Ex03 碧の石と黒の魔女と小さな王子様
「は? 私が? オラトリオ様の?」
「はい。アリエラ様はルーナさんだけでも大丈夫です。謁見の間には警護騎士だけでなく警備の騎士もいますし、いざとなればアレネアさんもエリシアさんも、コンラットも一緒ですから」
「はぁ……」
夏もこれからという碧の節白金の月初め。一葉は自分を呼び出した副団長——ノーラの前で、キョトンとしていた。
一葉といえば誰もが知る常識はずれの魔術士であり、その安心感以上に未だ根強い不信感を持たれている。それは苦労して今の地位を得た同僚騎士たちにほど強く、半ば強制的に任命されたアリエラ王女はともかく、大事な王子様の護衛を臨時とは言え任されるほどの地盤が無いことは一葉自身が理解していた。
生まれながらの貴族ではない一葉が、万事を権力だけで押し通れる訳がないのだから。
「すみません、私が呼ばれた理由がわかりません」
「私が指名して、アーサー王やアイリアナ様が承認したのだけれど……まぁ、仕方のないことかしら」
心から訝しげな一葉へ苦笑を向けると、ノーラは4本の指を立てた。
「ひとつは威圧感が無いこと。ひとつはオラトリオ様が見慣れていること。ひとつは権力に対して余計な欲をかかないこと。いちばん大切なことは、何が起こっても対処できること」
「あー……なるほど。確かに条件には合いそうですね」
本来であれば上官に対する否は認められないが、一葉の場合はその来歴や今の立場、その力を考えれば理由を伝えた方が面倒が少ない。
何しろ見た目はオラトリオの姉であるアリエラと同じほどで威圧感など皆無、むしろ度々顔を合わせる姉が自慢することで一葉を尊敬している。もちろん実力にも申し分なく、オラトリオには何があっても傷一つつけないだろう。権力に対しては忌避感すら持っている。
さらに言えば本来ならば存在しなかったという事実から、いざとなれば使い潰しても問題がない。本人に言うことは未来永劫ないが、あらゆる意味で実に”便利”な人材と言えた。
それが近衛騎士副団長としてのノーラがもつ、イチハ=ヴァル=キサラギに対する現在の評価である。
「では改めて通達します。イチハ=ヴァル=キサラギ。二日後の高い音の一刻から、長ければ低い音が鳴るまでの間。オラトリオ様の護衛にあたるように。アリエラ様もまた承諾済みです」
「かしこまりました」
最大限の真面目な表情で承った一葉へ、今度こそノーラはその容姿に似合う優しい笑顔を見せた。
「無理を言いますが、よろしくお願いいたしますね」
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
きっかけは1人の女性騎士による寿退職だった。それ自体は実に円満であり仲間たちの大半が祝福して退職していったが、その職務内容が問題であった。
副団長であるノーラは第一王子・オラトリオの警護騎士でもある。基本的に相棒を持たないノーラはオラトリオの警護に当たる時間だけ彼女を相棒としていたのだが、とうとうその引き継ぎができないうちに退職の日を迎えてしまったのだ。
何しろ近衛騎士に所属する女性たちは皆、生まれてこの方剣を握り続けて来たような人種である。そのうえ未だ男性がはるかに多い職場において、舐められないように気を張らざるを得ないのが現状だ。有り体にに言えば、下手な男性騎士を近づけるよりも子供が怯えるのだ。
子供の扱いがうまい女性騎士がいないこともないが、双子の騎士を筆頭とした彼女たちはほとんどが平民出身で、年下の相手をしなければならない経験があったからこそである。
単なる警護、それも臨時であっても幼い王子へ与える影響はゼロではない。身分由来の煩い声が上がるのは想像に易く、単なる臨時ではその声を跳ね除ける手間がノーラは面倒だった。かと言って下手な貴族出身者を選ぼうにも別の問題が持ち上がってしまうだろう。騎士の立場が政治に影響しないという方針は残念ながら表向きでしかなかった。
”王妃の警護”として双子をなし崩し的に同行させようにも、今回の謁見はアイリアナの出席が必要な相手であるため建前が使えない。
困ったノーラが目をつけたのが一葉だった。
「今日一日は、私もオラトリオ様の護衛騎士になりました。よろしくお願いしますね」
「はい、よろしくおねがいしますっ!」
普段は姉の自慢話でしか聞かない憧れの騎士が目の前に、1日だけとはいえ自分の騎士となる。オラトリオは子供特有のキラキラした目で一葉を見上げていた。
アリエラやアイリアナとは違いオラトリオ相手にはきちんと”様”をつけて呼ぶ一葉に、小さなオラトリオが浮かべた微妙な諦めが彼女の印象に強く残る。それに何らかの反応を見せるより早く。
「良かったですね。それでは今日もお勉強に参りましょう。先生がお待ちですよ」
「はい!」
くすくすと笑うノーラや侍女たちに腹を立てるでもなく、むしろ自分のいいところを見せるのだと気合を入れてオラトリオは立ち上がった。弟の幼少時や親戚の子供を思い出し、一葉は目を細める。
(幼稚園児が難しい勉強かぁ……大変だねぇ)
一葉もまた幼稚園という教育機関に通っていたが、ほとんど遊びまわった記憶しか無い。感心をしつつオラトリオの勉強部屋へ着いて行き、邪魔にならないように壁際で控えた。
時折得意げに振り返る金髪の子供は一葉の知る王女様とよく似ている。とても眩しいものを見るように目を眇め、一葉は知らずうちに浮かべた笑顔のまま頷きを返した。
淡い表情はすぐに消え、すぐに元の読めない顔へ戻る。そしてそれは、張り巡らせた糸へ何かがかかった瞬間も変わることはなかった。
(んーっと?)
横目でちらりと伺えば同じように優しげな笑みのノーラが軽く頷くが、しかしその目は笑っていない。一体どういった手段なのか、彼女もまた、湯水のように魔力を使う一葉と同じ精度で”獲物”を感知したらしい。
(ではでは、やっちゃいますよ、っと)
軽く魔力をぶつけても反応が無いことから、どこぞの公爵の息子ほど馬鹿げた潜入力や攻撃力を持ってはいない。それを読み取った一葉は部屋に話し声や笑い声が満ちるタイミングで『墜ちろ』と小さく呟いた。
一葉という普段とは違う体制への軽い探りだったのだろう。その身に電撃を通された”それ”の気配はあっけなく消え、穏やかな時間が戻る。
(こんな子供まで日常的に探られて狙われるなんてねぇ。やだやだ)
ふぅ、と息を吐き出してすぐに、もうひとつの不穏な空気。何かとゴタゴタしている現状、今すぐではなくとも小さな王子をどうにか弱らせたいという悪意が形をとっているらしい。アーサー王やアイリアナ、弱くとも発言権を持つアリエラほどではないにしろ、オラトリオの周りでも頻繁に不審者が飛び回っていると聞いた。
今日を乗り切れば当分はアイリアナの手が空き、双子という騎士が控えることになる。その間に別の騎士をゆっくりと選別するとノーラは笑っていた。だからこそ今日中にこちらの懐へ食い込み、そのまま時機がくるまで待つつもりなのだ。一葉を弱点と見ていることが丸わかりである。
(舐められたもんだわ)
一葉に対してだけではない。内部情報を流せるということは、近衛騎士が自分を捉えることはないと思っていることも示しているのだ。
もちろん一葉には、許されざる者のひとりたりとも通すつもりはない。子供は子供らしく遊んでいればいい。それが一葉の持論でもあった。子供ながらに余分な気配が無いことを理解してか、今まさに一葉の目の前でのびのびと笑っているオラトリオの邪魔をさせはしない。
何よりも、オラトリオに何かあれば自分を信用して送り出してくれたアリエラや負担をかけているレイラに申し訳が立たないだろう。
一葉は心持ちも新たにしっかりと立ち直した。
決意をしたときというのは巡り合わせが悪いもので。午前中に2、3件の不審な気配を察知した以外は何事もなく時間が進んだ。そのまま1日が過ぎれば問題は無かったのだが、残念ながら事件は昼食後、高い音の四刻を少しばかり過ぎた頃に発生する。
「少し窓を開けておきましょう」
ノーラはそう言うと侍女たちへ合図し、オラトリオの私室にある広い窓を開けさせた。遮るものが何もないために直で光が射し込み明るいが、夏の盛り、しかも幼い王子には少々厳しい気温でもある。
とは言え専属でもない一葉が護衛以外で余計な魔術を使うわけにもいかず、結局はいつもどおり薄いカーテンのようなもので光を遮るばかりだ。本人も慣れているのか周囲の状況を理解しているのか、取り立てて我儘を言う素振りも見せずに平然としている。子供とは思えない我慢強さに一葉は頭が下がるようだった。
「イチハにみせたいものがあるのです」
「何でしょう?」
一葉が内心で感心していることを当のオラトリオが知ることはない。ノーラのような笑顔ではないものの目元を柔らかく緩めている騎士へ、文机から何かを取り出したオラトリオは嬉しそうに手を差し出した。
「あねうえからいただきました。おでかけさきで、みつけたのだそうです。ぼくのめとおなじだって」
それは確かにオラトリオの瞳と同じ、碧色をした石だった。ぎざぎざゴツゴツとした外見のそれはオラトリオの拳を縦に三つ並べたほどの長さで、太さはちょうど彼が握れるほどだろう。見るからに鉱石といった形は確かに男の子が好みそうだと、一葉は弟の幼少時代を思い出す。
ニコニコと笑うオラトリオはそのまま窓辺に寄り、一葉とノーラへ手招きをした。
「ほら、こうしておひさまにあてると、ぼくとあねうえのめみたいでしょう?」
「そうですね。同じ色です」
明るいだけではなく、不純物が混じるからこその複雑な色。確かにそれは、好奇心に煌めく彼ら姉弟の目の色とそっくりである。微かに笑んだ黒髪の騎士の言葉へこちらは満面の笑みを浮かべ、碧の目の王子が振り向こうとしたその時。
「あっ!」
「オラトリオ様!」
ちょうどいいタイミングで吹き込んだ強風、そして舞い上がったカーテンに煽られ、オラトリオは足を縺れさせた。
大きな窓の外には広いバルコニーがあり、バルコニーにはしっかりとした柵が取り付けられている。転落しないようにはなっているが心配は別の話で、侍女たちは小さな王子のもとへ慌てて駆け寄った。
ノーラもまた床の上でキョトンとしている王子へ歩み寄るとその体を観察し、特に怪我が無いことを確かめる。ノーラがオラトリオ付きの護衛であることは、彼女がディチ家出身で医療の知識があることも関係しているのだ。
「お怪我は無いようですね」
「びっくり、しました……」
突然のことにオラトリオは大きな碧眼をまん丸にしている。驚きで手を握ろうとしたときに初めて、彼は自分の手の中に宝物が無いことに気づいた。慌てて見回せば、目的の石はバルコニーの端。
「たからものが!」
「転んだ拍子に飛ばしてしまいましたか」
一葉がその石を回収しようとしたその時、再び強い風が吹き付ける。夏の盛りだからか、山を背負いつつも平原にある王都の立地ゆえか、今日はどうやら風の強い日だったらしい。
「うわっ!」
慌てて腕で顔を覆う一葉の背後でも、同じように王子をかばう侍女たちの声がする。それも一瞬で、風が止んだバルコニーを見た一葉は眉を顰めた。そこにあったはずの碧石が消えていたのだ。2回目の強風でバルコニーから転げ落ちてしまったのだろうと、部屋に無言が訪れる。
「……だいじょうぶ、です」
ちょっとざんねんですけど、とオラトリオは笑う。
「あの」
「失礼いたします。アイリアナ様、アリエラ様がお見えですが」
「はい、とおしてください」
一葉が何かを言いかけたと同時に扉を守る騎士から声がかかり、彼女はそのまま言葉を飲み込んだ。その黒い瞳が見つめる先で、小さな背中はまるで何事もなかったかのように振舞っている。
——イチハ、お願いがあるのです。
母であるアイリアナの公務が終わったため1日警護任務は完了し、一葉は即時アリエラ付きの騎士へと戻った。
何も言わずに普段通りの様子を見せていたオラトリオだが、母や姉にはわかってしまったのだろう。母は普段よりも息子を気遣い、姉は私室へ戻るや否や、全てを知っている騎士に話を聞いた。
——今日はあなたが戻るまで、何があってもここから離れません。だから
話を聞いたアリエラは何事かを考えると、一葉をまっすぐに見つめる。騎士が灰金の相棒を見やれば、相棒もまた軽く頷いていた。
——いいよ。大丈夫。私も、そのつもりだったから。
本当ならばこれは騎士である一葉に頼むことではない。職分ではないからだ。自分の判断で護衛をひとり外すことも褒められたことではない。それができるのはアリエラの腕に強力な防御の術を込めた白金の華奢なブレスレットが揺れているからであり、それすらも一葉の力の賜物である。
侍女に頼むべき事柄を一葉に頼む理由は、アリエラ本人にも明確には言えなかった。だが何となく侍女ではどうにもならない気がしたのだ。裏打ちの無いただの勘のせいで一葉にとっては雑用を押し付けるため、アリエラは手をぎゅっと握って緊張に耐える。
だが、一葉はその碧の目を見てにっこりと笑った。
——私が、アリアの代わりにあの石を探してきてあげる。諦めてるオラトリオ様に返してあげるためにね。
——ありがとうございます。どうぞ、お願いします。
頭を下げることはないがその内心はよく知っている。無言で会釈をしてくる相棒に一葉もまた目礼を返して、一葉はその部屋から足を踏み出した。時刻は高い音の5刻、扉を守るのは頼りになる先輩騎士達だ。事情が聞こえていたのだろう、笑顔で送り出してくれる。
皆、あの姉に似て素直な性格を持つ小さな王子が、何かと我慢をしてしまう金色の子供が心配なのだ。
「さ、ってと……どこを探したものか」
右の人差し指で顎を数回叩きつつ、一葉は城内の地図を思い浮かべた。オラトリオの部屋、そのバルコニーと地面との間にバルコニーを持つ部屋は。
「なんていう偶然」
一葉の義兄・ウィンの部屋が、条件に合致した。探し物が無い可能性の方が高いが、見つかれば幸運だろう。ひとつ頷くと即座に目的地へ足を向けた。
「バルコニー見たいんだけど」
「は? バルコニーを?」
「そう。碧の石を探しててね。だから飛びそうな紙があったらちょっと片付けて」
本は平積みの塔をつくり、紙は広がりカーペットの代わりとなっている。ここのところ紋章魔術の研究を始めたからか、訪れた部屋は想像よりも遥かに物が散乱していた。
突然の来訪と突然の”ワガママ”、そしてそれらの位置を変えなくてはならないことにウィンは無言で難色を示している。しかし一葉が目的のための名前を出さないことと自分の部屋を選んだことで何事かを読み取り、無言で部屋をさっと片付けた。
「これでいいでしょう」
「さんきゅ」
あらかた片付けが終わったところで、ようやく一葉はバルコニーへ出ることができた。
「んんっ……やっぱり無いかぁ」
「まぁそういった幸運と貴女は無縁でしょうしね」
「そこ、うるさいよ!」
ぴしゃりと言い返した一葉の目に何かが引っかかる。目を凝らしていると、バルコニーの斜め下に鳥の巣があった。現在地から目算で20メートルほどのその中に、見慣れた碧色がある。
「あった!」
「おや? どこですか?」
「あそこ。鳥の巣の中」
「あぁ……確かに」
風に煽られ、木の枝や葉に滑ることで巣へと流れ落ちたのだろう。思いのほか簡単に見つかったことでホッと息を吐き出した。
「助かったわ」
「貴女が素直に礼を言うは……と、言いたいところですが、貴女は基本的に子供に甘いですからね」
「いい子相手に限るけどね! どこかの宮廷魔術士みたいな素直じゃないのはノーサンキュー」
いい笑顔で言い放った一葉へ、その言葉を理解し切れてはいないものの何かを感じたウィンもまた満面の笑みを浮かべている。
「一体誰のことでしょう」
「さぁてね。おにーちゃんのこととは言ってないよ。じゃ、行くわ」
「はいはい」
肩を竦めて見送るウィンを背に、一葉は再び廊下へ出た。
一階に下りた彼女はエントランスとは別の入り口から表に出ると、先ほど見つけた木へと歩み寄る。ウィンの部屋から見下ろした限りはそう高く見えなかった木は、地面から見上げるとしっかりとした太い幹による立派なものであった。
指揮権等の問題で一線を引いている近衛騎士、その装備を身につけている見知らぬ小娘へと送る好奇や敵意の視線を、彼女は意図的に無視をする。2度にわたるロットリア卿の事件も、それを解決したのは一葉であることは存外知られていない。噂話は単なる面白おかしい噂話でしかなかった。
彼女が何も気づかない風で木の幹を数回叩いていると、後ろから聞き覚えのある声がかけられた。
「おや、イチハさん。どうしましたか?」
「え?」
振り向けば、そこにはいつもの笑顔を浮かべたトレスがいる。衛士たちの訓練に救護要員として参加していたのだろうか。見知った、それも好ましく思っている相手の登場に一葉は少しだけ目元を緩めた。
「少し探し物を。木の上の巣にあるみたいで」
「木の上ですか。……ずいぶんと上にありますね。僕がいきましょうか?」
心配そうな顔で申し出るトレスへ首を振ると凹凸へ手をかけ、彼が何かを言う間もなく一葉はするすると木を上っていく。その速度に驚き、トレスは一葉の姿を見開いた目で追った。いくら身体能力が優れているとは知っていても、荒れていない手や薄い体から一葉は育ちの良い娘に見える。そのため彼女の周囲にいる人間はいつもその差分に驚かされるのだ。
だが実際は、王都生まれの衛士などよりよほど一葉の方が危なげが無いだろう。
「あれっ!」
「ありましたかー?」
「いえ、その……」
身軽な様子で飛び降りた一葉は、トレスへと困った顔を向ける。誰が見ても困っているその顔から、一葉が普段よりも戸惑っていることがトレスにはよくわかった。
「ウィンの部屋から下りてくるまでの間に、探し物がなくなっていました」
「ちなみに何をお探しか、聞いても大丈夫ですか?」
あまりにガッカリした様子で、ついトレスはそう声をかけていた。
「あの、碧色の石です。大きさは私の手のひらより少し大きいくらいで、こう、見るからに男の子が好きそうな」
「あぁ。オラトリオ様の”たからもの”ですか」
トレスは合点がいったように頷いている。オラトリオの護衛であるノーラは彼の姉でもあるため、そういった細々した話を聞く機会があったのだろう。また彼はオラトリオが一葉のことを気に入っていることも知っているため、そちらからの推測でもあった。
「はい。見せてくださる時にちょっとした事故があって、落としてしまって」
「代わりに探しているんですか?」
「もういいんだ、とは言っていましたけど……あのくらいの子にとって、宝物って特別ですし」
まるで自分が大切なものを失くしたような一葉の様子にトレスは考える。
権力の中心で欲望を向けられているにもかかわらず奇跡的なまでに素直な姉弟。そんなアリエラやオラトリオと同じように、一葉のこともまた手助けをしてやりたいくらいには、トレスは一葉を気に入っていた。
「そうですねぇ……少し、待っていてください」
その内面を言葉にすることは無いのだが。
訓練場へと歩いていくトレスを見送りつつ、一葉は次にどこを探そうかと思案する。
(どうしようか……あの巣の持ち主が持って行ったのか、猫が持って行ったのか……探そうにも目印が何にもないんだよなぁ)
次につなげたくともヒントが途絶えてしまった。これが人間だとすればその性格や日課により幾分の予想をつけることが可能だが、相手は主義主張のない無機物である。城内に似たような物体は数え切れないほど存在するため、一葉の強い味方である『コトダマ』も、目印をつけていないただの無機物相手では手の施し様が無かった。
(でも、わがまま言わない子供が泣くのも見たくないしなぁ)
オラトリオにはオラトリオの立場がある。それを本人も理解しているのだと一葉も分かってはいるが、それでもこのような些細なことならばどうにかしてやりたいと思ってしまったのだ。
「イチハさん」
眉根を寄せて考え込んでいる一葉の元へとトレスが戻ってきた。その表情は離れていく前よりもいくらか明るく見え、一葉は小首を傾げる。
「何かありましたか?」
「はい。近くで訓練をしていた衛士に聞いたところ、黒い猫が碧色の何かを咥えて城の方へ走っていったそうですよ。咥えていた物が何だったのか、詳しいことはわからないそうですが」
「えっ!?」
「最近話題の”黒”ですからね。つい目で追ってしまったそうです。急げば、見かけた侍女がまだ近くにいるかもしれません」
からかい混じりの助言へ苦笑を浮かべると、”黒い瞳”の魔術士は頭を下げた。
「わざわざありがとうございます。急いで追いかけてみます!」
「はい。がんばってくださいね」
トレスの応援を背に、一葉は城へと足を向ける。トレスが事情を説明したのだろうか、その背に投げられた視線から厳しい色がほんの少しだけ減っていた。
自分のくじ運の悪さを、如月一葉は非常に正しく認識している。
(さっきから聞く人聞く人、全部違う……)
王城の正面ホールの片隅で、焦げ茶の髪の近衛騎士は深いため息を吐き出した。トレスの助言通り通りかかった人間へ話を聞いてはみたものの、全てハズレ——今通りかかった人間のみであった。警備の衛士も先ほど交代したばかりで、前の人間の所在地は今すぐに答えることはできないという。
「あーもー、本当にどこ行っちゃったかな!」
その時、頭を抱えて唸る彼女の聴覚が小さな声を捉えた。
「んん?」
小さく細い声は猫のもの。しかし周りを見回したところで、その姿はどこにも見当たらなかった。
「っかしーな、聞こえたんだけど……」
首を傾げながら注意深く観察を続け、彼女はようやく目的の生き物を発見する。聞いていたとおりの黒い毛並みを持つその生き物は、離れた場所にいる一葉にもまだ子どもなのだと分かった。
「うわぁ、どうやって上ったのよ」
玄関ホールから繋がっている吹き抜けの天井近く、装飾のために渡された梁の上に猫がいる。ほぼ正方形の吹き抜けの対角線をつなぐ細い足場は仔猫1匹がようやく通れるほどで、進んだはいいものの身動きが取れずに立ち往生をしていた。
「石は……あぁ、持ってそうだな」
駆け上がりはせず、しかしできるだけ急いで5階まで上がると、一葉は猫のすぐそばにオラトリオの宝物があることを確認した。
建設の時には足場を組んだのか魔術を使ったのか、とにかく梁の中央に彫刻があることから、どうにかしてその場所へ向かう手段はあったはずだ。しかし今、その手段は無い。仔猫の声が聞こえていたらしく侍女たちのすがたもちらほらと見られるが、彼女たちにしても一葉にしても、城内の安全上そう簡単に魔術を使うわけにはいかなかった。
「ちょっと、落ちそうなんだけど!」
「衛士呼んだほうがいいかしら……」
ひそひそとした声は、しかし一葉へと向けられている。近衛騎士の装備のまま歩き回っているため非常に目立つのだ。白い胸当てと青い上衣は、見てくれは自分たちよりも幼い一葉でも危険を任せるに足ると納得させるくらいの力を持っている。もちろん衛士や騎士と違い戦闘などの荒事を専門としていないからこそ敵意ゼロ、そして丸投げ、とも言えるのだが。
(猫の声が小さくなってきた。梁は……ちょっと角が丸くなってるのかな? 足場が狭いから体力が切れたら落ちそう)
問題はどう回収するか、である。一葉の目的はオラトリオの石だが、だからと言って仔猫を見捨てて回収はできないだろう。いつの間にか人の増えたこの場で非情な選択をすれば、即座に人の口にのぼる。英雄譚とまではいかないが、胸を張って報告できない手段は子供の手前選ぶ気などなかった。
だが一葉の目的はあくまでも碧の石である。小さな生き物よりも優先するとは言えないものの、そこに現物があるにもかかわらず諦めることもまた具合が悪かった。
日本ではよく見る刺股や網のついた棒もこの世界には無く、あったところで短すぎて届かない。
(術使うわけにいかないしなー)
非常時ならともかく、騎士であってもヒラの、しかも新参者の一葉が勝手に城内で見てわかるほどの術を使おうものならば大問題である。
(ベストは、あの子が石を持ってこっちに来てくれることだけど。……まぁ無理か)
ならば仕方が無い。少々怖い思いはさせてしまうが、脅かして無理にでも動かす他に一葉が取れる手段は無いようだ。
大きな音——『狛犬』の柄を吹き抜けの柵へぶつけて大きな音を響かせようとしたその時、事態は大きく変化した。
「あっ!」
「落ちる!!」
「ちょっ!?」
ついに仔猫の体力が限界に達し、その小さな黒い体をぐらりと傾ける。焦りのあまり短い四肢を滅茶苦茶に振り回して、傍らにあった碧の石とともに宙へ投げ出された。
(どうする——!?)
考える速度に間に合わず、体感時間が引き伸ばされる。
確かにかかっているのは人命ではない。それでも。大げさと言われればそれまでであり偽善と言われれば頷く他ないが、一葉はあの石に関わる存在の命を失わせたくはなかった。
「許可します!」
「——っ!」
誰のものかもわからない”許可”を背に、一葉もまた手すりを飛び越えた。
たとえ周囲に影響を及ぼしたところで気にせず『コトダマ』を使えば良かったのだろう。しかし咄嗟の手加減に不安を持つ一葉は、飛び降りることにこそ躊躇が無かった。
宙を舞う一葉の視界には猫と石がバラバラにあり、猫を選べば石が、石を選べば猫が地面へ叩きつけられるだろう。仔猫は言うまでもなく、見るからに鉱石だという細長い形のそれもまた、叩きつければ粉々に割れるはずだ。
(ごめんなさい!)
——迷いはしない。
『間に合え!!』
”異界”の叫びが響き、自分の軌道を変えた黒い瞳の魔術士は手が届いた生き物を引き寄せる。4階、3階、頭から落ちる1人と1匹にもう猶予はない。
仔猫を強く抱き込み、一葉は頭上になった地面をキッと見据える。
『緩衝・ゼロっ!』
残り1階分——およそ3メートルの高さで『コトダマ』を発動し、一葉はギリギリの高さで落下を緩めてどうにか体勢を立て直した。その目の前を碧の石が落ちて行き。
——地面に叩きつけられる直前で、白い手のひらへと吸い込まれた。先端が鋭い鉱石を一瞬で横から掴み取ったその手には、一つの傷もつけられていない。
吹き抜けの5階、そして各階から見下ろしていた全ての人間からホッとした息が漏れ、歓声が上がる。その渦中にいたのは偶然か必然か、一葉のよく知る人物だった。
「ずいぶんと素敵な”おもちゃ”ですね」
その場にいたのは長い銀髪を背中で三つ編みにした長身の女性——イチハ=ヴァル=キサラギの侍女、サーシャ=デリラである。
「うわマジでナイスタイミング! サーシャさん、ほんっとに助かりました!! 思わず飛び込んじゃって、冷静に考えたら『コトダマ』を使えば両方いけたんですけど、でも手加減きいたか分かんなくて!」
「それは、ようございました」
どこかの秘書のような服を纏った彼女は黒猫を受け取り、石を一葉へと手渡した。恐怖か疲れかぐったりしている仔猫を軽く撫でて、ふわりと笑う。
「何があったかは存じませんが、それをお探しだったのでしょう?」
「はい! よくわかりましたね」
「少しだけトレス様のところに伺っておりましたので」
そうか、と納得した一葉へ、少しだけ何かを考えていた様子のサーシャが口を開いた。
「イチハ様、申し訳ありませんがもう少しだけお暇をいただけないでしょうか」
「え? はい、いいですけど……」
自分の侍女には休みがないのではと疑うほどだったため異存はないが、ずいぶんと唐突すぎる気がして一葉は小首を傾げる。微かに笑を浮かべると、サーシャは手の中の小さな生き物をもう1度撫でた。
「この子は恐らく野良でしょう。他の侍女たちも興味があるようですし、預け先を探してまいります。王城の敷地まで入り込めた豪の者、家が決まればすぐにでも慣れることでしょう」
「あぁ。よろしくお願いします」
「イチハ様? お言葉が大変乱れておいでですよ」
サーシャは侍女であり、一葉はその主である。先ほどからそれを意識していない一葉の度重なる口調に、優秀な教師からとうとうお叱りを受けてしまった。しかもわざわざ普段より丁寧な言葉遣いで、である。
サーシャはじっと見つめた末に仕方ないとでも言うような表情で頭を下げ、サッと踵を返してどこかへと向かい去って行った。
「きびしー」
ぽつりと呟いた声は雑音の波に消える。夕刻に起きた事件の空気も落ち着き、ミュゼル王城のエントランスホールと吹き抜けから見物人の姿はほとんど消えていた。
さて帰るかと一葉もまた振り返ると、ちょうど吹き抜け中央に伸びている大階段からノーラが下りてくるところであった。一葉の脳裏に声が過る。
「……あぁ! あの声、ノーラさんだったんですね」
「はい。アリエラ様から連絡をいただきましたので、護衛をコンラットに任せて少しだけ様子を見に。ちょうど良かったみたいですね」
「はい。おかげで勢いがつきました」
よくよく考えなくとも一葉に魔術の許可を出せる人間はそういないのだが、その思考も全て猫に集中していたのだからと一葉は自分へ言い訳をする。それを誤魔化すように碧の石をノーラに差し出せば、ノーラもまた金色の目を優しげに細めつつホッとしたように息を吐き出した。
「さすがのキサラギさんでも、今回ばかりはどうにもならないかと思いました」
「私もそう思いました。サーシャさんがいてくれたからこそ両方無事で……危なかったです」
「いいえ、これは結果が全てですよ。オラトリオ様もお喜びになるでしょう」
仔猫と石、両方を守れたことがノーラにとっても正解だったらしく、手放しの賞賛が一葉の背にむず痒い。
唇をむずむずとさせてノーラから視線をそらした一葉は、もう一度上司の手にある石を見つめて閃いた。
「ノーラさん」
「何でしょう?」
「あの、その石をもう一度借りてもいいです? あと、もう少しだけ術を使いたくて」
「術の内容にもよりますが……」
「んん……あの、オラトリオ様のためになるとだけ」
警護担当としては正しい言葉で、しかし一葉は口を濁す。目の前の娘をじっと見つめた後にノーラはそっと石を手渡した。
「ありがとうございます」
それは今の信用か、新参者たる一葉へと大事を任せてくれたことか。魔術士は何も言わずに手のひらで石を包み込むと唇を寄せ、そっと呟きを落とした。
一度は手からこぼれ落ちたものが再び戻る。その”奇跡”に、失くしてしまった寂しさを我慢していたオラトリオが大泣きしてしまったこと。何度も礼を言っていたこと。そんな後日談がノーラや双子の騎士、そして一葉を送り出した本人であるアリエラの口から、功労者たる一葉へと届けられるまであと少し。
ノーラは結局、一葉が碧の石に込めた術を本人の口から聞くことはなかった。それは後から考えればとても短い期間で一葉が帰還した後、唐突に判明することになる。
「っ、なぜ! この時間帯は人がいないはず」
「うるさい! お前のおかげで迷惑してるんだ! 急に来やがって!」
「何もしてない!」
「話は後でじっくり聞かせてもらう」
「なぜこんなに早く見つかるんだ!? 話が違う!」
「こっちには魔女の術があるんだよ!」
「魔力が吸い取られて……」
「吸い取られて死んだ方がマシだったかもな」
オラトリオの私室へ忍び込む者は、即座に発見される。それが夜中であっても昼間であっても、本人が在室でも不在でも。一葉のかけた術は複雑に絡み、オラトリオの宝物に込められていた。
他人を害する意思を持つ者が範囲内に足を踏み入れたら、悪意で圧力を増した魔力を引き金に仕掛けが発動すること。魔力を吸い取り増幅し、本人とオラトリオ以外で近くにいる人間へぶつけること。それがいくら寝入っていても飛び起きてしまうほど不快であること。オラトリオが10歳の誕生日を迎える日まで維持すること。効果範囲は半径15メートル——宝箱からオラトリオのベッドまでを覆う距離。
——せめて10歳までは。
近くの人間へ突然悪意の魔力をぶつければ、それだけでアラームになる。子供は少しでも子供らしく安全にいられるように。ノーラは石を返す一葉の呟きを聞いていたが、王や王妃、宰相や騎士団長以外には何も言いはしなかった。
「おやすみなさい、オラトリオ様」
「うん、おやすみノーラ。また明日」
何もしらないゆりかごの中で、今日も明日も子供は育つ。アーサーが、アイリアナが、アリエラが望むように、ノーラが望むように、一葉が望んだように。オラトリオは優しく賢く強く、そしてのびのびと生きていた。