第49話 流界の魔女
雪のような白い光が空へ昇る。ふたつ、ひとつ、最後の光が消えると、薄ぼんやりとした魔力の光だけが残った。すっかり夜になったグランツの大平原、そこにある白亜の大都市もゆっくりと役目を終えようとしている。
「おわった、ね」
ふわりと舞うのは“召喚士”が変じた純白とは違い、温かみを帯びた色の光であった。無数に舞うそれらに照らされながら見上げれば、もうすっかり暗くなった夜空と満天の星空がある。
思えば随分と長い時間が過ぎたが、始まりのあの夜も、今と同じく寒空の下で星を見ていた。
「あれは、私たちでもあったんだ」
「——?」
唐突な言葉へ疑問の空気が返る。一葉は苦く笑い、唇を開いた。
「始まりは確かに、あれが自分で言ってたみたいに唯の人間だったんだと思うよ。それがどういう事か力を吸収して自分を変えた。その力っていうのが、私みたいな異界渡りの力みたいでね」
冷たい空気をスッと吸い、冷え始めた指先へ息を吹きかけて温める。口元からは白い蒸気が流れた。
「召喚されたり落ちてきたり、そういう異界渡りの寂しさとか悔しさとか、利用される怒りとかさ。そういう……負、って言っていいのかな。そんな感情が乗った魔力の結晶がその”勇者”の気持ちと結びついて“召喚士”になったみたい」
「では」
「うん。いつかあいつが言ってた、私とあいつが”同じ”っていう意味はそれだったんだね。私も同じ。悔しくて寂しくて、帰りたくて。そういうのが集まって感情が捻れて、あんなものになっちゃったんだ。アリアがいなかったら多分私も”ああ”なってたんだなぁ。まぁ」
分かったところで今更だし、結果は変わらないけど。一葉はそう言うと再び空を見上げた。
「もう、終わったんだからさ」
星を眺めるが、星に詳しくない一葉にはそれが地球と同じか違うかの判断ができない。誰も何も言わずに時間が過ぎる。それでもまだ周囲の光は漂ったままで、大都市が瓦礫の山へ戻るには相当な時間がかかりそうだった。
「そうですね」
しばらく無言の時間が流れた後、ポツリと零したのはウィンである。
「えぇ、そう……ですね」
意味のない返事を数度繰り返すと、やはり彼は呟くような小さな声で言葉を発した。
「今しかありませんよ」
「え」
「帰るには、今しかありません」
不思議そうに自分を見てパチリと瞬いた黒い瞳を視界の隅に捉え、しかしそちらは見ずに先を続ける。
「じきにここにも各国の間諜が押し寄せるでしょう。そうしてグランツと“召喚士”の滅亡、同時にそれがミュゼルの手によるものだということが世界に知れ渡ります」
「うん」
「そうなればアーサー王は貴女を放っておけなくなります。何せ貴女は義理であってもフォレイン侯爵家の姫であり救世の魔術士ですからね。ミュゼルに戻れば確実に、社交界を始めとした貴族としての義務が課せられます。貴女は拒否するでしょうが……」
そこで言いづらそうに言葉を切ると、今度こそウィンは義妹へしっかりと視線を向けた。何の誤魔化しもない困ったような表情は心から気遣うもので、それを向けられた一葉は落ち着かない気持ちになる。
「うん」
「様々な相手から縁談が舞い込み、一度応えてしまえば貴族社会から抜け出せなくなるでしょう。ご存知のとおり……貴女を頷かせるくらい王や父上にとって簡単なことです。
ようやく“召喚士”を倒したと思えば、今度は政治という場で利用されてしまうのです」
「うん」
「貴女の縁や情も、全て利用されます。どれほど嫌がったとしても」
「……うん」
「不愉快な茶会や舞踏会に出なくてはなりませんし、権力はなくとも侯爵家というある意味では強い力を得た貴女に対して、不躾な視線が今まで以上にあるでしょう」
言いよどむように言葉を切り、しかしすぐに諦めを含んだ声が出る。
「貴女という存在を隠す選択肢もありますが、嘘で塗り固めてはそれ自体がミュゼルの弱味となる。国と貴女ならば我々は国を取らなければなりません。嫌がる貴女を貴女が嫌う“勇者”という名で無理やり祭り上げ、さらには自由に動ける環境を取り上げなくてはいけません。だから」
——だから今、還るべき場所へ行ってしまえ。
切った言葉の後に続いた無言の言葉を一葉は読み取る。それがウィンの本音なのか建前なのか、その嫌味なほど整った顔から内心を読み取ることはできない。けれど確かに心から心配していることは一葉にもわかっていた。
ふと視線を巡らせればレイラやサーシャも微笑んでいる。
(自分たちだって面倒ごとに巻き込まれるのに)
一葉はこみ上げてくる何かをぐっとこらえ、滲む視界を誤魔化した。一葉がいなければその分の重責を3人が引き受けなければならないにも関わらず、彼らは一葉を解放しようとしているのだ。嬉しかった。寂しかった。
(なら)
ひとつだけ、自分から彼らへと”してあげられる”事がある。別れへ泣きそうに歪む唇を無理に捻じ曲げ、一葉は精一杯の笑顔を作った。
「ならせめて、最後に役にたってから還るよ」
「え?」
「今なら、世界中の召喚獣と……そうだね。起動してる触媒ならどうにかしてあげられる」
まるで予想をしていなかった言葉だったのか、ウィンたちはポカンとしている。
「それは……助かり、ますが……」
「できるよ。今の私なら」
一葉にかかっていたリミッター。彼女を戦闘人形にするための暗示とそれに使っていた魔力は、親愛なる”友人”が全て持っていってくれた。還る手段を得たこと。一葉の心に刻まれた”傷”が薄れたこと。そして探していた相手を見つけたことで、”友人”は一葉の傍から旅立った。
体という魔力に余計な成分がない今の一葉なら、この場に残る“召喚士”の魔力を辿ることができる。少なくとも彼が作成した触媒や彼が喚び出した魔獣なら魔力のつながりを特定できる上、足りない魔力も幸いにして今ならまだこの場に山ほど溜まっている。
今までで一番軽い体を手に入れた一葉には、それらを破壊する程度なら自分の手で実行できるとわかっていた。多少取りこぼしがあったところで、その程度ならこの世界の人間でも充分対応できるはずだ。半端な獣に負けてしまうほど弱くないと知っている。
「わかりました。お願いします」
「任された!」
一葉の言葉へ思うことはあるだろう。しかしそれを表に出すことなく、いつも通りの笑顔でウィンは頷いた。それは例えば実験に付き合わされる時のような、無茶をそのまま押し付ける、本当にいつも通りの軽い笑顔だった。
「レイラさん、ありがとうございました」
「はい。こちらこそ……大変、勉強になりました」
決して長くはない時間だが、一葉とレイラは確かに”相棒”だった。しっかりと握手をして笑い合うと、一葉はサーシャへ振り返る。
侍女で、教師で、姉のようで母のようなひとの、水色の目が細められた。その細い長身へ飛び込んで思いきり抱きしめると耳元で一言だけ囁き、そのまま10歩ほど離れる。それはミュゼルの3人と一葉、両方が手を伸ばしても触れられない距離だった。
「じゃ、元気で」
最後ににっこりと笑うと、ひとつ、ふたつ、みっつと柏手を打つ。大きく息を吸うと、大きくも小さくもない声を上げた。
『祓い給え、清め給え、守り給い、幸え給え』
さっと風が吹いたような錯覚を覚えた。全ての光が光量を増したと思うと次々に空へ上り、やがて様々な方角へと流れていく。幻想的であり圧倒的な光景だった。
レイラは初めて一葉に会った時のことを思い出す。あの時も一葉は息苦しいほどの魔力を放出していた。次に、たかが数刻前に体の自由を受け渡したことを。今はそのどちらとも比べられないほど、強くとも優しい魔力が身の回りを包んでいる。
さびしい、と思った。大切な相棒だからこそ、もっと長い時間を共に過ごしたかった。そんな自分へレイラは苦笑し、そっと目を閉じる。
サーシャの耳にはつい先ほどの声が残っている。主と仰いだ一葉が自分の前から消えてしまうことは身を切るほどに辛いが、それでも笑って見送ることにする。他の家人のように狂ったりはしない。そんな姿を晒しては、残してくれた一葉の言葉に反してしまうから。
目の前が滲んでいるのは光が眩しいから。それだけなのだ。
『じゃぁね』
眩しくて目を閉じる寸前、光の中に立った一葉の唇が動いた気がしたが、眩しさに負けてしまったウィンがそれを確認することはできなかった。
またいつか奇跡的に出会うことがあれば、次こそは勝てるように。そう、心に決めた。
まぶたの向こう側で光が弱まる。度重なる”変換”によりボンヤリとする頭をゆっくりと振り、大きく息を吐き出した。
目を閉じたまま両手を握っては開いて異常がないことを確認する。膝をかるく曲げ伸ばしする。問題はない。
「いい星だ」
空へ顔を向けて目を開ければ、そこにはやはり満天の星空がある。やはり、何がどの星なのかは全く分からない。
「さて」
前を向く。鍵は開いているらしく何の抵抗もなくノブが動いた。
「ただいま!」
時刻はとうに低い音を奏でているが、未だ城下の——ミュゼル全体の大騒ぎは続いていた。
アリエラは膝の上で両手をぐっと組んでいる。”冬”ともなれば相当な冷え込みになるが、彼女が凍りついたように全身へ力を込めているのは寒さのせいなどではなかった。そうでもしなければ今にも走り出してしまいそうなのだ。
(いけません。もう、私の不注意からあんなことは繰り返さない)
自分を諌めるそばから、別の自分が語りかける。
(でも)
(ちがう)
(自分だけ)
次々と湧き上がる言葉に聞こえない振りをした。こんな自分にもできる仕事があるのではないかという甘い期待を、考えなしに行動する体を無理やりつなぎとめるように。アリエラはきつく握った両手へ碧玉の視線を落とした。
このような事態にかならず生じる不届き者を留めるために警備騎士を各所へ配し、同じように要人警護任務の騎士を魔獣討伐へ配し。今いちばん大切なことを優先した結果、アリエラの警護は城付きの衛士が務めている。だからこそ普段よりも気をつけなければならない。
(ここから一歩たりとも動いてはいけません。私にはそれしかできないのですよ)
何しろ事が事であるため彼女は自分の行動を律する。下手をすれば、ほんの些細なことからミュゼルが滅ぶかもしれないのだから。
(あぁ、そうでした)
ふと、アリエラが視線を上げる。その先に立つ2人の衛士たちに、彼女はどことなく覚えがあった。
「……あなた方も私も、こういった場面に縁があるのかもしれませんね」
いくら城勤めとはいえ普段は決して会うはずのない両者だが、表情と視線から、彼らとは特に親しくないアリエラにもその意思は読み取れ得る。
「大丈夫ですよ。”アレ”はイチハに力があったからこその選択でしょう? わかっています。今の私は、ここを離れたりはしません」
「ご無礼を」
それが今までの積み重ねからくる疑念だったことは、誰よりもアリエラ自身が自覚していた。弱く微笑むと緩く首を振る。
「いいえ……いいえ。大丈夫ですよ。あなた方の心配も理解していますから」
ホッとしたような彼らの存在も、アリエラが抱く苦い心境の一因である。
彼らは以前に”イチハ=キサラギの部屋”を警備していた衛士である。それとなく周囲から知らされたことによれば長い間この城に勤めているはずなのに、アリエラはイチハを通してしか彼らを知らなかった。
名前も、顔も、人間性も。今この場で何を思ってアリエラを護っているのかも。
(私は一体、何をしていたのでしょうね)
部屋を抜け出して城内を歩き回り、現実を見ていた”つもり”だった。しかしそれは所詮”つもり”でしかなかったのだ。
衛士でしかない彼らならば覚えていなくとも納得の余地はある。だがアリエラは、人数が少なく自分に関わりのある騎士たちですら全員を満足に覚え切ってはいなかった。その事実が、どこまでも狭いまま維持した彼女の世界を嫌というほど見せつける。
目を伏せてきゅっと唇を噛みしめる王女へ、衛士のひとりがぽつりと呟いた。
「あの方も、決して強くはありませんでした」
「え?」
何気ない言葉へアリエラが振り向くと、どこか懐かしそうな、遠くを見るような目で衛士は語る。
「我々がお守りしていた間に度々、部屋で泣いていたようです。扉を開けば常に”普段通り”でしたので、我々の他にこのことを知っている者はいないでしょう。……おそらく、デリラ家の侍女の方を含めて」
ふと口を閉ざすと、さらにその相棒が言を継いだ。
「力を持っていても、それに振り回されるくらいには弱かったのではないでしょうか。それでもご自分の立ち位置は変えなかった。果たしてそれが良いことかどうかは、我々にはわかりませんが」
衛士たちがアリエラへ注ぐのは、慰めも同情もないただの視線だった。
「恐れながら、申し上げます。できることを間違えないでください。アリエラ様の動くべき時は今ではありません。だから、今ここにいることを苦しく思う必要もありません」
「それまではどうか……今度こそ、我々に守らせてください」
彼らの真摯な声に碧の目が見開かれる。一介の衛士が王女に対して説教をしている無礼など、頭の片隅にも上らなかった。
(あぁ)
苦いものを飲み込んだ夏の日から、いつだってあの背中を追っていた。自分と変わらない年頃に見えて、本当はずっと大人のその背中を。本気で威圧する父とまっすぐに向き合える強い背中を。ウィンやレイラ、ルクレツィアと並び立ち、アリエラが追いつけないほどに遥か前を走るその背中を。
いくらアリエラでもとうの昔に気づいていた。イチハが本当は、自分と1つ2つしか変わらない年などではないことを。公務として社交界に出ているアリエラが、人を見る目を狂わせることは無い。
けれどアリエラは彼女の訂正を振り切った。近くにいて欲しかった。歳も、背も言葉も、いる場所も近いならば、友達のままでいられると思っていたから。
(でも)
ちがう。そんな幻想は”ホントウ”にはならない。彼女を真正面から見ているようで、本当は何にも見えていなかった。対等になるなどと言いながら、イチハとレイラから砂糖菓子のように甘やかされる優しい関係に満足していた。
彼女もまたアリエラと同じように悩み、間違え、それでも走っているのだろう。
”自分にできることをする”という意志こそが武器になると黒い瞳の魔女から教わった。”決して届かなくとも諦めない”という強さを灰金の騎士から教わった。”自分だけが何もできない/力がない”という思いは未だ根強いが、それは思い上がりだと姉上に教わった。
(あなたも、間違っていたのですか)
アリエラが助けられた事件での行動は、確かに”正解”だったかもしれない。しかし裏を返せば、この2人の衛士たちにとっては”間違い”だったのだ。守るべき者が彼らの腕をすり抜けて、自分から死の淵へ飛び込んだのだから。
イチハに戦う力があったことは衛士たちにとって結果論でしかない。あの瞬間の彼らはイチハに裏切られたとも言えるのだ。
(ならば)
今この安全な場所にいることを”間違い”と思うアリエラがいたとしても、誰かにとっての”正解”になり得るだろうか。今まさに酷い怪我をしているかもしれない民や衛士、騎士たちに顔向けはできるのだろうか。
(安心してこの場所にいることは、できません。ですが自分を責めて満足することもまた、自己満足でしかないのでしょうね)
まだ何もしていない。まだ彼女の”結果”は出ていない。戦の場で何もできないアリエラがなりふり構わなくなるにはまだ早い。
(今は耐えます。耐えなければ、いけません)
きつく瞑られ再び開かれた碧玉は、先ほどまでよりも一層鮮やかに輝いている。衛士たちはそっと微笑んだ。
——その時。
「アリエラ様!」
「——っ!」
1人は弾かれたように窓へ駆け、1人はアリエラの腕を引いて自分と相棒の間へと動かした。”それ”に乗じる者の有無を考えての、とっさの行動だった。
圧倒的な力。息が詰まるほどのそれが波のように押し寄せて通り過ぎたかと思うと、その直後には空を無数の光の筋が流れていく。罠などではあり得ない。”唯人”には手の届かないほど強力な力の流れであった。
(あぁ)
見る者が見れば恐怖すら覚えるその現象の中、アリエラの頭に浮かんだのは、いつか聞いた異世界のおまじないだった。
(これが本当に”ながれぼし”かは分かりませんが)
はっきりと尾を引いて流れるたくさんの光の筋は、聞いていたものとは違うように思えた。しかし彼女はじっと見つめたまま祈り続ける。黒の瞳と飄々とした声が過ったが、それでも祈りを止めようとはしなかった。
「そう、ですか」
光たちが生まれた方角を、アリエラの部屋からでは見ることができない。自らが発した呟きにも気づかずアリエラは笑う。ぽっかりと穴が空いてしまったような胸の内には蓋をして、歪んだ目元は知らないふりをして。それは衛士たちも同じようだった。
旅立ちの良き日に泣いていては、笑われてしまうだろうから。
新節5日の低い音1刻、世界中の人間が戸惑いとともに勝鬨を上げた。空から降ってきた光により召喚獣が消え失せ、ようやく人々は安らかな夜を得る。
城下から届く喜びに満ちた叫び声を聞きながらアリエラはそっと立ち上がり、衛士たちを伴って私室を後にした。彼女に”できること”や、あるいは”するべきこと”と戦うために。