第44話 同じ闇空の下で
深い闇色の先に、ちかり、ちかりと、瞬く光がある。それは薄い青であったり赤であったりまたは白であったりと様々な色があるが、それらの色が温度によって変化するなど、この世界の誰が考えただろう。それどころかこの大地のことすaあら分かっていない。空気の届かなくなる範囲までこの大地を離れ、眼下を観察した者もいないはずである。
いや、それは正しくない。この世界には“むこう”とは違い魔術がある。世界を統べる法則が違うならば、星々のあり方もまた同じとは限らない。
「きれいなそら。“ネオン”なんかで汚されてる空とは大違い」
小さな手が伸ばされた。しかしそれもまた正しくはない。“彼”は、自分の目で光で塗りつぶされた空を見たことがないのだから。見たことがないならばそれを比べることなど本当は不可能である。
「でも、見たいな」
それだけではない。正しくないことの中には“彼”の存在そのものも含まれていた。“彼”は子供であるが、正しくは子供ではない。“彼”は“彼”ではあるが、少年かどうかは分からない。
この長い時間の中で衰えては他者から力を奪い、それを繰り返して存在を保ってきたが、元々持っていた“彼”としての情報が少しずつ劣化しているのだ。それは本来別の存在を象っていた力を無理に吸収したため“自分”の情報が薄まったせいもあるが、物質と純粋な魔力との間を行き来しすぎていたせいも否定できない。“彼”という存在が“物質”なのか“魔力”なのかの定義が曖昧になっていた。
“彼”は少年であり、少女であり、女性であり男性であり、老人であり老婆でもある。もう、今となっては失われた情報に価値などない。“彼”が“彼”として存続すればそれでいいとすら考えていた。しかしその時間も残り少ない。首筋が疼いた。
「あーあ、ほしいな」
くすくすと笑って“彼”は後ろへ倒れ込んだ。背中へ食い込む何かがあっても全く気にせずに。むしろ感覚などすでに失われていた。
まぶたを閉じれば様々なものが見えてくる。まるで荷物か何かのように人を詰め込んだ大きな金属の箱がいくつもつながり、滑るように動き回る映像。小さな板を押すだけで様々な結果をもたらすたくさんの仕掛け。そして“こちら”ではありえないほどに精緻な絵がたくさん排出される箱など。見れば見るだけ、何から何まで違う環境は“彼”の好奇心を刺激した。ほしい。あれもこれも、気になるものすべてをこの手に収めたい。
「でも、まだ、足りない」
そう。その場所へ行くだけならば可能だろうが、その場所を手に入れるにはまだ足りない。その場所で存在を保つだけの出力が無い。風景、知識、情報。何より力。この世界を蹂躙する程度はたやすくとも、奪った記憶だけの場所への道を作り出し、自分の存在が変質しないよう保護して力を保持することは難しい。だから。
「早く、早く」
だから、持っている者から奪ってしまえばいい。少し魔力が増えたくらいで不安定になるほど未熟な“異界渡り”から。たくさんの知識を持ちながら使いこなすことができない愚かな“異界渡り”から。“変換”を経験したためか自分に驚くほど似ている魔力を。反射的に手を伸ばそうとして横取りされた獲物は、見れば見るほどに魅力的だったのだ。
“彼”が目をかけた相手は順調に近づいてきている。その心をじわじわと、不安と責任感で蝕みながら。相手の状況を知る程度ならその一部を身に宿した“彼”には造作もないことだが、相手も同じだとは“彼”は考えていない。何せ未だヒトでありたいと思い続けているようで、魔力の扱いに苦労している有様なのだから。精々がこちらの現在地を探ること、こちらの状態を探ることくらいか。それも精々が何となくという程度で。
「早く、堕ちておいでよ」
結局、相手もまた“彼”と同じなのだ。この世界に落とされた異分子。本当の意味での理解者を得ることなく、その心を不安で塗りつぶして、やがて狂っていく。少しの悪戯心で用意した不安をあおる仕掛けも問題なく作動しているため、このまま彼がじっと監視している必要もないだろう。心の均衡を崩す瞬間が待ち遠しい。
「だって、僕はほしいんだから」
再び伸ばした手は白く、柔らかく、小さい。同時に、しわだらけで、皮しか残っていないような、老いて乾いた手が見える。握りこんだときに幻影は消え、代わりに魔力の光が立ち上った。“彼”の周りの広い範囲で光が舞っている。しかしその幻想的な風景を、場の主はチラリとも見ない。“彼”にとって最早それはどうでもいい現象なのだ。
「だから、準備しようか」
まぶたの裏に見えるのは、聞こえるのは、巨大な魔法陣の描かれた石の床と大鏡、自分を取り囲む人間たち。血しぶきと悲鳴と逃げる背中。それを嬉々として切り裂く獣の爪と、自分の前に集まってくる膨大な量の魔力の記憶に歪んだ笑みを浮かべる。
目を閉じた“彼”が浮かべた笑みは、記憶の中の大鏡に映る表情と同じものだった。“彼”自身は自覚できなくとも、記憶だけは確かにそこにある。
「最後まで付き合ってもらうよ、お姉さん」
楽しげに反らされた少年特有の細い首筋に、漆黒の痣が一瞬だけ浮かび上がった。
――夜は、まだ長い。
深い闇色の先に、ちかり、ちかりと、瞬く光がある。だが黒も紫も、もしかしたら水色や茶色ですらそんなことを気にしてはいなかった。
――もう貴女は、還る方法を見つけているのでしょう?
苦笑したままの童顔が凍りついたように固まる。義妹のそんな様子に、ウィンは確信を得た。
(言うべきか、言わないでおくべきだったのか)
ここまでの道のりで悩みに悩んでも結果が出なかったことである。しかし言わないままでいられるほど、彼はこの焦げ茶の髪の魔術士を本当はどうでもいいと思っているわけではないのだ。
性格の合わない小娘。彼の周囲をかき回す迷惑な人材。そして自分がどれほどの迷惑を押し付けても心が痛まない存在。そんな彼女はいつの間にか彼にとって、少なくとも“得体のしれない他人”から“信頼はできる仲間”には変化していた。
(信用は、していません。そうすれば本当に必要な時に、ミュゼルのためと切り捨てることができなくなるでしょうから)
ウィンは、自分が一度懐に入れた存在への情が深いことを自覚していた。それは父であり、アーサー王であり、サーシャである。幼馴染のために“イチハ”を切り捨てようとしたことが遠い日にあった事のようだ。一葉の力を信頼することはできる。彼女が隣にいるならばウィンは彼女へ後を任せ、細かいことを気にせず大きな術を使うことができるだろう。
たき火によるレイラとサーシャの影が、ウィンの視界の隅でゆらりと揺れている。瞼を落とし、そして押し上げ、まっすぐに一葉を見た。
「この世界にいなければ、私たちが戦いを強制することはどう足掻いてもできません。私程度ならば貴女にはどうにでもできるでしょう? 選択肢はいくつもありますよ」
いつでも還れるという事実を言わなかった彼女の真意はウィンには分からない。それに、彼の口から“還れ”とは言えない。それはミュゼルを彼の手で見捨てることと同義だから。しかし今を逃せば、そう簡単に一葉が還ることはできなくなることは確実だった。この作戦が成功すれば余計に。
ウィンは表情に出さないまま、内心で自嘲した。
(ここまで選択肢を提示してこなかった私たちが言うべきことではありませんが)
一葉という“人間”は、精神的な束縛が驚くほど効いてしまうのだ。“召喚士”を首尾よく倒して帰っても、今度は縁を利用して国の良い様に使われることだろう。こんな風に誤魔化しながらの言葉がウィンにできる最大限の譲歩だ。何もわざわざ正面から戦わずとも、彼女の力量ならばウィンを強制的に眠らせるくらい造作もないのだから。ウィンさえどうにかしてしまえば“眠っていて何も聞いていない”2人をどうにかする必要などない。何の声も上げないことが彼女たちの答えだろう。
ウィンの内心を知ってか、まるで仕方がないとでも言うように一葉は驚くほど柔らかく笑った。
「やっぱウィンは目ざといなぁ。うん、還れるよ。目印を置いてきたから、魔力還元をどうにか抑え込めば今すぐにでも。あっちで魔力を使えるかは分からないけど、使うことはないからね。暴走とかの危険も少ないし」
置いてきた、自分の力を含ませた赤いコイン。あの両親ならば言葉にしなかった何かを受け取ってくれたはずだ。目印があり、しかもそれが自分の部屋ならば、転移など造作もない。家具の中に体を実体化させて体や家具を損なうような間抜けなミスなどあり得なかった。
でも、と、笑ったまま彼女は首を横に振る。
「まぁ、さ。元の世界にいてもたぶん見つかるし。さっきも言ったけど魔術なんか無い世界だから、戦うことになったら勝っても負けてもそのあとが地獄でしょ。人間は“異常”を排除するイキモノだって、私は実地で勉強してるよ」
「はい」
それは最初から一葉が言っていたことである。貴族社会で生きるウィンには嫌というほど理解できるその性質は、人間が社会を作っている以上はどこであれ変わらないのだろう。
「こっち以上に、社会に関わらないで生きるってことが難しい場所だから。できる限りこのままここで決着をつけられた方が私も嬉しいんだ。大体こんな刺青を入れたまま帰ったら家族が心配するし、父さんの前にまず弟にぶっ飛ばされると思うしね」
冗談めかした様子で首筋を示す一葉へウィンは苦笑を返した。
「そう……ですか」
どうやら余計な世話だったらしいと思ったウィンだが、正面の笑顔でそれを思い直す。彼のどの言葉がきっかけだかは分からない。しかし一葉は、とても嬉しそうな顔をしているのだ。ウィンが何かを言う前に普段より幾分柔らかな無表情へ戻し、一葉はたき火へ小枝を投げ入れる。
「危ないのはお互い様でしょ。私が還ったとしたら、まずは手近なところから消されると思うよ。それは多分、ちょっとの努力じゃどうにもならない」
「はい」
言葉を誤魔化したところで意味など無い。何の抵抗もなく頷いたウィンをからかうでもなく、一葉もまた頷いた。
「……それに、ね」
しばらく無言で火を見つめていると、焦げ茶の髪の魔術士はぽつりとつぶやいた。会話が終わっていたと思い込んでいたウィンは驚いたが、それを表情には出さずに紫眼で先を促す。視線の先で困ったように、一葉は目元をくしゃりと歪ませていた。
「前にレイラさんから、“あなたの眼には、この世界に『色』がついていますか?”って聞かれたことがあるんだ。何にも答えられなかった。それどころか、こんなに頑張ってるのに何でそんなこと言われなきゃいけないんだって思った。それがショックだった」
何も言わない銀髪の義兄へ義妹は笑う。
「一生懸命やってきたつもりだけど、前の世界でもこの世界でもどこか他人事だったんだなぁ私。下手したら自分の生まれた世界でも、そうだったかもしれない。他人に踏み込まないで、自分も傷つかない。それで良かったしそれが楽だったんだ。でも」
たき火の光が映っただけのことだろう。それを分かってたとしても、黒の瞳は驚くほどきれいに輝いていた。
「ここで“他人事”に逃げたらなんかダメな気がするんだ。だから還れることを言わなかった。いつでも逃げられる私じゃダメだったんだ。ほんの少しでも私はこの世界で生活してて、誰かと話してたんだから。どうせ命を懸けるなら、そんな“誰か”を助けてもいいかなって。そう思うよ」
――心配してくれてありがとう。
無表情で、目元を和らげている。それはいつもより気を緩められている彼女の顔だが、それをじっと見つめていたウィンはため息をついた。サッと立ち上がると一葉の隣へ移動し、寝ている2人を指した後に唇の前で人差し指を立てる。
「遮音の術を。警戒のため、外側の音は聞こえるようにしておきたいのですが」
「もう、できるかどうかすら聞かないんだね……いいけどさ。『サウンド・ミュート』」
小枝を折ってもサーシャたちの反応が無いことを確かめると、それでも小さく抑えた声をウィンは投げる。その表情は真剣そのものだった。
「お節介ついでに、もう1つだけ」
言うべきか、言わないでおくべきか。先ほど浮かべていたものとは比べ物にならないほど深い苦悩の表情ののち、ようやくウィンは唇を開いた。
「そのまま内側にため込まれても厄介ですから、聞いておきますが。貴女は、今度はいったい何を恐れているのですか?」
今度こそ空気が凍りついた。何かを言わなくてはならないが、一葉の唇はから回るばかりである。硬くなった頬を手のひらで揉んで誤魔化して、しかし上手くは誤魔化しきれずに一葉は声を掠れさせた。
「参ったな……」
「何がです?」
「まさか、それが分かるとは思ってなかった。上手くやれてるつもりだったのに」
苦笑を浮かべようとして失敗したような歪んだ表情を浮かべている。ウィンは言わなくても許してくれるだろうが、しかし言わずにいるためにはもう何かが決壊している。
本当はずっと誰かに話を聞いてほしかったのだと一葉は気づいた。その誰かはサーシャやレイラ、アリエラやアイリアナのような“優しい”ひとではない。
「サーシャとレイラ殿は気づいていないと思いますよ」
「伊達に一番長い付き合いじゃない、ってことか」
「慣れてみれば貴女は案外分かりやすい。何かが心に残っていると雰囲気が変わりますからね」
「それって、気づいて構ってほしいって思ってたのかなぁ」
深く深く、先ほどまでの和やかさを打ち砕くような息を吐き出して、小柄な魔女は肩を落とした。俯いた頬に焦げ茶の髪がかかる。隣に座るウィンからはその表情が見えなくなった。
「私って一体“何”なんだろうね」
ぽつりと落とされた囁きの真意が分からない。しかし口をはさむようなことをせず、頷きだけでウィンは先を促した。
「私は“召喚士”の位置とか、状態とか、言葉にできないけど何となく分かる。相手は私についてもっと確実なところを把握してると思うんだ」
これのせいで。ぎりりと奥歯を噛みしめながら一葉は首筋の“黒”を示した。
「そうらしいですね」
「でもそれって、異常でしょう」
突然の結論へウィンが首を傾げ、銀の髪がさらりと流れる。予想していたその反応に一葉は頷いた。
「分からないよね。私だって、他に同じようなヒトがいないから詳しく理解してはいないよ。でも、これが異常だってことは分かる。相手の魔力を感知できる距離なんか余裕で通り越してるのに、それでもアレを“把握できる”なんて。そんなの普通じゃない」
確かに、一葉の言うことはもっともである。周囲よりもはるかに大きな魔力を持ち、才を磨いてきたために感知能力にも長けているウィンでも、同じ王城にいてすら平常時の一葉の魔力を“一葉の魔力”として見分けることはできないだろう。
人の歩く速度で5日の距離があってすら相手を把握できるなど、一葉を知らなければどのような化け物かと思ったはずだ。
「サーシャさんたちには“私にも向こうのことが分かるからラッキー”なんて強がってたけどね、ホントはそんな余裕なんか無いんだよ。怖い。私は生まれた時から“人間”のつもりなのに、1秒ずつ作りかえられていってる。いつの間にか“私”じゃなくて何かわからないイキモノになってる気がして怖いんだ」
顔を上げると、一葉は今にも泣き出しそうに目元を歪めてウィンを見つめた。
「ねぇ、私は“人間”だよね? アイツとは違うよね……!? 怖いんだよ。召喚されるたびに、異界を渡るたびに“私”の情報が流れ出してるのが分かるんだ。何も知らなくても直感でね。失くした情報の穴を埋めてるのは私の魔力だけどそれは“私”そのものじゃない。いつか気づいたら私は如月一葉じゃなくなってるんじゃないかって……!」
アーシアでのことがウィンの脳裏によぎる。そしてつい数日前、国境を越える時の彼女の姿もまた。ずっと違和感があったのだ。自分以外の状態が何となく分かるとはどういうことなのか? 自分の体が魔力に還元されそうになってもアッサリと事態を説明できるのは果たして本当に冷静だったからなのか? 他人の魔力が自分の中で暴力的に渦巻いている状態とは――?
「ねぇ、気づいてる? 私、ここにきて半年以上たつけど、ひと月に1センチどころか1ミリだって髪が伸びないんだよ。ホントは“焦げ茶の髪”じゃない。もっと暗い色なのに。染め直してないのに変わらない。髪の毛も切ってない。
怪我だってそう。ひと月も目を覚まさなかった瀕死の人間が、意識が戻って半月そこそこで普通に戦えるようになる? いくら腕のいいトレス先生だって、そんなに早くは治せないでしょう? たとえ出来たって体に無理させてるんだから結局はそこまで動けないはずでしょう!? だったら私はっ!」
絞り出すように声を上げ、押さえても激しく震える華奢な肩を見てようやくその違和感の正体が分かった。一葉は自分の中に生まれた恐怖や戸惑いを棚上げして、目を背けていただけなのだ。自分という存在の情報を失ったことのないウィンには理解できない恐怖である。しかし現に一葉は怯えていて、自分の腕を白くなるほどの力で握った手が震えている。
どれほど忙しくとも、どれほど距離があろうとも、応急処置以外では絶対に他の医者へは行かないよう手配していたらしいと聞いていた。何と面倒なことをと思っていたが、それは一葉が他の医者から無遠慮な視線を受けないよう守るためだったのだと、今なら分かる。
「サーシャさんにもレイラさんにも言えないよ。アリアなんて絶対無理。優しくなんてされたら、私は多分崩れ落ちる」
必死に目をそらしてきた恐怖だから、優しくされたら直視してしまうだろうと。その結果今まで積み上げてきたものが崩れ落ちるのだ。
何と面倒くさくて、不器用な義妹だろうかとウィンは思う。
「誰もいない村を見て思ったんだ。ここにいる私は誰かの想像の中の私で、本当はいないんじゃないかって。もしかしたら世界には私だけで、ウィンたちも私の作った妄想じゃないかって。魔力がイラついてるし、これがあいつの嫌がらせだって分かってる! 不安になるだけ無駄だって! でも」
唇をかみしめると表情をくしゃりと歪め、弱々しい声を絞り出した。
「ねぇ、私はちゃんとここにいる? 私は、一体誰……?」
か細い問いかけは冷えた空気に流れて、しかし一葉自身の魔術に触れて消えた。やがて、しんと耳を刺す静寂を破って小さく息を吐いた音が一葉の耳に届く。
「貴女がレイラ殿の言葉を口にしたように、私もまた貴女自身の言葉をお返ししましょう。正直、今の私には貴女を受け止めてあげることができません。自分のことで精いっぱいです」
自分から悩みを聞いてきた癖に突き放すような言葉を突き付けられて、さすがの一葉もぎゅっと眉を寄せて声を荒げようとした。
「あのね、ウ――」
「ですが」
力強い声に気圧されて口をつぐむと、思いのほか柔らかい仕草で頭を2、3度軽く叩くように撫でられる。普段からは考えもしない優しげな仕草に一葉は面食らった。
「私から見た貴女は間違いなくイチハです。イチハ=ヴァル=キサラギ。いつもいつも妙なところで貧乏くじを引いて、たくさんの事件に巻き込まれる、フォレイン侯爵家の養女にしてミュゼルの女性騎士。貴女の認識とは違いますか?」
「……ううん、一緒」
どこか幼い口調の一葉へ頷くと、ウィンは何でもないことのように笑う。
「ならばそれでいいではありませんか。貴女が貴女を定義して何の問題がありますか?」
「いいのか、な」
「嫌なら、それはそれでいいと思いますよ。“召喚獣”で人外のイチハになればいい。別に私が困ることではありませんし。どうぞご自由に?」
そのあまりに容赦ない言い方に、しかし一葉は俯き頷いた。
「……そう、だね。私は、如月一葉。いつかその名前を持って帰らなきゃ」
如月一葉とウィン=ヴァル=フォレインは、たぶん鏡合わせの存在。
ウィン=ヴァル=フォレインと如月一葉は、たぶん背中合わせの存在。
優しさから濁された言葉は時に鋭い棘にもなり得る。情はあるだろうが、それ以上に事実を事実として突き付ける厳しさを持つ彼の言葉だから安心できたのだ。逆にウィンが落ち込んでいたとしたら、一葉もまた慰めることはない。それが彼らの距離である。
責めるように首筋が疼いたが、彼女はそれを無視することに決めた。
「当分、何にも考えないようにするわ」
「そうですか」
「お節介」
「そうですね」
「……ありがとう」
「はいはい」
「何回も“はい”って言われるとウザい」
「理解はできませんが、貶されている事だけは分かりました。先ほどまであれ程……」
「ちょっと、途中で言葉を止めないでよ!」
「いえ」
「何その可哀そうなものを見る目! 余計ウザい!」
しばらく下らないやり取りを続けた後、一葉はふと思いついたことを口にする。
「ねぇ、ウィン。ひとつ、お願いがあるんだ」
「まずは話を聞きましょうか」
焚き火に照らされながら、2人は小さな声で意見を交わした。
「その案は私も考えましたが、貴女の状態次第ということで却下しました。それを言いだしたということは――」
「やっぱりウィンも考えてたか。うん、大丈夫。私が何とかする。けど、もし危ないなって思ったら私に知らせないようにそっちで調整して」
「それなら引き受けましょう」
一葉の拍手と共に、たき木の爆ぜる音があたりへ響く。
――夜は、まだ長い。




