表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流界の魔女  作者: blazeblue
流界の魔女
57/61

エピローグ 黒と黒との幻想曲




「慎二、ちょっと! コンビニ行く?」


 リビングから聞こえた声に如月慎二は振り返る。見れば、姉の一葉がひょいと顔を覗かせていた。風呂から上がったばかりらしくタオルを首にかけ、右手に新聞をつかむその様子は父・真よりも親父くさい。しかも梅雨に入って半袖のTシャツを身につけているものだから、余計にオヤジ度が高かった。


「電池買いに行ってくるけど」

「母さん、行くってー……あ!」


 どうやら声をかけたのは母・葉月の用事らしい。一葉が声をかけてすぐに玄関へ出てきた葉月の手には財布がある。


「私も頼みがある!」


 その葉月と入れ違うように一葉が慌てて2階の自室へ駆け込んだ。


「牛乳をお願い」

「了解」

「ごめん、封筒買ってきて!」


 階段の上から投げられた声の焦りは本物で、封筒に余裕は1枚もないことを慎二に伝えている。今すぐに欲しいものがあろうとも夜は絶対に出歩けない一葉にとって、コンビニに行くという慎二は渡りに船状態だった。

 現在の時刻は23:00。”事件”から2年が経過した今でも、彼の姉は21:00以降にひとりで外を出歩くことができない。ひとり歩きだと思うと足がすくむのだ。


「就活用ー?」

「そう! 来週までに履歴書送らないと!」


 何も言わなければ重要書類を入れるとも思えない茶封筒を買っていただろう。慎二は内心で安堵の息を吐いた。姉の一葉は最近になって始めた就職活動に手間取っているようで、白い紙を前にして唸っている姿をよく見る。しかし慎二にはそれを他人事と言い切ることなどできない。

 何しろ彼自身も大学三年生、遅くともこれから1年以内には同じ行動をしなければならない。どうせその時には同じように頼み事をするのだから、今のうちから小さな労力で微妙な媚を売っておけば引き換えやすいと彼は考えていた。


「一緒に行けば気晴らしになるのに」

「そうなんだけど……履歴書、今からもう1枚書かなきゃいけないんだよ……」


 誰かが一緒にいれば普通に歩くことができる。このままで良い訳がなく、一葉自身も夜の散歩は嫌いではない。それを知った上での葉月の提案だったが、心からうんざりした表情で断る一葉を見るに就職活動の準備はよほど切羽詰まっているようだ。


「細かいの無いや。お釣りで適当にお菓子買ってくれていいから」

「じゃあ、私も」


 母と姉から1000円ずつを受け取り財布をジーパンへ押し込んだ。その時、ふと母の財布につけられたストラップが慎二の目に留まる。


「まだそのストラップ持ってるのか」

「外しづらくて」


 それは2年前、不思議な事件に巻き込まれて行方不明になっていた姉が置いて行った”お守り”の石だった。当の一葉は戻ってきたが行方不明先での生活を思い出してか、こちらはなんとも複雑そうな表情で眺めている。


「もう、意味はないと思うけど……何となくね」

「まぁ。下手に捨てるのも問題ありそうだしなソレ」


 500円硬貨ほどの大きさをした透き通る赤の石で、普通のガラス玉とは全く違う質感を持っていた。この日本で非常に珍しいそれは見る者が見れば高値がつくだろう。そんなものを捨てた挙句に誰かに見つけられでもしたら、彼の姉に2年の留年期間があり、かつやたら身体能力が高いという事実と同じくらい説明に困る。


「ちょっと見せて」

「別にいいけれど」


 今まではなんとも思っていなかった石へ慎二は急に興味を抱いた。特に何の考えもなく頼むと母もまた躊躇なく石を外す。本当に何となくつけたままであり、娘が戻った今の葉月には本人が言ったとおり何のこだわりもない。しいて言えばお守りを大事にしているような感覚である。こだわりは無いが、無下にもしない。

 財布から外したそれを慎二が受け取る寸前、その視界の隅で、姉がなんとも言えない顔で何事かをつぶやいた。


「え」

「あ」


 手のひらに冷たくも熱くもない温度が伝わる。その途端、この得体の知れない石を簡単に受け取ったことを彼は心の底から後悔した。


「ちょっ、何だよこれ!?」

「慎二!」


 一葉は言っていた。



 ——なんとなく、嫌な予感がする。



 姉がこの予感を覚えた場合、大抵は本当に何かしらの問題が発生する。ともに育った彼に言わせればそれはもはや”事実”と言えるほどの確率で、それを見ていたにもかかわらず迂闊な行動をした自分を殴りたい衝動に駆られた。


「今度は俺かよ!?」


 そう。葉月の手にあったうちは何の変哲もない石だったそれは、慎二の手が触れた途端に見えない力を解放したのだ。はっきりと肌で感じられる力は慎二を中心に渦を巻いている。この目に見えない不可思議な流れから連想できる事象はひとつしかない。


「うそ、ちょっと、何これ今までなんともなかったのに!」

「一葉、どうにかならないの!?」

「ちょっと待って、今……!」

「何が起こってるんだ」


 一葉と葉月の大騒ぎ。それよりもただ事ではない”何か”を感じ取ったからか、リビングから父・真も飛び出してきた。その頃には慎二の体が透け始め、不思議な光を纏っている。葉月が手を伸ばしても体をすり抜けるばかり。色だけでなく、実体をも失っていた。

 唯一”どうにか”できる知識のある一葉は何かを探るように目を閉じる。


「こっちでも魔術を使えるままで助かったわ……よしっ、これで!」


 目を見開き1、2度拍手をした一葉が弟へと手を伸ばす。先ほど葉月が掴もうとした時にはすり抜けてしまった慎二の腕は、どういった手段からか、今度はしっかりと一葉により掴まれた。

 考え込む様子を見せた彼女は何事かを納得したように頷くと、驚いたままの両親へと振り向く。


「うん。やっぱり今度は私じゃなくて慎二が召喚されてるみたい。こっちからじゃ邪魔できないから、私もついていくけど……そうだね、詳しいことは向こうで調べてくる」


 真や葉月には目の前で何が起きているのかわからない。ただひとつ確かなことは彼らの子供が再び事件に巻き込まれているという点だけだ。しかもそれは一葉しか手を貸すことができない種類のもので、彼らにできることを挙げるとすれば子供たちを信じ、無事に戻ると信じることくらいだろうか。


「心配しなくても慎二は無事に返すから!」


 娘の声にぐっと息を吸い込むと真は大きく頷いた。その隣に立つ葉月もまたじっと子供たちを見つめ、静かに声をかける。


「慎二だけじゃなくて一葉もよ。絶対に、無事に帰ってきなさい」


 虚をつかれたように目を見開き、一葉は嬉しそうに笑った。


「気をつけます!」

「慎二。一葉を頼んだぞ」

「頼まれてるのは俺の方なんだけど……了解」


 いっそう光が強くなった時、どういう手段をとったものか一葉もまた光へ転じて弟へ寄り添う。真たちが目を細めているうちに、やがて彼らの子供はどちらも空気へ溶けてしまった。


「……慎二は大丈夫だ。何しろ”勇者”がついているし、その弟だからな」


 口数の少ない真には珍しく、冗談めいたことを言う。葉月は弱々しく——しかししっかりと笑った。


「その勇者がけっこう抜けてるから余計不安なのよ。やる時はやる子たちだから信じてるけど」


 怪我などしていないだろうか。無事だろうか。いつ帰ってくるのだろうか。腹を空かせてはいないだろうか。自分たちの力が及ばない事象へ不安は際限なく生まれるが、彼らは子供たちを信じてじっと待っていた。









「やはりあの程度の狩りでは全てを抑えることなどできませんか」

「のんびりと言っている場合ではないがのぅ」


 長い銀髪を右肩へ流した紫眼の青年が眼鏡を押し上げつつ言うと、その隣に立つ初老の男性が相づちを打つ。金髪の王が頭痛をこらえるような表情で首を振った。


「まさか、まだこのような手段に出る者がいるとはな……」

「その態度を取れるのも今のうちだ!」


 アーサー王が自分へ向ける視線の意味に気づいたらしく、謁見の間に立つ男は魔力を操り始めた。騎士たちに緊張が走る。警護騎士が王族や戦う力を持たない上級貴族の前に出て備え、警備騎士が男をぐるりと取り囲んだ。


 その男は擬態に長けていた。未だ燻る反王の勢力、その一員であることを巧妙に隠した上で謁見を申請していたのだ。警戒はしていたものの大きな金の流れはなかったせいで、アーサー王たちは彼が”召喚の触媒”を持っているとは分からず拒むこともできなかった。


「出でよ……!」


 2年前に発生した、世界を巻き込んだ召喚獣事件。それに関わるいくつかの事象のためミュゼルは世界でもっとも召喚獣対策ができている国ではあるが、今回はそれが仇となったようだ。


「これは……」

「少々、まずいかもしれませんね」


 他国では召喚獣の反応があれば即座に術者を攻撃する。それが失敗すれば理性を失った獣を世に放つだけだとミュゼルでは知られているが、召喚される前に安全に術者を叩くなどという芸当ができる人物をウィンは1人しか知らない。触媒を壊した方がいい契約か否かという判断もまたこの場にいる魔術士には難しい。

 判断が遅れた結果、迂闊に動くことが難しくなっていた。生まれ出た息苦しいほどの魔力と圧力に本能が久方ぶりの危険を叫ぶ。騎士たちの脳裏にロットリア卿の事件が過った。


「総員、全力で備えなさい!」


 関係のない貴族たちを部屋から誘導して避難させて武力を持つ貴族を念のため残す。広い場所を確保し終わったノーラが叫ぶ。全員の目が男からその上空——4人分程度上へ動いた。陽炎のようにジワリと滲んだ空気が段々と像を結ぶ。


「ミュゼルの貴族もまぁ、懲りないねぇ……ロットリアのオジサマがあんな風に終わったのに」


 そうして軽やかな声が広い室内に響いた。ただしその内側に、途轍もない怒気を宿して。









 ——大丈夫だから。


 よく聞き慣れた声が安心させるように囁いている。聴覚へ直接届いてはいない音はしかし疑い様もなく姉の声だった。

 まるで自分を作り替えられるような感覚に吐き気を覚えていたが、その声が届いたとたんにスっと楽になる。


 ——絶対に、無事に還すから。


 含まれた決意の中に慎二は複雑な色を見た。まるで抱きしめられているような感覚には気恥ずかしさだけが募るが、それと同時に自然と覚悟を決められる姉へ悲しさもまた覚える。


(まだ夜に歩けないくせに)


 それでも一葉は慎二を守るのだ。無理をしなくてもいいと言えれば良いのだろうが、現状では一葉に頼る他はない。慎二はじっと押し黙るとただ”空気”に流され続けた。



 ——さて。



 そうして空気が色を変える。


「ミュゼルの貴族もまぁ、懲りないねぇ……ロットリアのオジサマがあんな風に終わったのに」


 思念は唐突に音を持ち、空気は突然に肌寒さを持った。


「よ、っと」


 何らかの術を使ったのだろうか。落ちると思われた体がふわりと降り立ったのは硬い地面で、赤い絨毯が道状に敷かれている。その片端には大きな扉、逆側には——目に眩しい色彩の集団がいた。

 煌びやかな集団へ、まるで”よっ、久しぶり”とでも言うように軽く片手を上げた一葉が振り返る。振り返っただけで1歩たりとも動きはしない。そこは慎二を”元凶”から庇う位置だった。


 一葉は冷ややかな視線で、いかにも貴族らしい男を突き刺す。男の肩がビクリと揺れた。


「本日はどうも、如月家の大事な息子をご招待いただいたようでアリガトウゴザイマス。覚悟はできてますね?」

「ひ……っ!」


 慎二は姉に夏のアスファルトのようにゆらゆらとした空気を感じた。いや、違う。現実に、一葉の周囲の空気が揺らいでいた。


「なぜ……なぜお前が……!」

「あれー、ご挨拶ですね。大事な大事な弟がお世話になるんだから、姉として心配になってついてきただけですよ。それとも何ですか? まさか、人に言えないことでもさせるつもりだったんですか?

 ——例えば暗殺とか。無いわ。マジで無いわ」

「悪かった! お前の縁者とは知らなかったんだ! だから」

「だから? だから見逃せと? そう言われてはいそうですかって納得できるとでも思ってるんですか、このおめでたい頭は?」


 怒り狂うとか爆笑するとか、そういった強い感情を一葉は昔からあまり見せなかった。それは如月家全員に当てはまることだが、家族だからこそ、そんな人間が一度怒ると本気で怖いということを知っている。視線だけで人を殺せるならば男の命程度とうに奪っていただろう。

 若干残っているらしい理性が軽い口調を心がけさせているが、かえってそれが恐怖を掻き立てている。


「あぁ無駄ですよ。私は自分の力で世界を渡ったから、慎二とは違って思考制御とかの枷が無いんで。ちなみに慎二の分も私が邪魔してるから、さっきから頑張ってることは全くの無・駄☆」

「な……」


 口元は笑っていても目は全く笑っていない。他人よりは幾分耐性があるからこそ普段ならば慎二が一葉を宥めたかもしれない。しかし自分を狙った犯行という事実があるため、彼が姉を止めることはなかった。


「ひ……ひぃっ……!」

「ごめんなさいねー、私が強すぎて」


 うそぶく姉の空気に飲まれたのかまたは別の理由があるからか、男は丸腰の一葉を相手に全く動けず呼吸を止めそうなほど怯えている。その手が伸ばされ男の首へかかる直前で、後ろから鋭い声がかかった。


「イチハ!」

「大丈夫、何にもしないよ。ただ」


 男の襟元——襟元につけられた煌びやかなブローチへ一葉の指が触れる。サッと風のような何かが吹き荒れ、それが収まったと思った途端に黒曜のような宝石が粉々に割れた。それだけではなく他にも多数の小物が破損している。


「邪魔な触媒を壊しただけ。縁ができちゃったし、また慎二を喚ばれても困るからね。一応、追える範囲の他の触媒も壊しておいた。家族が見てるのにスプラッタな展開にするとかどんな趣味よ」

「……それは失礼しました」

「でも、私が怒ってるのは本当。私がやっとの思いで還れたのに今度は弟でしょ。しかも初めてだったんだから、もしかしたら還れなかったかもしれない。許せるわけがないね」

「それはそうでしょうね」


 怯えていた男が、周りをぐるりと囲んでいた兵士たちのうち6人により引き立てられて行く。その集団が大きな扉から出て行くところを目を細めて見ていた一葉は、興味を失ったようにくるりと振り返った。


「久しぶり、ウィン」

「えぇ……お久しぶりですね、イチハ」


 姉に倣って振り返ると、そこには銀の髪を右肩に流した眼鏡の男が立っている。その顔は整っており、大変モテるだろうと思われた。微かに腹が立った。

 一葉はその慎二の腕を掴むと床へ膝をつけさせ自分も跪く。その向かう先は玉座であり、玉座に座る王であった。頭を下げて目が合わないようにした方がいいかと思ったが、一葉がまっすぐに前を向いていたことから慎二も同じように王を見る。


「ご挨拶が遅れました。お久しぶりです、アーサー王」

「そなたは、相変わらずだな。また命を救われたらしい」

「いいえ、偶然ですよ。たまたま“召喚士”の触媒が今さら使われただけでしょう?」


 表面上は慇懃な態度をとっているものの聞く者が聞けば完璧な皮肉を、金髪の王は苦笑と共に受け入れた。


「して、その者は」

「私の弟、慎二です。どうやら私を召喚するには力が足りなかったせいか、私と縁があっていちばん近い血のこの子が引っかかってしまったようで。召喚を防げなかったのでせめて守ろうと一緒に来ました。

 自分が精神的に縛られそうになってたなんてことすら、この子は知りませんよ」

「そうか。……シンジ、といったか」

「っ、はい」


 まさか自分まで声をかけられるとは思わなかったため少々強張ってしまったが、アーサー王はそれに気づかず先を続ける。


「我が国の貴族が大変な無礼を働いた。下手をすれば操られた上に我ら王族へ危害を加え、その罪から極刑になるところであっただろう。重ね重ね申し訳ないことをした。ミュゼルを代表して謝りたいと思う」


 聞かされた恐ろしい予想に心なしか血の気が引きつつも頭は冷静で、慎二はアーサー王を観察する。流石に頭は下げず表情も変わらないものの、王のその声にはきちんと謝意が込められている。その左右にいる女性たちの表情も心から申し訳なさげで、慎二はふっと息を吐いた。



 本当は警戒していた。

 ここが一葉が行っていた世界だとすぐに信じられた。数人とは親しい様子も見られる。しかしそれとこれとは話が別で、一葉を辛い目に遭わせていたのではないのか、切り捨てるつもりで取り込んだのではないかと疑っていた。だが、違うようだ。

 姉から怒りの気配が消えた。それ以上に、この姉や両親と暮らしているのだ。顔に浮かんだ感情を正しく読むくらいはできる。



 ——少なくとも、王が今言った言葉は信用できる。



 今はそれだけでいい。慎二は慣れない丁寧語を選びつつ言葉を返した。


「はじめまして、如月慎二と申します。以前姉がお世話になっていたようで、ありがとうございました。姉がどうにか生きていられたのは確かに姉の力もありますが、王様方に守っていただいたおかげも大きいだろうと両親が申しておりました」

「そうか。……よい親御を持ったな」

「その言葉をいただいただけで、俺……いえ。私が危険な目に遭った価値は充分にあります」

「そう、か」


 アーサー王もまた息を吐き出す。そうして、全身に入っていた力を抜いた。


「イチハよ」

「はい」

「大切な弟に申し訳ないことをしたな。それに、以前と変わらぬようで何よりだ」

「ありがとうございます」


 鳶色の瞳が一葉を射抜く。続く言葉を飲み込むとアーサー王は無言で背後を見た。斜め後ろに立つ体格の良い男性とその隣に立つ小柄な女性が頷く。少しだけ視線をずらせば王の右に座る王妃が綺麗な笑顔で同じく頷いた。


「アリエラ」

「はい」


 王の左に座っていた美しい人が立ち上がる。母譲りの碧目を父のようにキラキラと輝かせた彼女は、自らの背後にいた2人の女性たちからひとつずつ剣を受け取ると壇上から降りてきた。重いのだろう。数度持ち直してゆっくりと歩き、そうして一葉のすぐ前に立つ。


「イチハ」

「お久しぶりです、アリエラ様」

「いいえ、前のように話してくださらないと”これ”をお返ししませんよ?」

「……久しぶり。随分綺麗になったね」

「ありがとう、ございます」


 眩しいものを見るような姉の視線で、彼女こそが一葉が守っていた人だと慎二は理解した。王女は言葉を探すように口を開閉し、しかし何も言わずに両手のものを差し出す。決して話すことがなかったわけではない。むしろありすぎるからこそ最初の言葉を選べなくて口を閉ざしたのだということも、慎二にはよく分かる。

 慎二は彼女の手にある物にも見覚えがあった。鞘に包まれたそれは2年前に1度だけ見た、姉の大切な”相棒”——左右の双子剣『狛犬』だった。


「これ」

「あの後に打ち直しました。足りない分は材料を足して、極力元に戻るように。いつかイチハに返せるように」


 そっと、しかし重いはずの双剣を簡単に受け取った一葉の手が震えている。それは近くにいたアリエラ王女と慎二しか気づいていないだろう。姉の肩を叩こうとした寸前で真後ろへ思い切り腕を引かれた。


「うわっ!?」


 文句を言おうと思った瞬間にその意思が叩き潰される。今まで慎二やアリエラがいた場所を鋭い光が通り過ぎ、小柄な姉の身へ食い込もうかという寸前で双子剣に止められていたのだ。ずっと見ていたはずなのに、慎二には一葉がいつ鞘を捨てたのかが見えなかった。


「大丈夫ですか」

「あ、はい、ありがとうございます……」

「いえ。イチハ様のご兄弟に怪我があっては申し訳が立ちませんので」


 ちらりと背後を振り返れば、王女の背後に立ち彼女へ剣の一振りを差し出した、銀の髪を背後で三つ編みにした女性がそこにいた。女性としてはすらりと背が高いが慎二よりは10センチほど低く、にもかかわらず彼を支えてもしっかりと立っていることに微妙にプライドが疼く。

 その面差しは一葉から”ウィン”と呼ばれた眼鏡の男にどことなく似ていた。どうやらこの銀髪の女性のおかげで慎二は無事だったらしい。青い上衣と白い胸当てを身にまとったその人は、慎二の礼へ水色の目を優しく細める。


「危ないので少々こちらへ」

「わかりました……あの、姉は」

「あの程度で怪我をする方ではありませんので、心配は要りませんよ。アーサー王もいることですしレイラ様がやりすぎることもないでしょう」


 一葉たちから離れつつそちらを伺えば、女性の言葉を証明するような姉の姿があった。右脇腹から約15センチで剣を構えて力を入れるという無理な体勢の一葉は、目の前の茶眼へ不敵に笑いかけている。剣を渡したもうひとり、一葉と向き合っている女性もまた必死な表情ではないことから、本当にお互いが本気ではないのだろう。その激しい攻防は別として。


 ようやく余裕が生まれた慎二がはっと気づいて見回すと、アリエラ王女もまた別の兵に促されて一葉たちから離れていた。危険のない位置に胸を撫で下ろす。


「危ないじゃないですかレイラさん」

「これくらいでなくてはイチハ殿から一本を奪うことはできないと思いましたから。2年ですか。剣を握っていないと思えない体捌きは流石です」

「こっちは体が魔力に変換されてますからね。魔力が動きを覚えていたんでしょう! かなりギリギリですけどねっ!」

「レイラ、頑張ってください!」

「ちょっとアリアけしかけるのやめて!」


 アリアと呼ばれた王女へ一葉が声を張り上げた途端、その体が傾いだ。力を入れていた”レイラ”が一気に力を抜きざま大きく身を引いたのだ。一葉が体勢を崩した隙に紫の雷が降り注ぐ。

 見ている慎二はヒヤヒヤしたが一葉とて流石に元勇者ということか。当たれば命を失うそれを、慌てずに生み出した透明な盾で難なく防いでいた。

 しっかりと右足で絨毯を踏みしめて転倒を防ぐと、一葉は不満げな表情をレイラの後ろへ向ける。


「ちょっと、殺す気?」

「何を面白いことを言っているのですか」


 兵に促された王女が玉座へ戻る暇に、ウィンが眼鏡を押し上げて不敵に笑う。その前では細剣を構えたレイラもまた、おそらくウィンとは別の理由で苦笑していた。


「この程度で貴女がどうにかなると? 冗談もほどほどにしていただかないと、こちらのお腹が痛いですよ」

「相変わらずめんどくさい言い回しするねぇ。そういうところ、すごくムカつく」

「ムカつくの意味はわかり兼ねますが、あまりいい意味でないことだけは理解できますね」

「まぁね! っていうか大体こっちは2年ぶりの戦いだし、しかも裸足なんだからその辺りを考え、てっ!」


 辛辣な言葉をやりとりする割に全員が笑っている。一葉の言葉が終わらないうちに灰金の長い髪を後頭部でまとめた女性が細剣を振るい、その細剣を一葉が双剣で防御した。足を傷つけないためか、その動きはとても軽い。


「レイラ、やってしまえ! 練習の成果を見せるのだ!」

「きゃー! 頑張ってイチハちゃん!」

「ルーナ、今こそキサラギを倒せ!」

「キサラギさんならば少しくらい負傷しても大丈夫ですから!」

「魔術を使う暇を作るなよー」

「フォレイン伯、最近研究続きで篭ってばかりだから体力が落ちたのではないか?」

「そこっ、聞こえていますよ!」

「いけ、やれっ!」


 目にも止まらない応酬の間に挟まる魔法も一葉は防ぎ切り、だからこそ危険なはずのそれは完全に王や貴族たちの娯楽と化している。おそらくこの場にいる貴族たちの大半が一葉を知っているのだろう。その顔には一葉に対する嫌悪や疑問など、冷たいものは含まれていない。


「うわぁ……」

「如何されましたか?」

「いえ、なんて言うか……」


 万が一のために慎二のそばにいるのだろう。銀の髪の女性に聞かれてしまった呟きへ慎二は頭をかく。


「俺たちの世界には戦う機会って無いから姉の運動能力って大体しか知らなくて、だからあんなに動けるとか思ってなくて。驚いてます。あんなに当然みたいな顔で魔法使ってるし。ないわー引くわー超引くわー」

「ふふふ……イチハ様の真価は魔法——魔術と武術の融合ですからね。確かに体捌きは素晴らしいですが、それそのものよりも判断力と反射神経がものを言うのですよ。イチハ様は特にそれが優れていらっしゃいます」


 自分のことのように誇らしげな女性の言葉へ抱いた疑問は、目の前で繰り広げられる大好きな武器の舞いよりも興味をそそるものだった。


「あの……あなたは」

「サーシャと」

「え?」


 言葉を遮られた慎二はぱちりと瞬く。


「サーシャとお呼びください」

「えっと……サーシャさんは、なんで姉のことを様づけで呼ぶんですか? 王女様を直接護衛するくらいだからあなたの身分も高いんでしょう」

「私の生家は貴族の中ではあまり身分が高い方ではないのですが……そうですね。確かに、そのような理由ではありません」


 サーシャは懐かしむように、未だ魔術と剣で舞う一葉を見た。


「それは、私が元々はイチハ様の侍女をしていたからですよ。一方的に惚れ込んで侍女兼護衛としてお側におりました。どなたを護ることになろうとも私の主は生涯イチハ様のみです」


 とはいえ、そう簡単に守らせていただける方ではありませんでしたが、と、やはり懐かしそうにサーシャは言う。


「イチハ様がお還りになったので代わりにアリエラ様の護りを任せていただいているだけで、本来はイチハ様がこの場所にいたのですよ」


 慎二は”アリエラ”王女を見た。彼女はきちんと自分の椅子へ戻り、しかし全力でレイラと一葉を応援している。


「へぇ……王女様の護衛か。姉ちゃん、頑張ってたのか」

「それはもう」

「姉ちゃんの”やり残したこと”は、あの王女様だったのかねぇ」


 納得したようなため息を吐いているうちに、日本とは比べものにならないほど物騒な”試合”は終わったようだ。ウィンと何事かを話した後に、一葉は慎二の方へ歩いてくる。ウィンはアーサー王や初老の男性たちへと歩み寄っていた。


「お久しぶりです、サーシャさん。ここにいて大丈夫ですか?」

「はい。アリエラ様の警護はノーラ様が請け負ってくださいました」


 そこで言葉をきると、サーシャは目を細めて綺麗に頭を下げる。


「お変わり無いようで安心いたしました」

「サーシャさんたちも。変わってなくて、嬉しいです」

「それはコマイヌを含めて、ですか?」


 頭を上げると、小柄な主の両手にある双剣へ目を向けた。何気ないサーシャの声に苦笑して一葉は頷く。

 慎二は日本にいた時よりも格段に表情豊かな姉へ複雑な心境だった。自分たち家族や長月たち友人ではその顔を出してあげられなかったかと。その弟を知っているだろうに何も触れず、一葉はサーシャへ頭を下げる。


「慎二を守ってくれてありがとうございました」

「当然のことですので、どうぞ頭をお上げください」


 サーシャの言葉へ素直に従い、一葉は背筋を伸ばして立った。


「それでもありがとう。けど、こういうことはどうにか先に教えて欲しいです」

「それはできません。もしもイチハ様と再び見えることあれば、と、レイラ様は鍛錬を積まれていましたからね。使える機会は全て使う。卑怯か否かは結果が全て。そう教えられたのはイチハ様ご自身でしょう?」

「うー……こっちは異世界補正があるから何とかなってるだけなんだけどなぁ」


 勝てば官軍を、異世界の地で実践していたらしい。やれやれ、と焦げ茶の髪をかき上げると、一葉はようやく引いた目で自分を窺う慎二を見る。嫌そうな顔をした。


「ちょっとその目やめてくれないかな。正々堂々やって死んだら意味ないでしょうが」

「いや、そうだけど、他人からああもハッキリ言われるくらいのことを何したんだろうと……」

「まぁ……うん、ちょっとね……」


 そのあたりを詳しく言う気は無いらしい。コホンと空咳をすると、一葉は改めて慎二と向き合った。


「ねぇ慎二。私が言うのも何だけどね。異世界に来るなんてそうできる体験じゃないでしょう?」

「まぁ……そうだな」

「ならさ。興味ない?」



 ——この、剣と魔法の世界に。



 慎二は自分に剣の才能がないこと、巨大な力を振るうだけの覚悟も力もないこと、力と自由には対価があることを知っている。その体現が姉である一葉の在り方そのものだから。だからこそこの世界で好き勝手に振る舞うつもりはなく、それを知っているからこその一葉の提案なのだろう。



 揺れた。



 揺れて、揺れて。



 いつの間にか慎二は頷いていた。



「決まりね。2、3日くらいなら余裕あるでしょ」

「まぁ……休講と出席取らない授業しか無いし、バイトもないし。土日入れて5日くらいは暇」

「なら決定かな。種類は違うけど、色んな仕事を生で見られるいいチャンスだと思うよ」


 ニコリと一葉は笑う。姉の就職活動を見て不安に思っていたことまで、しっかりと知られてしまっていたらしい。慎二の気まずさは見ないふりをして、一葉は明るく言葉を継いだ。


「泊まるところとご飯はウィンがどうにかしてくれるって言うから」

「まぁ、貴女は私の義妹ですからね。その弟ならば私にとっての義弟でもあるでしょう」

「そうそう。可愛い義妹のお願いを素直に叶えるのがいいおにーちゃんだと思うよ」


 通り過ぎざまのウィンへ向けて言うとポケットからスマホを取り出し、一葉は何のためらいもなく通話を開始した。


「あ、もしもし母さん? 着いたよ。そうそう、前とおんなじ場所。それはまぁラッキーだったかもね。うん。ちょっと時間はズレてるみたいだけど」

「ケータイ、通じるのかよ……」


 某然とする慎二をよそに一葉は話し続ける。慎二は慎二の理由で、ミュゼルはミュゼルの理由で奇妙な光景だが、一葉という存在それだけで誰もが納得していた。


「で、お願いなんだけど、長月からお守り借りてきておいてくれない? うん、目印代わり。もう遅いから明日か明後日にでも。こっちからもメールしとくから。悪いけどね、うん。ふたりでちゃんと帰るし、ご飯のアテはあるから。すごい美味しいんだよ!

 あー……挨拶はちょっとびっくりしちゃうから、やめとくわ。でも悪い場所じゃないから。せっかくだし2、3日してから帰るよ。

 うん。ちゃんと守るよ。大丈夫。父さんにも無事だって伝えてね。じゃ」


 慎二に代わることなく通話を終了した姉へ胡乱な視線を送るが、姉は全く気にしていない。


 王や王女が退出し何かと忙しく動き出した室内の人間たちを見もせずに、慎二から5、6歩離れて向き合う一葉。その背後へ当然のようにサーシャが控える。レイラはいつの間にか消えていたが、アリエラ王女についているのだろう。

 Tシャツとカーゴパンツ、2本の短剣を持って足元は裸足という奇妙な恰好の一葉は、得意げな笑みで片手を差し伸べた。


「ようこそミュゼルへ!」


 奇妙な恰好のはずの姉は、しかしこれ以上ないほどに剣と似合っている。自信に満ち溢れた笑顔が眩しい。自分の中に芯を見つけたらしいその顔が慎二にはとても羨ましく思えた。

 この世界を知れば姉の変化の一端を追うことができるのだろうか。その羨望を誤魔化すように、慎二は差し出された手と自分の手をハイタッチのように合わせて音を鳴らす。


「……案内、よろしく」

「もちろん」


 どうやら慎二の姉はタダモノではないらしい。何せ世界を渡った経験を持つ魔女なのだからそれも納得である。

 携帯が通じた原理は。自分の中にある何かの正体は。剣術というものは。魔術は使えるのか。義妹とか義弟とか、一体何のことなのか。2、3日置いた本当の理由は。

 諸々の疑問が浮かんでは押しのけられてまた新たな問いが浮かぶが、まずはこの世界を楽しむことから始めようと慎二は思うのだった。




長い間おつきあいいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ