Ex02 慎二とまほうのせかい
どうやら自分の姉は、ただ者ではないらしい。
慎二がこのミュゼルにやってきてから2日。正確に言えば24時間と少し。様々な仕事の見学、そして姉に”魔力”という見えない流れの読み方を徹底的に叩き込まれた2日間は光のように過ぎ去った。
午睡といえば優雅だが、単なるうたた寝から目覚めた慎二はぼぅっと思考を巡らせている。
(見学はまぁ、普通に勉強になったけど)
姉とサーシャが紹介してくれた人々の仕事は現代日本にはありえない。しかし仕事に対する精神的なものは同じだと慎二は感じていた。
人間が行う作業である以上、得意不得意の差は間違えようもなくある。だがそれとは別次元の話として、彼らは例外なく“自分の仕事”への誇りを持っていた。彼よりも年下の者も多く、さらにその中には人を束ねる者すらいる。そんな彼らの日本の同年代とは違うあり方が、慎二には非常に眩しかった。
姉は約束を守った。どこか心の深い場所にあった将来への不安が小さな流れとなり、少しずつ動き出している。彼は非常に有意義な時間を過ごすことができていた。
(で、だ)
その感謝と同時に思い出したくない過去もまたある。身も知らない想像上の産物である”魔力”へ慣れる訓練は、感謝が吹き飛びそうになるほどに大変なものであった。
ところで姉の一葉は普段は飄々としており何事も柳に風とばかりに流す性格だ——と、思われがちだ。しかし慎二は知っていた。姉は存外、鬼畜である。
(受験を思い出すなぁ……。あの時もやっぱり泣いて縋っても許してくれなかった)
高校の一般入試というある意味では人生をかけたテストまであと2ヶ月に迫る、中学3年生の冬のことだった。
それまでの慎二は普段のテストで常にそこそこの成績を保っていた。それをいいことに遊び呆けていたせいで2学期の途中から成績を落とし、一時は高校進学すら危うくなる。その危機をギリギリで救ったのが3歳上の姉だった。
(救われた、っていうのは確かなんだけどなー。素直にそうは言いたくねぇなぁ)
遊び呆ける弟へ腹が立っていた一葉は自分の大学をさっさと決めるや否や、慎二の教育に——正確に言えば矯正に手をかける。タイムリミットを過ぎても呑気に過去の栄光を見て安心していた慎二へ現実を叩きつけ、プライドを粉々にへし折り、勉強を面倒と思っていた慎二が一葉の顔を見た瞬間に机へ向かうよう”再教育”してのけたのだ。両親は一葉が本当にやりすぎるまでは手を出さなかった。
(おかげで、必要なことは自分でちゃんと勉強する癖がついたけどな)
願わくば一生あのような生活に戻りたくない、と思っていたにもかかわらず、たかが5年と少しで再びその機会が訪れた。人生とは分からないものだと慎二は思う。
第一段階として無理やり魔力を感じ取れるようにされた慎二へ、その張本人たる一葉が言い渡した指令はただひとつ。
——どんなことがあっても、私の魔力を見失わないように。
自分の中にある魔力を見つけること自体は簡単にできた慎二にとって、一葉の指示は簡単すぎるように思えた。どうやら中学時代の二の舞ではないようだ。息を吐き出してホッと笑った彼は、しかし次の瞬間には楽観視していた自分自身を殴りたい衝動にかられた。
まず目の前にいるはずの一葉の魔力を突然見失った。次に体へ電撃が走り、慎二は床へ崩れ落ちる。冷静に言えば単純な展開を慎二は理解することができなかった。もちろん命にかかわるような危険な電撃ではないが、静電気が全身に回ったのだ。ただただ、冗談抜きで痛かった。
——はい、一回。
——今日はあと何回見失うかなー?
——ねー、慎二くん。君が私の魔力を見失うたびに静電気が起きるように魔法をかけたからさぁ。
——寝る時とご飯中は勘弁してあげるから、せいぜい頑張れば?
鬼だ。彼は実の姉へ向けてそう思った。最終的に自分のためなのだろうから感謝するべきかもしれないが、それを慎二に分からせた上で乱暴な手段に出る辺り、慎二は姉を鬼だと思う。
「うーあー……」
取り出した携帯が示しているのは17:30で、1時間ほど寝ていたらしい。余談ではあるが昨日ミュゼルに召喚された直後、慎二の携帯を奪った一葉により現地の時刻を示すように改造されている。
「おや、起きましたか」
いつの間にか転がっていたソファから伸び上がると同時に、慎二へ向けて声がかけられた。ぼんやりとした目でぐるりと見回せば窓際に眼鏡の青年がいる。日の沈み始めでは室内の灯りはあまり意味がないため、充分に明るいそこで本を読んでいたらしい。装飾の綺麗な椅子に見合う優雅な仕草の彼は、本へ栞を挟むとこちらへ寄ってきた。
ウィン=ヴァル=フォレイン。何の因果か一葉の義兄となったらしい人物である。だが優雅な風情と似合わず案外整理整頓は苦手らしく、部屋のあちらこちらに本の塔が生まれていた。そのギャップもまたウィンの魅力と言えないこともない。
(爆発すればいいのに)
その内心を知らないウィンは、黒目黒髪で幼さの残る”少年”へ苦笑してみせた。
「お疲れ様です。魔力はだいぶ読めるようになりましたか?」
「あー……おかげさまで。無意識に姉の魔力を探すようになりました」
元の造作は言うまでもないが、そのウンザリした顔があまりにも似ていたためウィンはさらに笑みを深める。アーサー王やウィンたちから面倒ごとを頼まれた一葉も、先ほど同じ表情を残してこの場所を——ウィンの私室を出て行った。
残された弟はといえば本人の宣言通り魔力を追えているようで、見ているだけで痛々しい電撃を受けている様子はない。
「貴方がた姉弟は本当に常識はずれですねぇ」
「それ、褒めてます? 貶してます? それに俺はまだ姉ほどビックリ人間になった覚えはありません」
「褒めているか貶しているかという問いへの答えは、ある意味では両方です。我々の予想を軽々と越えてくれるのですから。びっくり人間、という評価については、言葉を控えましょう」
「嫌味ですねそれそうですか」
ウィンの微妙な言い回しへ慎二が言い返せば、それに軽い言葉が返る。姉がそばにいないことで無意識に緊張していた慎二は、ウィンから返るまるで姉へ向けたような言葉遊びへふっと唇を綻ばせた。
しかしそれは、次の言葉で凍りつくことになる。
「あぁ、そうそう。そろそろアリエラ様がこちらへ来ますよ。過酷な訓練で疲れが溜まっているでしょうが、用意をお願いします。主に心の」
「……は? え、それ」
「えぇまぁ、あちらから動くことは褒められたことではありませんねぇ」
肩をすくめてウィンは笑う。それはまるで”仕方ないなぁ”とでも言うような、柔らかいものだった。
「まぁ、護衛は連れていますから」
「えー……でもダメだろそれ」
つい口から出た言葉を止めるでもなく、楽しげにウィンは振り向いた。
「だ、そうですよ」
「あら、イチハだけでなくシンジにまで叱られてしまいましたか」
慌てて振り向いた先、開かれたドアのこちら側には煌びやかな金髪と碧の瞳をもつ王女殿下が満面の笑みを浮かべて立っている。その背後にはレイラと呼ばれた女性騎士がいることから間違え様もなく本人で、日本ではありえない貴人との邂逅に慎二は目眩がするようだった。
アリエラとその護衛であるレイラを部屋へ招き入れると、ウィンは手ずから茶を淹れた。アリエラはいわゆる”上座”に座りその正面にウィン、ウィンの隣には慎二。レイラは護衛という仕事柄アリエラの背後に立っている。
(あ、意外と美味い)
そんな慎二の感想を読んだようにジロリと紫眼を巡らしたがそれだけで、ウィンは何も言わずにカップを傾けていた。それぞれが一口ずつ飲んだところでアリエラが慎二を正面からとらえる。何か自分の一挙手一投足を観察されているような気がして、慎二は本当に居心地の悪さを覚えた。
例え私的な場所とはいえ果たして”何ですか”などと自分から尋ねていいものか分からずまごつく慎二だが、彼が覚悟を決めるよりも先にアリエラが口を開く。
「改めまして、ご機嫌ようシンジ。イチハの訓練が厳しすぎて体調を崩したと聞きました。お加減は?」
「あ、えーっと……その、疲れが溜まっていただけなので。少し寝たので大丈夫、です。ありがとうございます」
「そうですか。それは何よりですね」
慎二が王族はもちろん貴族とも出会ったことがないことは既に聞いていた。アリエラはふんわりとした笑顔を引っ込めると、悪戯を思いついたような笑顔を浮かべる。
「イチハにあなたのことは時々聞いていました。ずっと会いたいと思っていたのです」
「それは、何というか」
一体どのようなことを言っていたのやらと慎二は言葉に詰まった。顔に出ないくせに内心で慌てている慎二の様子が、アリエラには手に取るように分かる。彼女は目を細めると小さく笑い声を上げた。
「ふふっ、大丈夫ですよ。私にも弟がいるのですが、その関係で少しお話を聞いただけです。シンジがとてもいい子だと自慢していました」
「うっ……それもまた……」
「あなた方の国は、本当に実年齢と見た目に差があるのですね。イチハの時もそうでしたがシンジの年齢も驚きましたよ。
さて、それはそれとして」
それから王女は、何とも言えないままの異邦人から銀髪の魔術士へ視線を移す。
「ごちそうさまでした。そろそろ行きましょう」
「はい」
「え?」
座っていたアリエラとウィンはさっと立ち上がり、アリエラの背後に控えていたレイラがドアへと向かう。慎二は何事が起きたのか分からずとりあえず立ち上がった。
「そうでした、シンジ」
「え?」
「これを。イチハから預かっていました」
ドアから今にも出て行きそうなウィンが寄越した物に慎二の顔が微かに引きつる。彼の右手に乗せられたのは赤くて小さな円の石で、それは”ここ”に来る原因となったものに酷似——いや、今の慎二には分かる。それは同じものだった。
「こ、これ、なんっ」
「”お守りだから。一応持っておいてね”だそうですよ」
「……っす」
未だ魔術というものを教えられていない慎二では、これが一体何なのかは分からない。だがこの石には嫌というほどに追い続けた姉の力がこれでもかというほどに詰め込まれている。どうにもザワつく感覚と合わせて考えればただの石とは口が裂けても言えないだろう。
なんとも言えないまま、彼は受け取った石をジーンズのポケットへと落とした。
「で、どこにいく……んだ?」
私室へ施錠をして歩き出すこと少し、慎二は隣を歩くウィンへこっそりと声をかける。一瞬あいた間は、既に”タメ口”で話してしまっているため今更だ、と開き直るまでの迷いである。
現在位置をわかっていない慎二は前を行くアリエラたちに従うしかない。1階から5階までの高く広い吹き抜けを壁沿いにくるくると下り、1階へ到着したところでようやく声が返された。周囲に人の姿がないためかウィンは別段声を控えることをしなかった。
「訓練場ですよ。アリエラ様が衛士たちの訓練を視察されます。ちょうどいいので貴方も見ておくようにとアーサー王からのご命令です。とはいえ、貴方が命令に従う義務はありませんが」
「おー……ここまで連れてきておいてそれ言うか」
1階から再びよく分からない経路を辿り、4人は相変わらず石造りの廊下を歩いていた。窓はあるが見えるのは中庭のみである。もはや現在地からウィンの私室へ戻る道はおろか仮宿としているヴァル家への道も分からない。人の気配はあっても姿は見えないため人に道を尋ねることも難しい。だいたい、ウィンの私室へ戻ったところで鍵がかかっているのだ。
選択肢があると見せかけてよくよく考えるまでもない状況に慎二はため息を吐いた。
「姉ちゃん、よくここで生活できてたな……」
「心配しなくても貴方の姉は図太いですからね」
この調子で一葉も転がされていたのだろう。いや、もしかしなくとも今現在も同じく転がされているのだろう。奔放に振舞っているように見えて案外苦労していたらしい姉へ心の中で合掌し、慎二はウィンの言葉を聞き流すことにする。
「ここを抜ければ訓練場です」
後ろの会話が聞こえていたのだろう。笑いを堪えるようなアリエラへとても気まずい心境に陥った慎二は、次の瞬間に凍りつく。
(なんだ……なんだ、これっ!!)
全身の毛穴が広がったような不快さは間違いなく魔力由来のものだ。昨日、今日とで、今まで持っていた憧れを叩き潰すほどには魔力を感じ続けている。今も近くに姉がいることと自分たちの周囲を気持ちの悪い何かが取り巻いていることを、簡単に読み取ることができた。
「シンジ!」
遠くにウィンの声が聞こえる。くるりと視線を巡らせればウィンとレイラの背後にアリエラは庇われている。容易に手を出すことはできないことがわかった。
そう、これが何者かの攻撃であること。そしてその対象がアリエラまたは”慎二自身”であることを彼は悟っていた。
(そうだ、おかしいんだ。俺がここにいる理由は”王族を暗殺する”ため。なら、失敗した俺は)
この少人数で移動しているアリエラと慎二はどちらも美味しい餌に見えるはずだ。事実、今ここに一葉はいない。ウィンたちは慎二を助けようとしてくれてはいるが、それよりも慎二が”何か”に飲み込まれる方が早いだろう。
(嫌だ)
分かっていたように錯覚していた。召喚された瞬間に浮かべた、姉の絶望的な表情を。レイラたち騎士が本当の意味で”命がけ”で仕事を遂行することがあることを。日本という安全なゆりかごを出てしまえば命の保証など紙切れよりも軽いことを。
(嫌だ)
ずるりと、取り巻く魔力が慎二への距離を縮める。世界は自分に優しくない。今更のようなその事実を慎二は今、この状況になって初めてその身に刻んだ。見えない暴風が慎二を閉じ込める。
(嫌だ。死にたくない!)
視覚の色が消え、何を見ているのかもわからないほどに情報が溶け合い、五感が薄れるほどに頭をその叫びだけが占領した。魔力が喰われる幻を見る。召喚術を通してこの場に存在している彼にとって、魔力が喰われるということは命や体、存在そのものに対する脅威である。本能が悲鳴を上げた。
——死にたくない。死にたくない、死にたくない。
慎二の上げた純粋な死への恐怖に彼の魔力が反応した。慎二の燃え上がるような怒りに彼の魔力が反応した。もちろん死は怖い。しかし激情の理由はそれだけではない。
慎二が倒れれば一葉は確実に動揺する。それは王家から一目置かれている一葉を攻略するために有利だと、そう思われているのだろう。慎二は暗殺の失敗者や”如月一葉の弟”として扱われ、命を狙われている。慎二という個性は相手にとって関係がなく、ただの記号としての存在なのだ。脳が焼き切れるような怒りが彼の内側を渦巻いていた。
自分以外の全てへ対して”反撃”をするように力を溜める。力が膨れ上がり自分の手を離れ、それに対する恐怖もまた”反撃”へ上乗せされていく。どうしようもない状況に何もわからず上下も見失ったその時、ただひとつだけ”分かる”ものを見つけた。
それは色ではなく形もない、だが自分ととても近い存在。まるで振り上げた拳をそっと引き戻すように魔力を保護した力は、必死にすがりついて抱え込んだ慎二を外から守るように、爆発的に広がった。
「——あ」
視覚、聴覚、嗅覚、触覚による濁流のような情報に目眩を覚える。急激に情報の処理を始めた慎二の神経が追いつかなかったのだ。気づけば周囲を清浄な空気が取り巻き、あの気持ちの悪い魔力は駆逐されている。誰の力によるものかは考えるまでもない。
(ケータイ、出なきゃ)
度重なる非日常はあまりにも現実感がない。まるで日本での日常を取り戻すように、慎二はポケットの中で震えているスマートフォンを耳に当てた。
「もし、もし」
『無事?』
この場所での着信などただひとりしかあり得ないが、本来ならば着信自体があり得ない。だが今はその声で生まれた言いようもない安心を自覚していた。
「ん。なんとか」
『怖かったでしょ。ごめん。すぐ迎えに行くから』
「大丈夫だし。別に……何ともないし」
こちらの言葉も聞かないうちに通話を終了したところから察するに、慎二の姉はよほど心配しているらしい。まるで小さなころに慎二が迷子になった時のようで気恥ずかしい。それと同時に、昔は3歳上の姉がとても大きく見えたことも思い出した。
「やれやれ。いつもながら肝を潰しますね」
「全くですね。アリエラ様?」
「えぇ、問題ありません。ありがとうございます」
どこかぼんやりとミュゼル組の話を聞いているうちに、視界をひらひらと手が閃く。いつの間にか目の前には姉が立っていた。その顔は見たことのないくらい不安げで、逆に驚いた慎二を見てようやく彼女はホッと息を吐き出す。小さく微笑んだ。
「お疲れ様」
「……ん。説明、しろよ」
「わかってる」
ずっと自分のそばを離れようとしなかった姉がいなくなった途端、特に理由もなく王女が会いに来た。その上このような事件に遭遇したのだ。そこに何の意図もないと思えるほど、慎二はこの世界を知ろうとしなかった訳ではない。
「全部だからな」
「うん」
「なぁ、なんで携帯通じてんの?」
色々なことがありすぎて頭が混乱している。慎二は至極平凡な、しかし一番気になっていたことを尋ねた。
「私の術が私のイメージに依存してるから。スマホを”通話するもの”って思い込んで慎二を呼び出せば、それでうまいこと調整してくれるんだ。別にこの世界にアンテナが立ってるわけじゃない」
「なんて便利な」
呆れたように呟いた慎二が慌ててスマホを見てみれば”圏外”になっている。確かにアンテナは——少なくとも慎二が契約しているキャリアのアンテナは無いらしい。詳しく聞きたい気もしたが、理解できる気はしないため諦めて先を促すことにした。
「その辺はもう諦めるわ……。で? なんであんな事になった?」
「いや、さ。私が帰ったあと……というか、この世界にあった大事件のあとは、それどころじゃなかったから腐った貴族たちも大人しくしてたんだって」
「あぁ」
「けど2年も経ったからさ。そろそろほとぼりも冷めた、って勘違いした一部のお馬鹿さんたちが活動を再開したのね」
「それで俺?」
「そう。私が壊しちゃったから召喚術に必要な道具……慎二なら”触媒”って言った方が分かりやすいかな。それもかなり少ないし、そういう騒ぎが減ったから衛士のひとたちも騎士も油断してるだろうし。だから虎の子の触媒で召喚術を使ったんじゃないかな」
茶を飲みつつ一葉はそう零した。相変わらず部屋の主たるウィンの茶を入れる腕は意外なほどに良い。
「で、挙句にこれだもん。召喚はするし、失敗した途端に慎二。君を狙ってるのが昨日も今日も、すぐ近くに張り付いてたよ。別に放っておいても実害なんてほとんど出せなかったろうけど」
「なら何で……俺たち、明日帰るんだろ?」
「帰るよ」
幾分ほっとした慎二とは逆に、あまりに大きなことをあっさりと言い放った一葉は苦い顔をしている。
「うん、そう。帰るからいいかなーとか思ったけどさ。でも今のままだとアリアが危ない気がするし。慎二とアリアのどっちも守って敵を炙り出すならこれしかなかったんだ。それが王様たちの提案っていうのが心底悔しいけど」
言いながら一葉がじろりと視線を巡らせても、当のウィンは涼しい表情でカップを傾けていた。
もうひとりの被害者であるアリエラの方は、危険な目に遭ったことは事実であるため私室へ戻っている。レイラだけではなくサーシャも付いていることから一葉は安心して戻すことができた。
「もうね、めんどくさいわけ。色々と。なんか纏わり付く気配とかイライラするし、未だに良いように利用される自分も別にいいけどやっぱちょっと腹立つし。ちょうどいいから八つ当たりしてやったわ」
「八つ当たり?」
一体いつのことだろうか。慎二の疑問を汲み取った一葉は、わざとらしいほど晴れやかな笑顔を貼り付ける。
「どうせロクでもない方法で慎二を狙ってくるんだから、それを叩き潰せばいいと思って。どうせもう”保護”されてるんでしょ?」
「えぇ。無様に転がったところを”保護”して医務室に放り込んであります。もちろん、彼らの”安全”のために見張り……いえ、付き添いの騎士をつけていただきました」
「ちょっと。何から敵を守る気よ」
「怒り狂って加減を忘れた、稀代の魔術士からですよ」
しれっと言い放つ眼鏡の男と彼の言葉を大まかには否定しない姉に慎二は戦慄した。だがそれ以上に、続く言葉が恐ろしい。
「貴方を守るための術は恐ろしいものでしたよ。何しろ話が来た途端に計画を詰めに詰め、同行者と順路を王たちが引くほどに確認して防御魔術を規定し、詳しい条件はわかりませんが貴方が何らかの攻撃を向けられた時に魔術が発動するよう調整。さらには襲いかかってきた者へ力の流れを遡って巨大な魔力を叩きつける。
もし私が襲撃者だったらと思うと背筋が凍る思いですよ。本当に無防備なのに、一度攻撃をしたら何よりも堅固な壁を築かれた挙句にこちらは昏倒するのですから」
「……は?」
「オーバーフローだよ。自分の許容量を超える魔力が流れ込んだら回路が焼き切れるし、自分に合わないエネルギーが流れても回路がおかしくなるでしょ」
ウィンの説明のうち半分ほどはわからなかったが、一葉の補足と合わせてどうにか理解した慎二は眉を顰める。
一葉は明らかに規格外で、慎二は自分自身の力量を測れない。だが少なくともウィンはこの城の誰よりも魔力量がある。それが即ち強さではないだろうが、周囲の扱いから見れば少なくとも上から5本の指には入るはずだ。そのウィンですら一葉の策をほとんど本音で恐れている。
「姉ちゃん。魔術ってものは、そんな細かいことができるのか?」
慎二が色々と聞き回った話では、そこまで鬼のような術を組み立てることは難しいはずだった。しかし当の魔術士はふっと強気に微笑む。
「紋章魔術の権威もいるし、為せば成る。結構疲れたけど」
「……そうかい」
「貴方がたのような”異界渡り”は、異界を渡るたびに魔力が増えるそうですよ。なんでも一度魔力に変換してから世界を渡り、異動先で再び実体を取るとか。その時の変換で抜け落ちてしまった情報を魔力で補うため、異界を渡れば渡るほど魔力が大きくなる、と」
気の毒になったのか補足するウィンに慎二は頬が引きつる感覚を覚えた。
「今回で、何回目だっけ」
「んー……半端に戻ったことがあったから、4.5回ってところかな。1回につき最低でも5割り増し」
「ちなみにシンジ。貴方の力でも、本当なら私では比べものにならないほど強いですよ」
そんな恐ろしい出力を持つ一葉が”結構疲れた”などというほどに力を込めたのだ。今になって大切なことを思い出した慎二はぞっとした。あの紅い石だけでは一葉の力に耐えられなかったはずだ。それを自分の力で保護してまで、圧縮に圧縮を重ねた力を込めていた。
エネルギーだけを言うならば、この王都程度なら更地にできるくらいは込められていただろう。それを慎二は無造作にポケットへ入れていた。
そうして、怖くなった。
「なぁ」
「ん?」
「俺、帰ってもいいのかな」
怖くなった。
いつの間にか手のひらにあった大きな力は未だ自分で制御することはできない。明日故郷へ帰るつもりだが、残り1日でどうにかできるなどと甘く考えることもまた、慎二にはできない。
このまま日本へ帰ったあとに万が一暴走してしまったら? 不意に”魔術”というものを、たとえ出来損ないでも発動してしまったら? 魔力をあちらの世界に持ち越してしまうことは、一葉が既に証明している。家族は。友人たちは。彼らが受け入れてくれたとして、彼らに対する世間の目は。それならば慎二はこの世界にいたままの方が——
「何、悩んでんの?」
場違いなほど明るい声に、慎二は落としていた視線を上げた。そこには普段通り何を考えているかもわからない、しかし強い視線がある。
「いいよ。慎二の悩みは全部引き取ってあげる。訓練も付き合うよ。だから、父さんと母さんのところへは帰って。それでどうしても無理だったら」
そっと息を吐き出して、一葉は決意を込めた声を発した。
「私が、この世界に送ってあげる。魔力があっても問題が起きなくて、少なくとも顔見知りはいるこの世界に。もしも無理だと思ったら、封印してあげる。どんなことがあっても死ぬまで力が使えないように」
両親の顔が思い浮かんだ。来週の約束をした友人たちの顔が思い浮かんだ。こちらに留まれば、彼が一葉の弟である以上悪い扱いは受けないだろう。それでも。
「帰る。俺、友達と遊ぶ予定あるし」
「……ん。わかった」
「悪いけど、頼む」
「任せなよ。慎二が全力で暴走しても埃一つ舞わせないくらいの力はあるからさ」
何の気なしに言う声に偽りはない。口を挟まずにいてくれたウィンもまた、一葉の言葉を疑っていない。
どうやら自分の姉は、本当にただものではないらしい。
慎二はそれを信じることにした。