの『気持ち』が消えていないのもまた事実。気付けば2年という長い期間が経っていたが、思い出や感情が色あせることはなかった。
ゆっくりと考える時間がなかった分、余計に鮮明になった様にも思われた。
とはいえあの関係に戻りたいかと問われれば一葉は首を横に振る。あのひとの隣には、あのひとが守りたいと思った子しか入れないから。
一葉の入る隙間など、あの日の前から既に無かったのだから。
嫌われているわけではない。
一葉は『恋』が欲しく、彼は『情』を持っていた。それだけのことなのだろう。
「んー……」
それはとても――
「ん、やめた」
もう、過ぎたこと。
何も知らない大学生に戻れないことと同じように、仕方のないこと。
今の一葉はただ必死に生きていて、どこかの世界であのひとも健やかであればそれでいい。
今はただ、そう想うだけ。
「寝よ」
明日もまた1日が始まるのだ。
居候らしくするためにも、余計な考えに時間を費やして時間を浪費すべきではない。一葉は布団に潜るのだった。
「恋仲……ですか」
月光により蒼白く染まった部屋で、窓を開けて市街地を見下ろしているウィン=ヴァル=フォレイン伯はそっとため息を吐いた。
(眠り損ねましたか)
今夜は満月である。
市街や遠くの山々などに月光が満ちる様はどことなく静謐で、彼の知っている王都と同じとは思えなかった。案外これも一種の異世界だろうか、などと彼にしては埒もないことを考える。
手にあるのは対の短剣。
王から管理を任されたこれは、『召喚』された彼女の供・コマイヌ。
何となく片方の鞘を払い月の光にさらしてみる。
光を反射する鋭い剣はどことなく持ち主を彷彿とさせた。
彼女を一目見て、ウィンは驚いたものだ。
15歳になった王女と同じほどの少女が、黒色に誤魔化されてはいるが大量の血を含んだ服を身に着け、血の匂いを漂わせていたのだ。あれは本人の血と返り血だろう。そのような環境にいたのだから、無害だと保証できるはずがない。
そして彼は警戒した。
彼女はあり得ないほどに強大な魔力をその身に宿していたのだ。そんな存在がよりにもよって『召喚獣』として喚びだされたのだから。
この剣の主は、一体どのような経験をしてここにいるのか。ウィンの胸には常にその疑問があった。
庶民というには何事にも気後れの見えない彼女。確か、最初の召喚より前は何ということない平民だったと言っていたのだが。
警戒から一筋の興味へ変化したのは2度目の謁見。のらりくらりとしたそれまでの態度を一変させ、一瞬にして凛として迷いのない表情と空気を纏ったのだ。それは、外界の汚さをすべて拒んだかのような清浄さ。
わずか16の『少女』が身につけるには似つかわしくない威圧感で、反面、これ以上なくふさわしい潔癖さだろう。どのような環境があれば、ただの平民出身の少女があの様な人物へと変わるのか。また、変えられてしまうのか。
「恋仲……ですか……」
彼女を妻とすることはないだろう。彼はそれを絶対だと言い切れる。
確かに目が離せないとは思う。あの年齢に合わない陰りや、時々浮かべている途方もなく不安げな表情。近づけば離れ、離れれば近づいてくる彼女の立ち位置。それらが何故か、とても気にかかるのだ。王宮で人間関係の裏表を見て育ったはずの彼なのに。
とはいえ、ウィンは彼女を信用などしていない。
異界からの来訪者であろうことは、ウィン自身と彼の父が反証できない以上ほぼ真実だろう。しかしそれもそれだけのこと。
王家にとって、ひいてはミュゼルにとって役に立つか害をもたらすのかは、彼の抱いている興味とはまた別の話である。
だからこそ王女の行動を止めず、あえて利用されやすい状況に保っているのだ。
「さて、休むくらいはしておきましょう」
誰にともなく呟きながら、ウィンは窓を閉じた。
――そして夜に沈んでいく、それぞれの想いは――