幕間 勇者、あるいは悪魔の生まれたとき
最後に見たのは悲しいほどに白い雪と、この世で最も大切にしているものだった。綺麗な黒い瞳の妻と、可愛い可愛い、小さな手の息子。
幸せにしてあげられなかったな、と、彼はぼんやりと思っていた。
薄暗い部屋の天井を見つめて“彼”はただ呆然としていた。横を向けば視界に入る床には、彼が見たことも無い大きな円状の紋様が描かれている。それが何らかの力を秘めていることは一目でわかった。
その円をぐるりと取り囲む兵士がいて、彼らに守られるようにして立派な衣の男がいる。頭が痛い。彼は左手で額を押さえた。
(地下か?)
彼がそう思ったことは自然である。石造りでしっかりと作られた部屋には明かりが少なく、しかし窓が無い。空気の流れもあまりよくないことも判断材料として大きい。飾り気のない壁には、場違いに思えるほど大きな鏡が1枚かけられている。何かの儀式に使う者だろうと彼は判断した。
(なんだ?)
その鏡から少し離れた位置で、立派な衣の男が何かをわめいている。耳に届いてはいるがその意味が理解できなかった。戸惑う彼に追いつくように、ようやく脳が音を分解して意味を成す。
――この男は、いったい何を言っている?
その戸惑いは先ほどと同じ言葉で、しかし全く違う意味の疑問を生んだ。戸惑いから何の反応もできない彼に焦れたのだろう。立派な衣の男は妙に甲高い声で騒ぎだした。
「何とか言ってはどうだ、家畜風情が! この私のために働くなどという名誉なことは2度と無いぞ!」
耳障りな声をどうにか聴きとると、要するに彼を従えたいのだと分かる。この無力な男を、言葉通り家畜として。どういった仕掛けなのか彼には理解できないが、言葉さえ捉えれば後はどうにでもなるのだろう。理解はできなくともそのような手段があることを彼は熟知していた。
2度はない、とは言っているが、立派な衣の男が自分に反抗する者を許すほどの度量を持っているとは思えない。断れば命を奪われるのだから確かに嘘ではないのだが。
しかし男はあるか無いか程度の微かな微笑を浮かべた。そんな面倒な手順を踏まずとも、彼は右手と左手を奪われた無力な人間なのに。なぜ自分のような者を従えたいのかと。
――無力?
脳が再び、チリッと騒ぐ。そして彼は気づいた。その身の内に渦巻く強大な力に。
(皮肉なものだ)
“力があれば”と彼は嘆いた。力があれば大切なものを奪われずに済んだ。愛する妻と子供を奪われ、あまつさえその“代価”を、まるで施しのように地へ放り投げられることも無かったのだ。全てを跳ね除ける力があれば。
その上でさらに“代価”がこれとは、あの領主という名の悪魔は、一体彼ら家族をなんだと思っていたのだろうか。それが純粋に疑問だった。
(ちからがあれば)
力があれば、逃げることもできた。
(ちからがあれば)
無様に地へ転がされ、体を失うことも無かった。
(ちからさえあれば)
不安定な力しか振るえない“できそこない”でさえなければ。大切なものを、その心ごと守ってやることができたのに。その力は。
――今は、ある。
動かないはずの右手が強く握りこまれ、握りこんだ“代価”――安い緑柱石が手のひらを傷つけた。それでも力を緩めず、それが体内に埋まってなお痛みよりも疑問よりも、内側でごうごうと渦を巻く激しい衝動を見つめる。
緑柱石の代わりに失った優しい瞳と小さな手だけが微かに過り、消えていった。もう届かない。例え届いたとしても、恐らく後戻りなどできないほどに傷つけられているはずだ。
あれもまた目の前の男と同じく、自分へ刃向う者へ躊躇わず力を振るうだろう。それは右腕と左足を潰された自分こそがよく分かっている。そして自分の家族たちがそう簡単にはあれに従わないことも。
――ならば、奪ってしまえ。
――こんな無力な体なら、もういらない。
――奪ってしまえ。
――新しい体を作る力を。すべてを。
心からの意思に身の内の力が応えた。紅く染まった緑柱石が、彼の右手の平でチカリと不気味に光る。
――捨ててしまえ。守れなかった“自分”など、もういらない。
“失った”ことは、分かる。訪れた災厄に食い尽くされたものが自分の家族だけなのか、それとも禍が村全体にまで広がっているかまでは分からないが。
決して不幸ではない。しかしこのような状況に落とされてなお全ての無事を信じられるほど、隠れ里に生まれた彼の人生が幸せに満ちていたはずもなかった。“彼”は“彼”であり、全てが幸福に進む英雄譚の主人公ではないのだから。
しかしせめて、彼の生まれた場所が違えば。時代が10年違えば。これほどの悲劇は起こらなかったのだろう。
それは存在しなかった“もしもの話”である。貴族たちが全員腐りきっているわけではない。しかし彼にとって、あの狭い村とそれを取り巻く環境だけが唯一の世界だった。
――死ねない。死ぬわけにはいかない。
――例え無事でなくとも、いつか迎えに行くために。
――力を、力を、力を。
一言も言葉を発しない彼に、怒りを覚えた周囲が次第に口汚くののしり始める。制約のために彼らは円へ足を踏み入れることができないが、それさえなければ手にした武器で小突いているだろうことはその顔で分かった。
それでも彼には全く関係のないこと。
「おい、聞こえているのか!」
「王のお言葉に応えないか、この家ち」
ゴウ、と、音のない音が響いた。空気は揺らがないまま、しかし何かの流れが室内をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、押しつぶして、一点に収束する。逃げようとした者たちは当然いたが、背後から何か“大きな獣”のような影の爪や牙で切り裂かれている。ゆっくりと状態を起こした“彼”の、歪んだ笑みを形作る口元が鏡には映っていた。
「あ……あ、あ、あぁぁっ……!」
“それ”が静まった後に残ったのは立派な衣の男ただ1人だけ。“あった”はずの肉や鎧、血の1滴すらその場には残っていない。まるで大きな獣がすべてを丸のみしたように。ただ、気持ちの悪い空気だけが澱んでいた。
――カツン、カツン
石を叩くかかとの音がして、立派な衣の男はいっそ気の毒なほどに震える。鏡を見ず、部屋の中心を見ず、必死に目を逸らし続けてきたのだ。しかしそれも限界である。視界の隅に影が伸びた。
「あれ、もしかしてザコなりに魔力あったのかな。消さないで食べてみれば良かったかも」
恐る恐る振り返ればそこには召喚した“家畜”とよく似た面差しの、しかし瞳だけは濃茶から黒い色彩へと違えた少年が1人で立っている。ありふれた茶髪と市井にいるには整っている程度の容姿という何の変哲もない少年だが、それがこの異常を作り出した本人であることは、立派な衣の男には疑いようも無かった。
もはや兵はいない。彼らを消された怒りはない。むしろ、自分を守る盾や捨て駒が居ないことこそが立派な衣の男を不安と恐怖に陥れていた。
「そんなに怖がらないでよ」
“少年”はわざとらしいほど優しく笑う。入れ替わった世界は彼にすべてを理解させてくれた。怯える必要も怒りに震える必要もないことを。そして、慈悲を与える必要すらないことも。怯えるあまり歯を鳴らす男へ少年は小首を傾げてから頷く。
「うん、いいよ。協力してあげる」
ただし、と笑うのは、立派な衣の男が自ら生み出した悪魔である。するりと傷ひとつ見えない右手を伸ばすと勢いよく握りこみ、それと同時に床の一部が砕け散った。それは“家畜”の言葉尻をとらえ、隷属させるための紋様の一部だった。
すべてを見透かされている。小賢しい罠や策もすべて。用意した大小様々な仕掛けがただ1つを残し、瞬きの間で悪魔により全て破壊されていた。
「代わりに僕も欲しいものを貰うけどね。いいよね別に? だって、いっぱいあるんだから」
立派な衣の男には、どこから何を間違えたのかは分からない。しかしただ1つだけ、自分が途方もない“失敗”をしてしまったのだということだけは理解した。帰ることのできない一本道を暴走してしまったのだと。
(簡単には殺してあげないよ。精々僕を楽しませてね?)
意識の奥底にいる“彼”の賛意を受け取り“少年”は無邪気に、残酷に、歪んだ笑みを浮かべる。“彼”は“少年”になったが“少年”は“彼”ではない。しかしそれは些細なこと。
望んでいることは2人とも同じなのだから。
「さぁ、楽しくいこう。あぁそうそう。良いよ別に、国民のミナサマには自分の都合の良い様に広めてくれてさ! 僕もそっちの方が楽しいしね」
がたがたと震える立派な衣の男のやっとの思いの頷きを嘲るように見ると、くるりと身をひるがえして“少年”は鏡を向く。そしてにっこりと笑うと近づき、おもむろに触れた。
「これはいらない物」
最後に残っていた仕掛け——魔力により粉々に砕け散った鏡を見て、立派な衣の男がさらに青くなったかと思えばその全身から力が抜ける。広がる液体を含めた男の存在全てを汚物であるかのように見やる“少年”の意識の中。
“少年”には聞こえないほどの音量で“彼”は呟く。その表情はむしろ“少年”よりも歪んでいた。
――どこでもいい。誰でもいい。この身が討たれるその日まで。
――さぁ、残酷で身勝手な“世界”という檻へ復讐を。
少年の内側で“彼”は嗤う。
それは1人の男が自らの名すら自分の記憶から失うほど、昔々のお話。